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シェイミの生態 | at 2010 04/04 | ||
グラシデアの花が咲く頃、シェイミは群れで他の地方に旅立つ。しかしシンオウにいる間は、単独行動を とっている。「わたり」の時期になると、各地に散らばって生活している個体が「グラシデアの花畑」と いう特定の場所に集まってくる。しかしシンオウに分散していた個体が、それぞれの遠隔地から単独で花畑 に駆けつけるのは、途中で天敵に襲われたり、花の咲く時期に間に合わなかったりと、様々な危険が伴う。 シェイミは、全体の個体数も非常に少ないのだから、初めから群れで行動した方が安全なのではないか。 また「わたり」の為にグラシデアの花粉でフォルムチェンジする必要があるとはいえ、実際は数輪の花粉 だけでもフォルムチェンジは可能である。実は花粉を浴びるのは単なる切掛けであり、実は太陽光(という より太陽熱)が動力源である。またグラシデアの花も、シンオウでは商品化されているありふれた植物だ。 わざわざ危険を冒して遠い花畑を目指さずとも、町中の花屋の店先にある花の花粉だけでも群れ全体がフォ ルムチェンジできるだろう。そもそもそんな手間をかけて「わたり」をしなくてはいけない理由とは何なの だろう。 実はこの手間こそが、シェイミとグラシデアとの深い関係を表わしているのだ。 シェイミが花粉を浴びないとフォルムチェンジできないのであれば、当然シンオウに向かう際にも出発地 にグラシデアが生息していなくてはならない。普通、植物は雌しべに雄しべの花粉が付着して結実するが、 種類によっては同じ個体の花粉では受粉できない場合がある。おそらくグラシデアも自家受粉のできない 植物なのだろう。またシンオウでのシェイミには雌雄の別がない。育て屋に預けても人工繁殖は不可能だ。 渡り先についてから雌雄が分化するのか、それとも雌雄同体なのか不明だが、おそらく渡り先に繁殖地が あるに違いない。だからシェイミはシンオウでフォルムチェンジする時に必要以上の花粉を浴びてシンオウ を旅立つ。そして持ち帰った花粉で渡り先のグラシデアを受粉させ、その実等を餌にして子育てをするの だろう。ならば同じようにグラシデアが群生して咲くシンオウでも、子育てをしてもよさそうなものだが その様子はない。シンオウの広大な花畑に対してあの個体数なら十分繁殖可能な気もするが、おそらく気候 等の関係で、シンオウではグラシデアの結実が困難なのではないか。グラシデアは、シンオウにおいては 容易に栽培されている植物であるが、その方法が株分けであれば真の種の繁栄には繋がらない。植物でも 動物でも多様な遺伝子を確保する為には、別個体との交配が望ましいからだ。シンオウでは僅かな頭数しか 確認できないシェイミであるが、おそらく渡り先である繁殖地には他の地域からシンオウの株とは別な花粉 を持った個体が集まるのだろう。そして様々な土地のグラシデアの花粉が集まり受粉が行われる。その繰り 返しの中で、いつかはシンオウの気候でも結実する種が出来るかもしれない。それらがシェイミによって シンオウに運ばれ、新しい場所にグラシデアの繁殖地ができる。それは同時にシェイミの繁殖地もシンオウ に進出できると言う訳だ。シェイミとグラシデアは、生息域を拡大するという共通の目的を持って協力し 合っているのだろう。 これがシェイミによる「花運び」の真相である。 シェイミが本来群れを作る習性がありながら、シンオウに到着後、単独行動をとるのにも意味がある。 各地に分散すれば、グラシデアの生息域も拡大するからだ。更にシェイミは、汚れた空気を吸い込んで綺麗 にするという空気清浄機のような機能を有する。しかし汚染された空気を吸い過ぎると、しばしば爆風を 放って森林を破壊する事もあるらしい。実に物騒な習性であるが、これは日陰をつくっている森林の木々を 吹き飛ばして日当たりをよくし、その場所をグラシデアの花畑に変えてしまおうという目的があるのだ。 シェイミの機嫌の良い時には、体表にグラシデアに似た花が咲く。シェイミとグラシデアは互いの繁殖に 協力するだけではなく、遺伝子をも共有しているのかもしれない。 |
