1985年(昭和60年)5月2日建立。 合祀者71柱。(1)
「朝日」は明治29年度(1896年)に開始された第2期拡張計画により建造された戦艦である。 日露戦争では、旅順封鎖作戦、黄海海戦、日本海海戦に参加した。 第一次大戦では、ウラジオストック方面作戦に参加した。
ワシントン軍縮条約により、1923年(大正12年)4月1日に除籍され、兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。 1925年(大正14年)4月には、横須賀工廠で釣瓶式の潜水艦引き揚げ装置を設置し、潜水艦救難艦となった。 これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を、反対舷に廃潜水艦を沈錘船として置いてワイヤで結び、沈没潜水艦を浮上させるものであった。 このとき、沈錘船に改造されたのは、第一次世界大戦の戦利潜水艦○一潜水艦(旧U125)および〇二潜水艦(旧U46)である。 なお、〇二潜水艦(旧U46)は横須賀から呉に曳航中、大王崎付近で荒天のため流出・行方不明となり、2年以上過ぎてホノルル沖で発見され、自沈処分されている。 また、1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を搭載し、射出実験を行った。
1937年(昭和12年)には日華事変の勃発により修理艦船の増加が予想されたため、呉工廠で急遽工作艦に改造された。 8月11日に入渠、17日に出渠、18日には呉を出港し、馬鞍山諸島の泗礁山泊地に進出、同地で修理任務に従事、その後は主として上海方面で修理任務に従事した。 本艦の工作艦としての設備は、応急排水と修理程度の貧弱なものであったが、本格的工作艦の明石竣工まで、海軍唯一の工作艦として沈没艦船の引揚げや損傷艦の修理に当った。 開戦直前に仏領インドシナ・カムラン湾に進出。 シンガポール陥落後の1942年(昭和17年)3月に同地に進出、5月まで艦船修理に従事していたが、機材補充のため内地に帰還する途中、カムラン湾南東でアメリカ潜水艦「サーモン (Salmon)」の雷撃を受け沈没した。(2)(3)
艦名は天象または山岳名。 艦名は本居宣長の和歌「しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」からと思われる。 「敷島」に続く艦名であれば「大和」が適当であるが、「大和」は既に艦名として使われていたため、「朝日」が艦名に選ばれたと推測される。(4)
「山霜丸」は、山下汽船がオーストラリア航路に就航させた大型貨物船である。 本船は大洋興業(神戸)が発注し、建造中に山下汽船に売却された。 1938年(昭和13年)6月9日に竣工し、オーストラリア航路に就航していたが、1941年(昭和16年)8月28日に徴傭(一般徴傭船)され、12月31日に入籍、特設運送船となった。 開戦後は南方での輸送任務に当っていたが、1943年(昭和18年)2月15日に特設工作艦となり、トラックやクェゼリンで艦船修理に従事した。 1944年(昭和19年)2月22日、アメリカ潜水艦「ガトー(Gato)」の雷撃を受け、翌23日にもアメリカ潜水艦「タング(Tang)」の雷撃を受けて沈没した。(5)(6)
コンテンツは特に記載されてない限り、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。