絵画悠々TOPに戻る
次章(27)に進む
前章(25)に戻る
|

旅にカメラはつき物です。行く先々で素敵な出会いや素晴らしい風景をカメラに収めて帰ります。こうして撮った写真はいずれも
思い出になり、そのときの感動を蘇らせるものです。いっぽう他人が撮ったそうしたj自慢の写真集を拝見させていただくことも間々あります。
しかしその場合、写真から得る感動が撮影した本人ほどではなくて、失礼ながら戸惑うことが多くあります。本人はその写真から、実際に現場
で体験した感動を想い起こしているのでしょうが、当方は写真だけの印象であり、そこに大きな違いがあるからなのです。
このことは絵にも当てはまります。画人にとって、苦労して描き上げた風景画の数々は、どれも愛おしいものです。観る度に現場の感動 が生きいきと蘇ってきます。しかしその絵を他人に見てもらった場合、同じ感動を期待することはできません。他人はその現場を知らないので、
手がかりは絵だけです。それであなたが体験した現場の感動と同じものを感じさせるには難しさがあります。 個人が趣味として書き溜めるのであれば、もちろん自己満足の絵で十分ですが、何らかの形で人に観てもらう絵となればそうはいきません。絵の描き方が変わっていかざるを
得ないのです。
眼の認識能力は不思議です。現場の風景は空間的な広がりがあり、平面的な構図ではありません。目はその広がりの認識から美を感じ、
感動を引き出しているようなのです。だから網膜や感光板に映る単なる2次元のイメージを正確に伝えただけでは、本来の感動が蘇らない
のだと思います。
むしろ絵は観る側の想像力に期待した効果を狙っています。絵は作者に対しては、過去の感動体験を呼び覚まし、記憶をレフレッシュする役割を 果たします。いっぽうその絵を目にする第三者は、同一とは言えないまでも、類似の体験をきっとどこかでしている筈です。勿論構図の細部まで一致するような体験は殆どあり得ないでしょう。しかし感覚的に近い体験なら大いにあり得ます。絵はその記憶を足がかりにして、
観る側の想像力をかき立て、作者と同じ感動の世界に誘います。そこが巧みな風景画の狙いどころと言えましょう。
このことから、風景画の構図は単純明快であるべきと言えましょう。その周辺にある諸々の脇役要素の書き過ぎ、説明のし過ぎは、 絵の焦点を曖昧にし、感動誘発の妨げにすらなり得ると考えましょう。
2011/1
|