ポケモン残酷物語 | at 2008 06/06 | ||
「ポケモンは人間の友達・仲間」。我々が犬や猫などの愛玩動物に接するように、ポケモンワールドでは ポケモンをそう表現する。しかし実際のポケモン映画では、ポケモン対人間の、時には生死をかけた闘争が メインである物語が多い。「驕り高ぶった人間が自然に干渉した結果、世界の秩序が乱され、主人公が自然 を代表するポケモンと協力して悪を罰する」というのが主なテーマになっている。 『蒼海の王子マナフィ』も、一見「海の秘宝を狙う海賊が懲らしめられる」という従来型のパータンの ように見えるがこの作品にはもうひとつの隠された側面がある。それが数あるポケモン映画の中で唯一とも いえる「自然の具象であるポケモンが人間に完敗する」という、珍しく、かつ残酷な物語である。 この映画に登場する 「海の民」は、主に水ポケモンを使役して生業としている。もちろん彼ら以外にも 水ポケモンを使うトレーナーは多いが、彼等のやり方は実に効率的なのである。この民族は海の神殿に 「海の宝冠」という秘宝を守っている。これは、人間に水ポケモン同様の能力を授け、さらに水ポケモンを 隷属させる事が出来るものなのだ。先祖代々海の民は、その力を利用していた。しかし秘宝「海の王冠」の 力は、彼等だけに使えるというわけではない。ゆえに、その秘宝の力を得ようとする他者などに奪われない ように、彼等は海の神殿を他の人間には容易に発見できないように、海底の奥深くに隠した。そこで必要に なったのがマナフィである。マナフィは、海の神殿を生息地にする。と、いうよりも、あえてマナフィの 生息地に、海の神殿を作ったという方が妥当であろう。なぜならば、人の目には見えない、その上常時移動 している海の神殿を発見できるのは帰巣本能のあるマナフィだけだからだ。マナフィは海の神殿で産卵し、 その卵は海洋を漂流し孵化する。そして繁殖地である海の神殿に戻り再び繁殖する。つまりマナフィは単独 で孵化し成長する、本来は育雛しない生物なのである。 しかし、この物語のマナフィには「最初に見た者を親だと思い込む」インプリンティングという習性が ある。これこそが海の民による残酷な品種改良の結果なのである。この後付けされた「本能」でマナフィ は「親」を知りそれを慕う。マナフィは「蒼海の王子」と称されるように、その特殊能力により水ポケモン を支配する。海の民はこうしてマナフィを利用し、自らが水ポケモンの支配を維持する祭祀を行う。刷り 込まれた「親」への愛情から、マナフィは自らだけではなく仲間である水ポケモン達をも、人間の支配下に 差し出すのである。そして「親」(この映画ではハルカ)との親密な愛情関係を築いたのもつかの間マナフィ は「海の神殿で水ポケモンの王として君臨する」という役目を果たす為に、その場に留まり「親」である 人間は立ち去ってしまうのである。無事に海の神殿での祭祀が済めばもうマナフィは用済みなのだ。あとは 次の祭祀の為に産卵し、海に放ってくれればよい。そしておそらくマナフィは死んでしまうのだろう。 本来存在しない筈だった「親」である人間の支配から離脱し、生息地で自然な生活を送る。種としての マナフィにとっては、これでやっと本来の姿に戻れたのだ。しかし個体としてのマナフィの心理はどうか。 ただ道案内をさせる為だけに、人間との疑似親子関係を構成させ、その愛情を利用し、用済みになったら 「自立させる為」と綺麗事を言い、親子関係を断ち切る。知る必要のない愛情を持たされ、直後にそれを 奪う。一見、自由な野生ポケモンのように見えるマナフィは、人間によって個体としてだけではなく種の レベルで、その本能を捻じ曲げられ、心を蹂躙されているのだ。 |
2.ルカリオ黄金伝説 | at 2008 04/04 | ||
