織田信秀(おだ・のぶひで) 1571?〜?

織田信長の六男。祖父・織田(備後守)信秀と同名である。元亀2年(1571)頃の出生とされる。母は不明。幼名は大洞。通称は三吉・三吉郎。従四位・侍従。
天正10年(1582)6月、父・信長が本能寺の変に斃れたときはまだ年少で元服も済ませておらず、美濃国仏照寺に難を避けたという。のち、稲葉一鉄羽柴秀吉の庇護を受けた。
天正13年(1585)7月に従四位・侍従に叙任されていることから、天正10年から13年の間に元服したと思われる。
稲葉貞通の娘を妻とした。貞通の妻が信長の姉妹である(もと神保氏張室)から、姪を娶ったことになる。
キリスト教に帰依し、天正15年(1587)に受洗。この年3月、秀吉の命に従って九州征伐に参陣しているが、象牙のロザリオを首にかけて大坂城から出陣したという。
天正20年(=文禄元年:1592)よりの文禄の役においては、3百人の軍勢を率いて肥前国名護屋城に在陣。この軍勢の数から3万石前後の所領を得ていたと推測されているが、その本貫地は不明である。
この天正20年以降の消息は不明。癩病を患って、京都で没したとも伝えられる。