佐竹義篤(さたけ・よしあつ) 1311〜1362

常陸国佐竹氏第9代(16代の佐竹義篤は同名異人)。8代・佐竹貞義の嫡男。母は海上胤泰の女。通称は次郎。左兵衛尉・常陸介・刑部大輔・駿河守・遠江守・右馬頭。室は小田知貞の女。
建武元年(1334)正月、鎌倉での弓場始めの射手を務める。
建武2年(1335)の中先代の乱には父の貞義や弟の義春らとともに足利直義に属し、この鎮圧後に建武政権から決別した足利尊氏が出馬した12月の箱根・竹ノ下の合戦にも従軍し、とくに奮戦した様子が『太平記』に記されている。
その後は弟の義春や師義らとともに尊氏に従って畿内での戦線(建武3年(1336)の京都攻防戦)に従軍したといい、同年2月頃に常陸国内で後醍醐天皇勢力の活動が活発になると前後して帰国していたようであり、同年12月の瓜連城の戦いには主力部隊を率いて、これを陥落させる功績を挙げた。
暦応4:興国2年(1341)には尊氏配下の高師冬に属して常陸国小田城に拠る北畠親房を攻め、城主の小田治久の誘降に尽力した。
観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月の武蔵野合戦においても尊氏に従って戦功を立て、同年9月には貞義の死没を受けて佐竹氏家督と常陸守護職を継承した。文和2:正平8年(1353)9月、京都に帰還する尊氏に随行し、翌文和3:正平9年(1354)1月に侍所頭人に任じられた。
文和4:正平10年(1355)2月11日に嫡子・義宣(初名を義香、19代の佐竹義宣は同名異人)に与えた譲状によれば、その所領は佐都西郡内太田郷以下、久慈東郡高倉郷・久慈庄、那珂西郡多珂庄・石崎保、那珂東郡内戸村・同郡小場県など常陸国内所領のほか陸奥・越中・加賀などの諸国に散在しており、また、死の直前に嫡子以外の子女や寺院に分配した所領の譲状によって、義篤時代の所領が常陸国の北部一帯から那珂川西岸の那珂西地方にかけて広がっていたことが知られる。
夢窓疎石に師事して禅宗に帰依し、入道して春山浄喜と号し、常陸国那珂郡古内郷に清音庵(のち清音寺)を建立した。
弘安2(=貞治元):正平17年(1362)1月11日に没し、清音庵に葬られた。享年52。法名は清音寺院殿春山浄喜大禅定門。