コミュニケーション学応用
1.コミュニケーションあれこれ
2.コミュニケーションの定義を探る
3.グローバル化と言う言葉
4.内なるガラパゴス化
1.コミュニケーションのあれこれ
コミュニケーションという言葉はすっかり日本語の単語化しているが、そもそもは日本語ではない。日本の思考と表現の歴史では、コミュニケーションという英語が持つ意味なり概念を日本語の単語で表現するニーズが薄かったために、日本語単語が生まれなかったのかもしれない。関連言語にインフォメーション(information)というのがあり、情報という日本語の単語があてられている。だが、これも日本語古来のものではなく、森鴎外が翻訳した説もあるが、1876年出版の訳書「佛國歩兵陣中要務實地演習軌典」のなかで、仏語renseignement(案内、情報)の訳語として「敵情を報知」が使われたのが始まりと言われている。もともとは欧州の軍事用語である。更に英語にはインテリジェンス(intelligence)がる。CIA(Central Intelligence Agency)のIで、分析・解析・予測を含む情報という意味があるが、この英単語はコミュニケーションほど日本語のなかに溶け込んでいないし、使われる頻度は低い。勉強をしていない学生では説明ができないであろう。もう一つ、熟語ではあるが異文化コミュニケーションという単語のごとく使われている言葉がある。これは異文化(主に外国の文化)との接触に光を当てていることが多く、可なり対象が絞られた用語である。このようにコミュニケーションという単語は広範囲なひろがりを持つものである。
さて、コミュニケーションを学問としてどう捉えているのかの一例を、日本コミュニケーション学界のHPのなかの「コミュニケーション研究とは」という解説文の抜粋で見てみたい。そこでは、冒頭に「コミュニケーション研究は学際的な(interdisciplinary)人間研究であり、ヒューマン・コミュニケーション研究は「人間の象徴的相互作用の性格、過程と効果の研究」と定義している。それには次の十一の主要領域があると言っている。即ち、①記号体系(言語と非言語研究)、②異文化間コミュニケーション、③対人コミュニケーション、④組織コミュニケーション、⑤音声解釈・表現(口頭・身体表現として演ずるために文学を研究するもの)、⑥プラグマテイック・コミュニケーション(論証とデイベート、討議と会議、議会運営、説得)、⑦演説、⑧レトリックとコミュニケーション理論、⑨スピーチ・コミュニケーション教育、⑩音声科学、⑪その他言語学、心理学、経営学等に関係するコミュニケーション研究の十一領域である。ここからもコミュニケーションがカバーする範囲は相当広く、一言集約することはなかなか難しいことが分る。コミュニケーションの定義や性格については後々触れていくが、上記のように人間の相互作用の過程と効果、あるいは発信と応答と単純に捉えると、単に対話術というものではなく、この地球上の人間社会における認識や価値感の共有、相互理解、誤解と行き違い等々も関わってくる。
身の回りでは、家族内でも対話に齟齬が生まれ、家庭が常に安寧ではなく誰かが犠牲も甘受しなければならぬ事態が発生する。社会との関わりでは、ちゃんと納税している者に対する行政のサービスが不十分だと不満が絶えないが、同時に行政の納税者実体の把握、即ち生活現場とのコミュニケーションが出来ていない事に怒りを感じる。しかし怒りの持って行き場所を知らない。毎年主要国首脳会議(サミット)が開催され、日頃の言語媒体を通じたコミュニケーションに加えフェース・ツー・フェースのコミュニケーションが持たれているのに、環境問題をはじめとする世界のゴタゴタがさっさと片付いて行かないのは何故かと疑問を感じる。このように愚痴を並べると、言語を持つ唯一の動物である人間にとっては、それによって得たコミュニケーションというツール(道具)を上手く使いこなすのが難しいもののようである。しかも現代は情報化社会と喧伝され、発信と応答頻度は加速度的に増大しているが、コミュニケーションの質的向上にどれだけ貢献しているのかも定かではない。
私は製造業の組織の中で育ち、組織を率いるキャリアーを過ごすなかで組織内コミュニケーション・情報共有が組織文化形成に大きな影響を与えることを体験してきた。そのなかで、組織内コミュニケーションと事業利益は大きな関連があることも知った。その経緯は拙著「小説 人と企業の再生物語」碧天舎に記述してあるが、このような縁でコミュニケーションに目が向くようになった。以後いろいろな角度から眺めながら私見を紹介してゆきたい。
(H20.9.20 宇多小路記)
2.