ポケモン映画の主なパターンは、悪意をもった者、または、不本意ながら困難な事態に巻き込まれた者 の為に世界の秩序が乱されて、偶然その場にいあわせた主人公グループがポケモン達と協力し、その混乱 を収拾して世界の破滅を回避するというものである。 しかしこの物語では、実際には何も危機は起きて いない。アーロンが命を落とした不幸ははるか数百年の昔に起きたものであり、ルカリオの心情を除けば すでに終結している。この物語の中の事件は、すべてミュウが自ら引き起こしたものである。そういう点で 『波動の勇者ルカリオ』は、少々毛色が変わっている。 またこの映画におけるミュウの行動は、非常に 不可解のようにみえる。しかしそれらには、各々にしかるべき意味が隠されているのだ。 事件の発端はピカチュウの誘拐のように思われるが、これは単なる偶然の出来事と思われる。またその 後の展開から、サトシ達をおびき出す囮としてピカチュウは連れ去られたようにも見える。しかし実際は キットのマニューラの襲撃によって遊びを邪魔されたミュウが、いつものように気に入った『玩具』の つもりで持ち去ったと考えるべきであろう。このエピソードは、ミュウが「命」に無頓着な存在である 事をあらわしている。 本当の物語は、アーロンと同一の波導を持つサトシによって、勇者の杖に封じ込められていたルカリオ が甦生した時から始まる。突然に数百年後の世界に解放されたのと、自分を捨てて逃げたアーロンが勇者 と伝えられ讃えられている事がルカリオを混乱させる。ここで、少々矛盾とも思えるエピソードがある。 ルカリオが自分の真後ろに立ったサトシを敵と認識し、とっさの回避行動として攻撃したのだ。この事は サトシの波導を誤認して自分を裏切ったアーロンだと思い込み、サトシを攻撃したと深読みしたいところ だが「サトシとアーロンの波導は完全に同じではない」という事を暗示していると考えるべきだろう。 この事柄は、伏線として留意したいエピソードである。 ミュウに連れ去られたピカチュウを探しに、サトシ達はミュウの住む『世界のはじまりの樹』へ向かう。 ルカリオは波導でピカチュウの居所を探索できるという理由から、女王アイリーンの依頼という形で不本意 ながらも同行する。サトシの、ピカチュウの身を案じる様子や、トレーナー達に可愛がられているポケモン 達の幸福そうな様子を見せ付けられ、ルカリオはますますアーロンに捨てられた自分の惨めさに苛まれる。 同時にルカリオにはまだアーロンへの思慕が残っている事を、思い知らされる道中でもあった。サトシが、 ピカチュウとの友情を語るのを聞き反発するルカリオだが、そうして意地を張りつつも天然温泉につかって 楽し気な様子の彼等を見ながら、アーロンとの旅を回想するうちに、だんだん心が揺れてくる。一方サトシ 達もルカリオがアーロンに「捨てられた」というのが事実だと知ると、ルカリオの心情を思いやり、両者の 間に友情が育っていく。アーロンの裏切りに憤って、人間達に反発していたルカリオの心も徐々に和らいで くる。 『世界のはじまりの樹』まで探しに来たサトシの声を聞いたピカチュウは、その姿を探し回るが、ミュウ は妨害も協力もせず後を付いていくだけで、樹を守るポケモン達に襲われるサトシ達を助ける気配はない。 『世界のはじまりの樹』は、ミュウと同一のものと言える。樹の内部にニャースやピカチュウを引き入れて 遊んだりしたように、樹の内部は全てミュウの支配下にある。だから内部に侵入したトレーナー達を異物と して攻撃したのも、ミュウの意志である。やっとピカチュウとの再会を果たしたサトシに、落とした帽子を 差し出し、敵対していないという姿勢を示すが、ならば初めから攻撃させなければ良いのにと思われる。 が、これもまたミュウの目的に必要な行動なのである。 樹の中を逃げ回ったあげくにトレーナー達は異物とみなされ葉白菌に吸収されてしまう。彼等はポケモン 達を巻き添えにしない為に、モンスターボールからポケモン達を逃がす。この事は「トレーナーのポケモン への愛」をルカリオに見せつける為であり、のちに判明する「アーロンがルカリオを道連れにしない為に あえて封印し置き去りにした」行動とシンクロしている。