皆川広照(みながわ・ひろてる) 1548〜1627

下野国の国人領主。皆川俊宗の子。母は水谷治持の女。通称は又三郎。従四位下・山城守。号は老圃斎。下野国皆川城主。
皆川氏は小山氏祖・小山政光の子である長沼宗政の後裔で、宗政の孫・宗員が下野国皆川荘に居して姓としたことに始まるが、一時の断絶を経て長沼氏嫡流の長沼氏秀の子・宗成が再び皆川氏を称した。この宗成の曾孫が広照である。
天正元年(1573)に父・俊宗が没したのちの皆川氏家督は広照の兄・広勝が継いだが、その広勝も天正4年(1576)12月に早世したため、広照が家督を継承した。
当時の皆川氏は、かつて主家としていた宇都宮氏から離れて北条氏に属していたが、広照は天正9年(1581)10月には織田信長と誼を通じ、天正10年(1582)に織田氏が武田氏を滅ぼして関東地方を勢力圏に収めると、織田氏重臣で関東の統治を任じられた上野国厩橋城主・滝川一益に属す。しかし同年6月の本能寺の変で信長が横死して織田氏が瓦解したのちは徳川家康に属し、同年の若神子の合戦には徳川方として出陣している。
しかし天正12年(1584)頃から北条氏が下野国への侵攻を始めるとその圧迫を受け、天正14年(1586)の夏頃には北条氏に服属して麾下となった。
天正18年(1590)の小田原征伐には北条方として小田原城竹ノ口の守備にあたるが、4月9日に徳川家康を通じて羽柴秀吉方に投降、戦後に1万3千石の所領を安堵された。のち、従兄弟の水谷勝俊と共に家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の役の発端となった会津上杉征伐においては下野国に在って、去就の定かでなかった常陸国の佐竹義宣を牽制した。
慶長8年(1603)、徳川家康の六男・松平忠輝が北信濃4郡14万石(一説には18万石)の領主となると、その補佐役として付されて飯山城4万石を領するが、慶長14年(1609)に忠輝の不行跡を幕府に訴えるも敗訴し、逆に改易に処されて所領を没収された。このとき剃髪して老圃斎と号す。
元和9年(1623)に赦免されて常陸国府中に1万石を与えられ、府中藩主となる。
寛永2年(1625)4月に致仕したが、3代将軍・徳川家光のお伽衆としてたびたび江戸城に登城し、城中においては輿に乗ることを許されたという。
寛永4年(1627)10月22日に死去した。享年80。法名は善翁慶勝。