備中松山(まつやま)城の戦い

備中国の国人領主・三村氏は天文年間から永禄年間にかけて威勢を伸張させ、中国地方の大大名・毛利氏に属して美作・備前国への進出も窺っていたが、永禄9年(1566)2月に三村氏の当主であった三村家親が備前国の宇喜多直家に討たれて以来、宇喜多氏とは数度に亘る抗争を繰り返していた。
宇喜多氏は毛利氏と事を構えるのを避けて結び、三村氏へ支援をしないように申し入れたうえで備中国への侵攻を図ったが、その水面下で、かつて毛利氏によって滅ぼされた尼子氏の再興を果たすために決起した尼子勝久山中幸盛主従を支援していたことが露見したため、毛利氏は宇喜多氏と手を切り、再び三村氏と結んだのである。
しかし、三村家親の死後に三村氏家督を継承していた三村元親は毛利氏の影響下から放れ、畿内を制圧して中国地方へも目を向けていた織田信長との提携を模索していた。それを知った元親の叔父・三村親成は織田氏と結ぶよりも毛利氏との友好関係を維持するべきと諌めたが聞き容れられず、天正2年(1574)11月に毛利陣営に逐電するという事態が起こったのである。
親成から経緯を知らされた毛利氏重臣・小早川隆景はこの事態を重く見て三村元親の討伐を決め、再び宇喜多氏と結んで備中国に侵攻を開始したのである(備中大兵乱)。

小早川隆景は迅速に軍勢を催して備中国に進撃、この年の暮れには川上郡の国吉城を、年明け早々には元親の弟・三村元範の守る哲多郡の楪(ゆずりは)城を落とし、1月23日より上田氏の拠る鬼実(きのみ)城を攻めた。この城には元親の弟である実親が城主・上田入道阿西の養子となって在城していたが、上田阿西は大兵を擁する小早川勢に城を支えきれず、養嗣子の実親の切腹を条件として防戦5日で降伏したという。
これらの諸城の陥落により、三村方の機能しうる城は元親の拠る松山城と、元親の妹婿・上月隆徳の常山城のみとなった。小早川勢は常山城を包囲して連絡を分断し、3月半ばより松山城を攻めるという策に出る。
松山城は下太鼓丸・上太鼓丸・天神丸などの櫓を、大松山・小松山の複雑な地形に配して防御網と成した堅固な山城である。それに加えて元親も城から迎撃部隊を繰り出すなど、兵をよく指揮して守っていたため隆景は力攻めを避け、兵を一旦退かせて仮城を普請して長期戦の構えを取ったため、救援の望めない松山城内では士気が衰えて逃亡者が相次いだという。
さらに隆景は三村親成らを通じて松山城内に内応者を作り、5月20日にこの内応者の手引きによって小松山の本城を扼す天神丸が小早川勢の手に落ちた。そしてその翌日には小松山本城の出丸も降伏勧告に応じるところとなり、本城は防衛機能を削がれて完全に孤立したのである。
事ここに至り元親は自刃を覚悟したというが、家臣に諭されて城を脱出。しかし、その途中の山道で誤って谷へ転落して気を失い、その間に付き従っていた家臣の大半が逃げ失せてしまった。それでも残った数人の家臣と共に再び逃避を始めたが、今度は腰に帯びていた刀を誤って鞘走らせて脚を斬ったため、元親も己の命運が尽きたことを悟り、松山城下の松連寺に入って隆景に検使を請い、翌6月2日に自刃したのであった。
また、松山城の落城に先立って落ち延びていた元親の子・勝法師も捕えられて斬首され、戦国大名としての三村氏はここに滅亡したのである。