ルカリオも一度菌に飲み込まれてしまうが解放 される。これは「樹に飲み込まれる」恐怖をルカリオにも体験させる事で、トレーナー達の犠牲的精神を より際立たせる為である。 トレーナー達が樹に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまった事を嘆き悲しむ ポケモン達。まるで『ツー逆』のラストのような愁嘆場が、ルカリオの目前でひとしきり展開される。 ここでやっとミュウが人間達を蘇生させ、彼等を追い払おうと攻撃していたレジトリオは引き揚げる。 トレーナー達とポケモン達が、めでたく再会できた喜びもつかの間、今度は異物の侵入により樹の秩序が 乱された結果、樹と同体であるミュウも衰弱してしまう。このままでは世界の危機に関わる(らしい)ので なんとしてもミュウを助けなくてはならないという緊急事態発生である。ふらふらのミュウに導かれ、樹の 心臓部に案内されたルカリオ等は、わざとらしく人目につくように置かれた手袋で、石に閉じ込められた アーロンを発見する。これまた都合よくかたわらにある時間の花の奇跡によって、アーロンは卑怯な逃亡者 などではなく、伝説通りの勇者であった事を知り、ルカリオのアーロンへのわだかまりは雲散霧消する。 ここでミュウはルカリオに、かつてのアーロンと同じく『勇者』としての行動を請求する。それはアーロン と同じ運命を辿る危険性があるのだが、アーロンに同行していたら当然したであろう行動なので、迷う事 なくミュウに波導を与える。しかしルカリオの波導だけでは足りない。そこで、アーロンと同じ波動を持つ サトシも協力を求められる。この時サトシはアーロンの手袋を両手にはめる。これは「サトシとアーロンの 同一性」を表わす中世的な暗喩となっている。サトシが、あえてこの危険に身をさらした動機は「ミュウや 樹に住むポケモン達」を救う為である。他者を助ける為に自らの命を顧みない犠牲的、かつ崇高な行動。 アーロンと同じ波導を持ち、同じように他者の為に、すすんで自らの生命を危険にさらそうとするサトシに 「かつてのアーロンの姿」をだぶらせる事で、ルカリオを「アーロンと共に命を懸けている」という錯覚に 陥らせる。しかしサトシは途中で跳ね飛ばされ、後はルカリオ単独でミュウにエネルギー(波導)を与える。 結果的に見てサトシの波導は必要なかったのでは?と思われる。しかしこの二度手間は無意味ではない。 最終段階において「やはりサトシはアーロンではない」という事実をルカリオに認識させ、現世に生きて いるサトシとの友情ではなく、死せるアーロンへの愛に集中させるというのが真の目的だったのだ。 波導 の充実により、ミュウも樹も無事復活する。うってかわって能天気にはしゃぎまわるミュウ。ここですべて は丸く収まるはずであった。しかし、波導のエネルギーを使い果たしたルカリオは、著しく消耗し衰弱して いる。ここでまたもアーロンの独白が始まる。「自分を捨てたのではなく、最期まで自分の事を思っていて くれたのだ!」アーロンを疑った自分を恥じるルカリオ。そして今はの際に自分への思いを語るアーロンの 幻影を見せ付けられ、ルカリオの愛は最高潮に達する。そして「真実の愛に殉じる意思」を持って、自発的 にその命を、ミュウと「世界のはじまりの樹」に捧げる。ルカリオは、天国を目指す殉教者のような宗教的 エクスタシーの内に、死せるアーロンのもとへ旅立ったのだ。このようにミュウは、ルカリオとアーロンの 「捕食者」であり、その愛らしい外見に似合わず完全に「悪役的存在」である。更に意外な事に、ミュウは その「悪事」を罰せられる事もないし改心する様子もない。アーロンの必死の守りもむなしく、ルカリオは ミュウに「食われる」という結末でこの物語は終わる。 なぜミュウはルカリオを「食う」為にこんな手間暇をかけるのか。ルカリオが封印から解放された段階で ピカチュウのように連れ去るなり、おびき寄せるなりすれば済むことではないのか?世界のはじまりの樹と 同一性を持つミュウは、ただのポケモンとは違い、神の眷族である。人間の秩序や支配に拘束される事の ない善悪を超越した存在なのだ。