摂津国の国人領主。河原林正頼とも字をあてる。対馬守。
管領・細川政元に従っていたが、その養子である澄之・澄元・高国の家督争いによって政元が永正4年(1507)6月に殺害されたのちには高国に属し、鷹尾城・越水城を領して摂津国西域に威勢を張った。
永正8年(1511)7月、畿内侵攻を企てる細川澄元に応じた淡路守護・細川尚春の軍勢を摂津・播磨国境において撃破したが(芦屋河原の合戦)、その直後には澄元に与した播磨守護・赤松義村に鷹尾城を攻められ、伊丹城に退いた(鷹尾城の戦い)。
永正16年(1519)10月、阿波国から上洛を図る澄元に呼応して池田信正が摂津国田中城に挙兵すると、正頼は高国の命によってこれを攻めたが敗れ(田中城の戦い)、逆に11月には澄元の将・三好之長に越水城を包囲され、翌永正17年(1520)2月に開城して堺へと逃れた(越水城の戦い)。
同年5月、之長が等持寺表の合戦で敗死したことを知った澄元が伊丹城から本国の阿波国に帰還しようとすると、堺から出撃してこれを扼した。
しかし同年10月14日、高国から敵方内通の嫌疑をかけられ、自刃を命じられた。