コミュニケーションの定義を探る
広辞苑によると、コミュニケーションは社会生活を営む人間の間でとりかわす知覚・感情・
思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒体とするとある。
コミュニケーションは英語である。英語に「.COM」があるから、情報伝達の意味を持つ事は間違いない。communicateとはcommonすることであろうから、「共有する」も含意しているであろう。一方辞書には、communicationを「聖体を拝受する」とも書かれている。逆に、ex-communicationを破門と訳している。communicationが絶たれてしまうのである。一方キリスト教のヨハネ伝福音書に「言葉は神」とあり、言葉によって言い表せないことは存在しないという申し合わせがある。言語媒体以外によるコミュニケーションの存在を認めていない。これ等を見ると、コミュニケーションはキリスト教における神との対話(神への帰依)を言葉という媒介を通じて行なう行為を表現する単語が起源のようだ。司祭への懺悔は世俗的なコミュニケーション行為の一側面なのであろう。広辞苑にもあるが、コミュニケーションの媒介は言葉に限定されるものではないが、人間が何かを言葉を使って考えているかぎり主体は言葉となる。キリスト教が布教活動のなかで、「言葉は神」とまで言葉を重視し、聖書・福音書等の書面で信仰内容の徹底と服従強化を図ったのは凄いことである。一方、この国が言葉を軽視した形跡はない。むしろ「言霊」という単語があるように言葉を大事にしている。しかし、日本草創期には宗教と言っても八百万神で、山川草木悉皆成仏であったし、又文字言語が整備されてはいなかったからロジカルに言葉をつないで考え、文章に表現する作業が深化していかなかったのであろう。それが、現代世界のなかでこの国のコミュニケーション・情報・インテリジャンスといわれる領域の遅れに関係しているのだから、率直にこの国の弱点として認識しておく必要がある。
現在のコミュニケーションの解釈例として、Samover et alが「コミュニケーションは、相互通行的であり、進行的であり、又行動に影響を及ぼすプロセスでもある。ある特定の態度あるいは行動を引き起こす為に、送り手が意図的に記号化したメッセージを受け手に、ある媒介を通して送る行為である。コミュニケーションは、受け手がメッセージに意味を見つけ、それによって影響を受けたときに完了する」(武長修行編著椙山女学園大学研究叢書「文化情報論序説」1999学文社)と説明している。受け手が意味を見つけない単なるお喋りはコミュニケーションとは言わないようだ。しかし、演説の聴取や異文化コミュニケーションのように意味を見つけたが送る行為が直ぐに、具体的に取りくい場合でもコミュニケーションと看做してよさそうだ。ここでは神との関係は触れられていないから、科学技術の発展しつつある現代社会では、論理的合理性が充分ではない神の絶対性を容認するわけにはいかないのである。
後藤将之は著書(「コミュニケーション論」1999.4.中央公論新社)のなかで、「コミュニケーションは個人の認識にたって、言葉を通じて意味を把握するものだと」と定義し、コミュニケーションの定義をより分り易く補足している。コミュニケーションの媒介が言葉に限定にされないことは前述のとおりだが、ここで重要なことは「意味を把握」するプロセスにおいて人間は個人の「認識」にたって行なうと指摘している点であろう。ここでいう認識は、意識や知識なども包含されると解釈すれば、更に価値感などもその一部となる。要するに意味を把握するには個人の持つある種の「物差」が必要であるとのことである。こうなるとコミュニケーションとは大変難しいものになってくる。この物差が発信者の保有しているものと受信者が持っているそれとが長さが違えば、発信者の意味と受信者が把握する意味が同一とはならないからである。これは誤解を意味する。しかも厄介なことに相手の持っている認識・意識・知識・価値感そして物差をきちんと把握することは容易ではないし、更にそれに正確に合わせてメッセージを送ることは一層困難なのである。
(H20.9.30 宇多小路記)
3.