故にその「餌」もまた単なる獲物ではなく、神への贄、犠牲獣である。 それは病気であったり、傷などあってはならず、健康で完璧でなくてはならない。また逃亡を図ったり抵抗 して暴れたりする行為は、神への拒否とみなされて不浄なモノになり神聖な贄としての資格を失う。そして ルカリオもアーロンに裏切られ捨てられた心に傷を持つ動物であった。ミュウの生贄になる為には、まず その傷が癒され、清浄な心身にならねばならない。 それらの穢れを濯ぐ為にルカリオは「浄化」の過程を 経なくてはならなかったのだ。 最後の最後でサトシがミュウに拒否されたのは、サトシはルカリオの愛の 高まりを引き出す為の単なる道具であったのと、その行動はあくまで緊急避難的な救護活動であり、自分を 危険にさらす覚悟はしていたものの、サトシ自身には自分の全てを放擲するつもりはなかったからだ。 ルカリオも連れず、勇者の杖も持たない丸腰のアーロンが、樹を守るポケモン達の妨害を受ける事なく、 無傷でミュウのところまで辿りつけたのは、アーロンが女王リーンへの愛の為に自らミュウの贄になる覚悟 を決めていたからである。そしてルカリオも、アーロンへの純粋な愛を取り戻した時にミュウの生贄として の資格を得、同時に再び愛する者と共に在るという望みを叶えたのである。アーロンに加えルカリオの名も また「世界のはじまりの樹」を守った勇者としてその甘美な死と共に聖者のように讃えられるに違いない。 しかしルカリオが聞いた『アーロンの白鳥の歌』は真実なのだろうか。もしかするとミュウがルカリオを その気にさせる為に見せた幻影なのではないのか。実際にはアーロンが最も愛したのは、ルカリオではなく 女王リーンだった。だがそれを知らせる必要はないだろう。少なくともルカリオは、リーンのいない世界で 最愛のアーロンを独占できる幸福の中にいるのだから。 |
1.アーロンの思惑 | at 2006 07/07 | ||
この物語における『世界のはじまりの樹』は、ミュウが命を共有しているとされ、地球生命の外部器官で あると考えられる。そしてオルドランド城の女王アイリーンは、この「樹」が生えている聖域を守る祭司で ある。地球生命の一部分である「樹」を人間の手から遠ざけそのまわりを聖域として守る事により、その国 もまた「樹」に よって守られていた。彼等の国に危険が迫った時、女王リーンに仕えていた波導使いの アーロンは、自らの生命をこの「樹」への生贄として差し出す。「樹」はその生贄を受け入れ、波導の光を 放射して争いを鎮める。国の危機は回避され世界に平和がもたらされる。 と、いうのがこの物語の下地となっている「波導の勇者アーロン」の伝説である。しかし数百年後に復活 したルカリオはその話を信じなかった。なぜならルカリオの主人であったアーロンは、ルカリオを石に封印 して一人でどこかへ去ってしまったからである。いったいこの食い違いはどこから生じたのだろうか。 アーロンはもともとこの国の者ではなく、異国からこの国に来て女王リーンに仕えるようになった呪術師 である。リーンとアーロンとの親密ぶりは、物語の後半でアーロン自身の口から語られるが、実はこれが この認識違いの原因といえる。アーロンの振動波は「樹」と感応するものであり、「樹」と意思を通じる事 ができた。だからこそ世界を救う為に自らを生贄にする事で「樹」の助力を得られたのだ。しかし彼のこの 決意をルカリオが知ったら、必ずや自分と運命を共にするであろう事もわかっていた。だからルカリオを石 の中に閉じ込め、自分の後を追ってこないようにしたのである。しかしアローンの行動の真意は本当にそれ だけであろうか。ルカリオが本当に大事なパートナーであったならば、自分は「樹」の犠牲になるけれども ルカリオだけは思い留まるように説得するか、でなければ共に「樹」の餌食になる事を許すかのどちらかで あるはずだ。しかしアーロンは、ルカリオには何も知らせぬまま一方的に封じ込め去ってしまった。だから ルカリオは何百年もの間、ひとり悩み苦しむ事になってしまったのだ。