永正8年(1511)8月の船岡山の合戦で細川高国・大内義興連合軍に大敗を喫した細川澄元は、本国である阿波国に逼塞して再起を窺っていたが、高国との連合政権の一翼を担っていた義興が永正15年(1518)8月に本国の周防国に帰国したことを好機として、再び打倒高国を企図したのである。
これに先立つ永正14年(1517)閏10月に淡路守護・細川尚春を攻め降して淡路水軍を掌握し、畿内侵攻に備えて機動力を確保していた澄元は密かに反高国勢力を募っていたが、これに応じた池田信正が永正16年(1519)10月に摂津国有馬郡に田中城を取り立てて拠り、高国に叛旗を翻した。信正の父・貞正は永正5年(1508)に高国方の武将・細川尹賢に居城の池田城を攻め落とされて討死を遂げており、深い遺恨を持っていたのである。
高国は信正を討伐すべく、直ちに瓦林政頼(河原林正頼)を向かわせたが、澄元勢も阿波国を出帆して11月6日には摂津国西域より侵攻を開始したのである。
澄元とその重臣・三好之長は軍勢を二手に分け、兵庫と尼崎から上陸して瓦林氏の城である越水城を目指した。澄元は越水城北方の神呪寺に陣を構え、之長は城の東から南にかけて将兵を配置して包囲する態勢を取ったのである。その勢は1万といわれる。
対する越水城は、摂津国西域を扼す要衝であることに加えて弓の名手・一宮三郎の巧みな防戦によって寄せ手を悩ませ、12月上旬には高国率いる5千ほどの軍勢が池田城に後詰に到着。高国は軍勢を武庫川の川岸に沿わせるように配置して三好軍を背後から牽制したため、双方共に相手の出方を窺ってのにらみ合いとなった。これ以後、断続的に戦闘もあったようだが史料に乏しく、詳細は不明である。
戦況は膠着したままで永正16年が暮れていった。しかし、年が明けると事態は急展開を迎えることになる。1月12日、高国不在の京都において土一揆が徳政令を求めて蜂起したのである。
この下京から起こった徳政一揆は洛中洛外にまで拡大し、1月28日には将軍第の木屋にまで放火されるという状態で、こうなっては高国も摂津国の戦線に駐留している場合ではなかった。
また、越水城でも兵糧の不足から戦意を失って2月3日に開城するに至り、高国軍も猪名川まで退却したのである。