グローバル化と言う言葉
日本語の文字は漢字、ひらがな、片仮名等から成っている。歴史的には、文字に意味を込める孤立語の表意文字を使う漢文の影響を受けてきたと思われる。だが、近代になって意味を文字に込めないまま片仮名で表音記述することが、主に欧米語の導入において頻繁に行われるようになった。コミュニケーションなる言葉もその例で、意味は後付けになっていることを別なところで言及した。もともと、マイナーな膠着語系の日本語を使うハンデイキャップを抱えているのに、外国語の意味をきちんと日本語化せずに使い、且つ日本語で考えながら国境の外とコミュニケーションをすれば、異文化交流時に相手の理解の妨げとなる恐れもある。
流行のグローバル化という言葉にも意味のとり違いがあるようだ。マスコミ論調や世間の風潮は、自分を変えて世界標準に合わせることと解釈しているが、ちょっと違うのである。例えば、ISO規格を世界の全てが受け入れているわけでないから、世界標準とは言い切れない。とかく米国標準を世界標準と取り違えている事も少なくない。グローバル化即ちグローバリゼーションという言葉は英語の辞書にはない。それに準じたものにglobalizeがあるが、世界に合わせると言った受身の意味はなく、世界に働きかける、広めるといった能動的な言葉である。そもそも自己の文化・価値観を変質させて、他人のそれに合わせることなどを安易にやれるものではないし、文化を背景に成り立っている自国の言語を捨てることなど出来ない。出来ないから、内にこもるのでは何をかいわんやだが、どうもそれがこの国の随所に見られるようだ。世界に冠たる我が国の製造業にさえ、その病が蔓延し始めていると言うのである。
ガラパゴス化である。日本独自のツール、システム、更には政治経済の制度までが世界の主流から外れ、特殊な進化をしている事象を一言要約しているものである。震源は、’04/3/15号の日経エレトロニクスが、日本の携帯電話は小さく、世界最高の機能を備え、通信システム技術も最先端だのに、世界市場では全く受け入れられず、孤立していると警鐘を鳴らした記事にあるようだ。巨大企業NTTを相手によくも悪口が言えたと、その勇気に感嘆するが、その後十年近くも経つのに事態は改善の兆しが見られないのは深刻である。世界一と自他共に認められている新幹線,ハイビジョンTV,電子マネー等々と病の深刻度に差はあるが、事例は少なくない。攻めて出る積極的なグローバル化意識と世界の需要家(顧客)とのコミュニケーションによるニーズの把握活動の不足が、そこそこの国内需要とその結果としての事業規模に満足し、安住させてしまっているようだ。ガラパゴス化企業文化とで言えるのであろう。
社会全体までに浸透し始めたガラパゴス化現象を「しゃあないな」と言って放置するわけにはいくまい。高齢化と人口減少による市場と需要の停滞が進み始めているのに、内に籠っていてはまさしく運動不足で活力を失ってしまうし、外との多様なコミュニケーションを欠けば、鬱による社会の病弱化まで心配せねばならない。今年中には、隣の中国は日本を抜いてGDP世界第二位の世界経済大国に成長し、何もしなければ日本は中国の大樹の枝葉に隠されて行くに違いない。この国の卑近にして最大の問題は巨額な債務(財政赤字)を早期に解消する為に稼がねばならないことである。少なくとも経済は世界へ打って出なければならない。嘗て、ジャパンイズNo.1になる過程やその後のバブル崩壊で吸収した苦渋と恥辱の体験・経験から得たノウハウの多くは差別化資源であるし、営々と培った技術と人材の多くも蓄えている。足らないのは、世界の市場・文化・顧客との濃密な異文化コミュニケーションである。野球のイチローや盲目のピアノニスト辻井伸行君に頼っているようではあまりにも情けない。全国民の意識の変革が求められる。それに対して多くの影響を与え得る知識人、政治家、教育者そしてマスコミの奮起が期待される。外とのコミュニケーションには、自己の価値感と文化をきちんと主張し、相手を否定せずに認めつつ対峙することが基本である。それこそグローバル化である。日本語だけでは道具として貧しいから、資格免許的英語ではなくコミュニカテイーブな英語力ぐらいは身に付けたいものである。(H21.6.末 宇多小路記)
4.