実はアーロンのこの奇妙な行動には ある秘められた理由があった。 おそらくアーロンは、はるか昔からこの「樹」を祭祀してきたオルドランドの女王が、世界の危機に直面 する事になった原因の一端が自分にあるのではという疑念を持ったのである。彼は「樹」の斎宮とも言える 女王リーンと、余所者である自分との親密な関係が世の秩序を乱したのかも知れないという葛藤を内心に 抱えていたのだ。女王リーンを愛するが故に、彼女の為に自分が犠牲になるのはかまわないが、自分だけに 忠実に仕えてきたルカリオを自らの罪の巻き添えにするのは忍びない。だからこそアーロンは、ルカリオに 自分の行為の理由を説明する事ができなかったのである。結局アーロンはなにも言わずに一人死地に赴き、 ルカリオは封印されたまま現世に取り残される。 結果的にアーロンはルカリオの忠誠心と愛を退け、女王 リーンへの愛に殉じて滅びる運命を選んだ。アーロンに捨てられたと思ったルカリオの怒りと憤りは的外れ なものでもないだろう。 |
「セレビィの悪戯」−−−オーキドはかせはユキナリではない−−− | at 2003 12/12 | ||
『セレビィ・時を越えた遭遇』がテレビ放映された時に、 サトシが出会ったユキナリ少年が、オーキド はかせであるかのような暗示がされていた。 確かにオーキドはかせは、名を「ユキナリ」といい、サトシ 達との行動に関連して過去にセレビィと 共に時渡りをし、その世界でサトシという少年に出会った記憶を 持っているかのような言動が見られる。またユキナリAが描いたピカチュウとセレビィのスケッチに非常に 似通ったものがオーキド研究所に存在している。しかしそれは事実誤認からくる思い込みである。その事を 具体的に証明しよう。 まず前提として劇場版『セレビィ・時を越えた遭遇』という映画において、サトシ達に出会ったユキナリ 少年と、蘇生したセレビィと共に帰還したユキナリ少年が同一人物であるとし、この少年をユキナリAと 定義する。さらにオーキドはかせが、ユキナリAのように40年前にセレビィと共に40年後の世界に時 渡りをし、再び失踪した時に属していた「世界」に帰還するという記憶を持っていると仮定する。「世界」 としては、ユキナリAが本来属していた「今から40年前」と定義されている世界を世界Aとする。そして サトシ達が属している現世界を世界Bと定義し、更にユキナリAが帰還した「戻った40年前の世界」を 世界Cとする。 登場人物を整理すると ユキナリA…上記参照 トワA…世界AにおいてユキナリAにパンを与えた娘トワ トワB…世界BでユキナリAが出会った老女トワ トワC…ユキナリAが世界Cで会った娘トワ ユキナリB…トワBが40年前に出会った少年ユキナリ オーキドはかせ…ユキナリ少年と同一の体験をしたという前提あり ユキナリAは森の入り口でトワAに会い、その森の中でセレビィと共に時渡りをする。そして世界Bに 辿り着く。そしてここでユキナリはトワBと会う。そしてトワBはユキナリAを「(世界Bで)40年前 に行方不明になった少年(ユキナリB)」だといい、この時のトワの言葉から、ユキナリAは「40年後 の世界」に時渡りしたと言われる。ここで注目すべきはトワBが40年前に出会った少年(ユキナリB) は「世界Bでは行方不明のまま」であったという事である。つまり世界Bにおいて、40年前に行方不明に なった少年ユキナリBは帰還して いないのである。しかしユキナリAは再度の時渡りをして「40年前」 に帰還し、トワCと出会っている。ユキナリAの状況から、トワAとトワCは同一人物と考えられるので、 ユキナリAが森の入り口で会い、パンをもらった娘トワAは、世界Bにいる老女トワBとは別人である。 つまりユキナリAが帰還した世界Cは、世界Bの40年前ではない。だから40年前に世界Bに帰還した ユキナリ少年、つまり現オーキドはかせはユキナリAではない。しかしそうなると、世界Bにおいて40年 前に失踪し、そのまま行方不明になってしまったユキナリBはどこへ行ってしまったのか。 