●今回は真正面からストップマークネタです。
Y子さんがまだ小学生だった頃、町内に少し風変わりなおじいさんが住んでいました。 そのおじいさんは、ペンキの缶を片手にいつも町内を歩き回っているので、近所の子供たちから「ペンキじいさん」と呼ばれてからかわれていました。 ある夏の日、Y子さんが学校から帰ると、家の近くの交差点に、そのおじいさんがじっとしゃがみこんでいるのが見えました。 気味が悪くなったY子さんは、急いで家に入って母親にそのことを言いました。すると母親は、 「あのおじいさんはね、元は交通安全協会の役員さんだったそうよ。若い頃にお子さんを交通事故で亡くして、今では一人暮らしなの。だから今でも歩道にペンキで足マークを描いて、町の子供が事故に遭わないようにボランティアをしてらっしゃるの」 母親から聞かされて、Y子さんは気がつきました。そういえば、この町内の道にはいたるところに白い足型マークが描かれています。それらはいつも塗りたてで、色あせたものは一つもないのでした。 「Y子が毎日元気で学校に通えるのも、おじいさんが寒い日も暑い日も、頑張ってマークを描いてくれるからなのよ」 母親は続けて、 「おじいさんはきっとまだいるから、冷たい麦茶でも持っていってあげなさい」 Y子さんも、今までおじいさんを気味悪がっていたのがうしろめたくなったので、冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、交差点に行きました。 おじいさんは、ちょうど足型にペンキを塗り終えたところでした。 Y子さんが 「ごくろうさまです」 とグラスの載ったお盆を差し出すと、おじいさんはとてもうれしそうな顔をして 「ありがとう、いい子だねえ」 と言い、近くの木陰に腰を下ろしておいしそうに麦茶を飲みました。 「何かお礼をしないとね。お嬢ちゃんは毎日この交差点を渡るのかい」 Y子さんが頷くと、おじいさんは彼女を横断歩道のたもとに立たせ、ポケットから取り出したチョークで歩道に彼女の靴の輪郭を描きました。そして丁寧にペンキを塗って、彼女の足にぴったりの、小さな足型を作りました。 「これはお嬢ちゃんだけの足マークだ。学校から帰っても、家が目の前だからって走っちゃいけない。これに足を載せて、しっかり左右を確認してから道を渡るんだよ」 Y子さんが頷くとおじいさんは目を細め、ペンキまみれの手でY子さんの頭を撫でました。 それからというもの、Y子さんはその交差点でおじいさんと顔を合わせることが多くなりました。 Y子さんはもともと大雑把な性格で、ストップマークなどいちいち気にするタイプではなかったのですが、さすがにおじいさんの前では無視するわけにもいきません。作ってもらったマークにY子さんが足を載せ、左右確認をして見せると、おじいさんはとても満足そうな顔をするのでした。 Y子さんが靴を買い換えるたびに、おじいさんは目ざとく見つけて彼女を呼び止め、マークの上に立たせてチョークで足の輪郭をなぞります。 「もうこんなに大きくなったかな。子供は成長が早いものな」 おじいさんはそうつぶやきながら、嬉々としてY子さんの足型にペンキを塗り重ねるのでした。 そんなことが、Y子さんが中学に上がっても続きました。友人と一緒に帰るときも、交差点にあのおじいさんの姿があると、Y子さんはマークに足を載せないわけにいきません。 「あんた何やってんの」 と友人にからかわれるたびに、Y子さんは笑ってごまかすのでした。 高校に入ると、Y子さんはその交差点を渡ることが少なくなり、おじいさんと顔を合わせることもなくなりました。 そして遠くの大学に進学して一人暮らしを始めると、あの足マークもおじいさんのことも、すっかり忘れてしまいました。 大学を卒業したY子さんは、地元の会社に就職して実家から通勤するようになりました。 ある日の夜、残業で遅くなったY子さんが家の近くの交差点に差しかかると、 「お嬢ちゃん」 と呼び止める声がします。びっくりして振り向くと、あのおじいさんが片手にペンキ缶を持って、暗がりの中に立っているのでした。 「大きくなったなあ。お嬢ちゃんの足マーク、すっかり小さくなっちゃったぞ。ほら、足をのせてごらん。ぴったりの大きさに直してあげよう」 おじいさんはそう言いながら四つん這いになり、ちびたチョークを持つ手を伸ばしてきました。 「もう、やめてください!」 Y子さんが後ずさると、おじいさんは強い力で彼女の足首をつかみました。 「お嬢ちゃんもかかとの高い靴を履くようになったかな。よしよし、とびきりぴったりの足型を描いてあげよう」 Y子さんは悲鳴を上げて、思わず掴まれた足を蹴り上げました。 おじいさんが悲鳴をあげて手を離したすきに、Y子さんは夢中で自宅に逃げ帰りました。 Y子さんが母親に先ほどの出来事を話すと、母親は「まさか」と言って笑いました。 「あのおじいさんは、もう6年も前に亡くなったわよ。交差点でマークを塗っているとき、左折してきたトラックに轢かれたの。今では足マークを描いてくれる人なんて、近所に誰もいないわ」 次の日になって、Y子さんはあらためて町内を歩いてみました。確かに、かつてあれほど多かった手描きの足型マークはどれも擦れて消えかかっており、ところどころに既製品と思われるシールが重ね貼りされているだけでした。 けれどそんな中で一つだけ、あの交差点のY子さんの足型だけは、まるでつい最近塗られたばかりのように、くっきりと新しいままなのでした。 このページの写真はともに長野県飯田市にて撮影
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