内なるガラパゴス化
東北・太平洋沖大震災とその後の原発事故の被災者に心からお見舞い申しあげます。16年前に阪神・淡路地震の被災体験・経験を持つ筆者にはつらい現実である。
十数年の間に日本の東西を襲った天災から学んだ事をどう活かすかは、この国の重い宿題である。しかし、震災発生後の危機対応や復旧プロセスをマスコミで見聞するかぎり、挙国一致のチームワークが発揮されているように思えず、いらいらが尽きない。課題処理を担うこの国の上部組織集団がグローバル化とは逆に、ガラパゴス化しているのが原因と見ている。ガラパゴス化とは世界最高と自我自賛した日本の携帯電話システムが世界市場のニーズをくみ取れず、孤立した現象を揶揄した表現だが、その病がこの国に蔓延しているのである。
上部組織集団とは中央・地方議員等の政治家集団、法律で動く行政の役人集団、マスコミ・評論家・大学教員等の自称知識人集団である。この非常時に、国を引っ張るはずの三集団は国民に目を向け、特に被災地住民の心をくみ取り、共通の目的と目標を示し、共有するコミュニケーション豊かな「場」を提供していない。それぞれがガラパゴス島に閉じこもり、自己保身に汲々とし統治機能を発揮していないようだ。統合参謀不在の戦時である。
政治家集団の本部である民主党政権は国民が選んだ新規採用の国家運営集団だが、早く一人前になって欲しいが、そうならない。政治を担う資質に欠け、人間能力が低い人の集まりかと疑いたくなる。リーダーシップの意識が希薄な上に、コミュニケーション力を高め、組織力を発揮するマネジメント力の不足が著しい。組織率の低い労働組合に縋る同党は、野党時代に冷たくされた経済界や経済界と親密だった霞ヶ関官僚を今は疎外している。一部マスコミの教宣活動に支援されて選挙で第一党になったが、狭い日本の偏った一部の組織に擦り寄るばかりで、創発を生むコミュニケーション豊かな「場」を作るグローバル感性が認められない。ガラパゴス状態である。庶民の「営み」、経済や産業の「営み」そして世界の「営み」の体験・経験による知識に乏しく且つ疎く、グローバルなニーズや価値観を読む能力を身につけないまま国家運営に当たり、多くの国民を失望させている。
行政担当の役人集団も、知的水準の低い政権を戴いてからサボタージュ状態のようだ。国民の血税が支える組織だから、本来の「営み」をネットワークで繋ぎ、開かれた集団として活動してもらいたい。今次災害の危機対応で、自衛隊員や消防隊員の現場力は高く評価されたが、マニュアル人間化し、眼前の目的を見失い、柔軟性と応用力を発揮出来ない被災地の行政(お上)の信用はガタ落ちである。高齢者へ赤ちゃんおむつを配った、何を訊いても本部に問い合わせるからの返事ばかり、指定避難所を信じて波にのまれた・・・。種々の民間企業の現場対応力や一部NPOの活動に習った意識改革が求められる。阪神・淡路地震経験の横展開の成果が欲しい。
衆愚大衆の指南役を自認するマスコミや自称知識人集団は国民の教育と政治家集団や役人集団のレベルアップ責務がある。この国の政治を担うリーダーが低能ならOJTが必要になる。例えば、より多くの政治家を公衆の面前に引っ張り出し、大衆とのデイベイトの機会をもっと頻繁に提供すべきだ。記者クラブなるガラパゴス的業界団体に安住し政権に尻込みするのでは本末転倒だ。被災地住民からマスコミの取材はもうお断りとの声も耳にする。崩壊するマスコミ現場力の再構築も課題である。
今は上記三集団がグローバルな視点で、自律的に良い変革へ向かう気配が見えないから外圧が必要である。直接的には選挙がある。意識変革を期待して衆議院選挙は早くやるべきだ。更に、北アフリカ諸国に学び大衆の意思表示をデモの形で直接役所・官邸や国会等へぶつけて欲しいものだ。同時に被災地へボランチアー参加してくれた弁護士等の応援を得て、行政への損害賠償集団訴訟や株主代表訴訟等訴訟の連発を期待する。
この国の国力を構成する情報力とリスクマネジメント力、政治外交力、真の軍事力等がグローバルレベルで弱体である。民主主義も根付かず後進性が色濃いが、技術力や産業力の強さのみ目立ついびつな国家である。バランス良い国にしたいものである。(2011.6.15宇多小路記)