セレビィは、オレンジ諸島に住む伝説の鳥ポケモンに身を模した神達とは違って、唯一無二の存在では ない。「森の神」と呼ばれてはいるが、あくまでポケモンの一種に過ぎない。また「ポケモン放送局」でも 描かれていたようにしばしば人間を巻き込んで勝手に!時渡りをするようである。この物語でのヒロシは 老ジョーイの過去における不幸な事件の話を聞いた後、セレビィによって老ジョーイが「過去」 として 語っていた世界とぼしき場所に連れて行かれ、その世界において、老ジョーイが語っていた「不幸な事件」 を回避させる事に成功する。そして再びセレビィが現われ「かつてヒロシが属していた」かのような世界に 移送する。その世界においては、若き日の老ジョーイが経験した過去の「不幸な事件」は存在してない事に なっており、別な世界に変わっていた。ヒロシはセレビィの手引きで自分が過去の「不幸な事件」を回避 した為、老ジョーイにとって望んでいた世界に変わったのだと思い込んでいるが、それではセレビィには 過去に干渉し未来を変える力があるかのように思われる。しかし実際にセレビィにそのような力がありうる のだろうか。 過去と未来を行き来し、その原因と結果を知る事が出来、さらに過去に干渉して自己にとって好ましい 未来に書き換える事が可能なのであれば、 自ら狩人に追われて時渡りを使って逃亡したり、ビシャスに 捕獲された上に操られて森を破壊し、あげくに瀕死になるような事態に陥るわけがないであろう。つまり セレビィにできるのは「別な歴史を持つ世界に人間を移動される事」と思われる。ヒロシもユキナリも セレビィによる帰還を「本来自分が属していた世界に戻った」と思い込んでいるだけであって、実は非常に 良く似た別な世界に移されただけなのではないのか。オーキドはかせが、ユキナリ少年であった時に属して いた世界が、世界Bであるかどうかはわからないが、少なくともユキナリBは彼が属していた「世界B」の 森に帰還してはいない。オーキドはかせが、世界Bにどのような事情で属する事になった詳細はいまだ不明 だが、以上の事から、オーキドはかせが本来属していた「過去」に帰還したのだという事は断定できない。 ユキナリBが、世界Bにおいて行方不明になったままでいるように、オーキドはかせが「ユキナリ少年」で あった頃に属していた世界でも「ユキナリ少年」は行方不明になったままの可能性もある。 もしかすると現在サトシ達が属しているこの世界には。もはやヒロシは存在していないのかもしれない。 この世界でサトシ達が再会するかもしれないヒロシは、かつてサトシと出会ったヒロシとは、別人である 可能性が非常に高いといえる。 |
ロケット団の支配体制 | at 2001 02/03 | ||
ロケット団は『我ココ』でわかるように相当に大きな組織である。しかし意外にもその命令形態はボス 直轄のようだ。サカキは見た目は典型的な極悪非道の悪役に見える。実際そういう人物である。しかし 部下との関わり方を見ると支配の方法は暴力による制圧とか利益による誘導などではなく、上下の関係は かなり親密で意外なほど家族的だ。したっぱの部下にも直接ボスが命令したり、報告させたりしているよう である。緊急事態発生かと思うような時間にムサシがボスにコレクトコールをかけ、またそれがつながると いうことからもそれがわかる(第17話)彼らはボス直通の番号を知っているか、またはその電話を取り 次いでもらえるのだからすごい。ドジでマヌケで失敗ばかりの「なにかあってもかまわない部下」(サカキ 曰く)である彼等でさえクビにされないし、この3人以外は「なにかあっては困る部下」というのだから、 その寛容さには感動してしまう。カントーを舞台としたゲームでは、ロケット団の部下達にとって、突然の 解散宣言は「親が子供を置いて突然家出してしまった」ようなものだろう。そのロケット団の残党は3年間 の苦心の末、復活する。復活を指揮したボスである幹部♂は、したっぱ達に既に「ボス」と認められている のだから、そのままサカキの跡目を継いでもよいのに、あくまで「サカキさま」が戻ってきてくれることを 願う。突然彼等を捨てて行方不明になったボスへのうらみというのが全くないのが涙モノだ。先代ボスが 父親ではなく母親であることといい、ロケット団のボスには、どこか「母性的側面」が感じられる。 |
我ハココニ在リ | at 2001 01/06 | ||
前回サカキとミュウツーの「あり得たかもしれない関係」の可能性を 示唆したが、『我ハココニ在リ』 はこの二人の戦いがテーマである。この作品について 語るには、まず『ミュウツーの逆襲』から始め なくてはなるまい。 『物語の基本形』論から考えると本来ミュウツーは「主人公が最後に戦って打ち倒すアニムスの権化」 であるサカキの化身的存在「強大な悪の象徴のひとり」として想定されたものだろう。しかしミュウツー が探し求めていた「自分自身」というものが、それだけではかたづけられないものになり、物語に於いて 主人公を凌駕する程の地位を獲得してしまう。「ミュウツーの逆襲」は ピカチュウとサトシとの愛と友情 をテーマとして描き終わるはずだった。しかしミュウツーがあまりに大きな存在感を持った為、このまま 終わらせることが出来なくなってしまったのだ。それは優れた作品の持つ宿命とも言えるものであると いえよう。 『ミュウツーの逆襲』で、ミュウツーにいろいろな意味での「命」を与えミュウツーの「存在」という ものに決定的な役割を果たしながら、サカキは物語から姿を消してしまう。そのサカキと再び邂逅し戦う のが『我ハココニ在リ』である。サカキとミュウツーはお互い、他の登場人物よりもはるかに深い関係に ある。全ての物質が「陰と陽」で表現されるように、この二人の間には特別なつながりが存在する。それら の事については「よたばなし」では語り尽くせない。いずれ正式に論文にするつもりなので、この文章を 『我ココ』のとりあえずの公式見解として掲載する。 ↑完成しました! 『ミュウツーとサカキ』 |
ほんとうの「よたばなし」 | at 2000 12/30 | ||
最近になって気づいたことなのだが「今週のポケモン」コーナー(現在は閉鎖)での感想に偏りがある。 どうも色々なポケモンが出た回に評価が甘いような気がする。それもサトシ達のではなく、他のポケモンが 活躍した回のようだ。 今週のポケモンアンコールも、名もない野生のニャースがなぜこんなに気にかかるのか。物語というもの は登場人物のいずれかに感情移入し自分自身を投影して見る場合と、 特定の人物(人間とは限らず)に 好意を持ち、それを応援したりするものである。 ゲームに関しては前者であり、アニメにおいては後者で あるつもりなのだが、 特に思い入れがあるとは思えない単発キャラの持つポケモンや、野生のポケモンに 対するこの感情のさざ波のは何なのだ。 毎回必ず登場するポケモンとしては、ピカチュウ、ニャース、トゲピーがあるが、 彼らはみなポケモン のうちの一匹というよりも、それぞれ「サトシのピカチュウ」「R団のニャース」「カスミのトゲピー」 として確立されたキャラである。 しかしその他のポケモンは、まだパーソナリティーが固定していない ので、ついそこに自分自身のポケモンの姿を投影して見てしまうために、かように心が揺れるのであろう。 通信対戦があまり好きではないのも、ゲームの中のバトルと違い、相手のポケモンもまただれかにとっての かわいいポケモンであることを知っているからなのだ。 どうでもいいことなのだが、私はサカキさまが他のトレーナーでは腰のベルトに着けている モンスター ボールを内ポケットから出すシーンが好きだ。本当はそうしていることにそれほどの理由があるわけでは ないのだろう。でもそのポケモン達は、モンスターボールの中で飼い主であるサカキさまの胸の鼓動を 聴いているのだと思うと、ついそのことに特別な意味があるようが気がしてしまうのだ。ミュウツーも、 制御装置で縛られるのではなく、他のポケモンのようにモンスターボールに入っていたなら、ふたりの関係 はもっと違うものになっていたのかもしれないと、ついつまらぬことを考えてみたりしたのだ。 |