プーシキン『スペードの女王』と芥川龍之介『魔術』 (2015.7.15)


本稿はふたたび「C***の会』の会報に私が寄稿した記事の転載です。内容は前回掲載の私のプレゼン『プーシキン「スペードの女王」の反語法』の補講です。前回同様に、会報に掲載されたテキストに画像を加えておりますが、同時に、興味のある方の便宜のために、出典、原典などのリンクも合わせて挿入しています。






プーシキン『スペードの女王』と芥川龍之介『魔術』

"Пиковая дама" А. С. Пушкина и "Чудеса магии" Рюноске Акутагавы.

Pushkin's "Queen of Spades" and Akutagawa's "Magic"



プーシキン「スペードの女王」の反語法 補講
2015年7月2日
H.O.(会員No.***)



まえおき 

3月例会での私のプレゼンで、芥川龍之介の『魔術』がプーシキンの『スペードの女王』を意識した作品であることにちょっと言及しましたが、そのあとの討論会で、『魔術』を読んだことのある会員の方から、このことに質問がありました。それは、スペードのクイーンが目配せすることと、キングがカードから身を起こして口をきくシーンが、アイデアとして似てはいるが、それ以上にどんな共通項があるだろうか、という内容でした。

それについて、少し立ち入って話そうとは思ったのですが、でも、会員の中には『魔術』を読んでない人もおられたので、いちおうテキストを読んだ上で議論する、という会の趣旨に従って、その場では深入りすることを敢えてしませんでした。その代わり、関心のある方は、次の例会までに『魔術』を読んでいただき、例会のあと、雑談の時間がとれるようなら、あらためて議論し合いましょう、ということになりました。

そうして、私としては意外なことでしたが、6月の例会には全員が『魔術』を読んでいらっしゃいました。しかも、かつて読んだことがあるという会員の方も、あらためて読み直して臨まれるという関心の高さのために、雑談のはずが、またまた熱のこもった議論になりました。

本稿は、そのときの議論をまとめたものではありません。議論の中で、会員のみなさんそれぞれの問題意識、そして作品への接し方などが、私にとってとても興味深かったので、それを踏まえて、『スペードの女王』と『魔術』の、これまで語られずにいた関連性について、試論としてここに提起するものです。なお、この寄稿は、会報編集部のS***さんの勧めによるもので、ちょうど、渡りに船、とばかりに私が飛び乗ったようなものです。


童話雑誌に掲載された『魔術』 

芥川龍之介の『魔術』は、鈴木三重吉の主幹する子供向けの童謡・童話の雑誌「赤い鳥」に掲載されました。執筆は1919年11月。ほかに「赤い鳥」に掲載された短篇として『蜘蛛の糸』、『杜子春』、『アグニの神』も、学校の国語の教科書に採用されることがあるせいでしょうか、よく知られた作品となっています。じっさい、私が『魔術』を読んだのも、中学だったか、国語の教科書でした。ですので、その何年か後プーシキンの『スペードの女王』を読んだとき、『魔術』の中でキングがカードから身を起こす場面は、プーシキンからヒントを得たものだったのか、とすぐに気づきました。

私は勝ち誇った声を挙げながら、まっ蒼になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもその骨牌(かるた)の王様(キング)が、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭を擡げて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
 「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。」
(芥川龍之介『魔術』 青空文庫
この「ひょいと札の外へ体を出す」という描写があまりに意外かつユーモラスであったので、このどんでん返しともいえる結末にすっかり感心したものです。

ただひとつ、子供心に不満を覚えた箇所がありました。それはこのくだり。

「私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。高が進歩した催眠術に過ぎないのですから。」
「魔術」とはいいながら、早々と「催眠術」だ、とタネを明かしているんです。なにも、催眠術ということばを出さなくても、それとなく臭わすような記述にして、あれれ、あれはみな催眠術だったのだろうか、それとも、ほんとの魔術もあったのだろうか、と疑問を誘導するような筋立てにしていたら、もっと面白かったのに、と物足りなさを感じたことも、いまだに覚えています。さては、子供向けの作品というで、作者はここまで懇切丁寧に解説したのかしら、といささか不満が残ったのです。

やはり、「赤い鳥」に掲載するには、読者を子供扱いする必要があったのでしょうか? 現在もブログなどで「読書感想文」を公開されている大人の方が大勢見受けられますが、そこには、『魔術』で作者は人間の欲を諌めている、などという解釈が散見されます。


読者が作品の中に参画する 

その一方で、『スペードの女王』が「人間の欲を諌めている」ストーリーだとは、だれも指摘する人はいません。変ですね。『魔術』も『スペードの女王』も、ともに金に目がくらんだ主人公の話で、しかもカードのギャンブルで一獲千金を逃すことまで一緒なのに。きっと『魔術』が童話だという思い込みのために、こども向けの道徳説話と決めつける心理がはたらいているのでしょう。

今回の私の補講は、『魔術』と『スペードの女王』には、じつは別のユニークな共通項が見られる、という問題提起です。

『スペードの女王』は、私の3月例会でのプレゼンでお話したように、2つの読み方が可能です。2つの固定観念のどちらで読むかによって、別のストーリーになります。つまり、この短篇は、量子物理の「観測の理論」の表現を借りると、読者なしでは、「3枚の必勝カードがある」という「状態」と、「必勝のカードなどない」という「状態」の、ふたつの「重ね合わせ」であると見ることができます。読者が一方の状態を選択してはじめてそれが確定して、もう一方の状態は消え失せる。つまり、読者が「読む」という行為によって物語を「観測・測定」することで、その2つのあらすじのひとつが確定するのです。

『魔術』のほうは、ストーリー自体は確定しています。ただ、前もって催眠術とことわっているので、読者は銀座のクラブで「私」がどんなふうに催眠術を使うのか、注目しながら読み進めます。ところがそれは「私」の見ていた夢だった。そのどんでん返しによって読者は、催眠術にかかっていたのはじつは「私」よりもむしろ自分であったことに気づかされます。こうしてこの短篇のタイトル『魔術』は、ミスラ君が「私」に対して使った催眠術であると同時に、作者の芥川龍之介が読者にかけた魔術でもあったのです。

ふたつの作品は、読者を作品の中に取り込むことではじめて成り立っていることが共通しているのです。

これと同様な試みが絵画ではすでになされています。それはベラスケスの傑作と言われる『ラス・メニーナス』、1656年の作品です。プラド美術館でこの絵を見たとき、その大きさに驚きました。キャンバスのサイズは縦横318 x 276cmもあるのです。そんなサイズを想像していませんでした。見学者が集中するためか、絵は壁の高い位置に架けられていて、離れたところから見上げることしか出来ませんでした。でも、なぜベラスケスはこの絵をこんな大きなサイズで描いたのでしょう? しかも絵の上半分は壁と天井が占めています。

この絵は、スペインのフェリペ4世国王とその王妃の肖像をベラスケスが描いているところへ、幼いマルガリータ王女がその様子を見にアトリエに入って来たシーンと考えられています。キャンバスのほぼ中央には鏡に映った国王夫妻の姿が見えます。この鏡の像は、絵が国王夫妻の視点で描かれていることを示唆していますが、同時にもうひとつの意味があります。

それは、この絵を壁に据え付けるとき、つまり、国王夫妻がこの絵を見る際に、鏡の中の顔の位置が、夫妻の実際の目の高さになるようにその目印になる基準点でもある、ということです。そのように架けられた絵から適当な距離(おそらく2、3M)離れて絵の前に立つと、絵の人物が、その視野角と遠近法のために、すべて実物大のように見え、じっさいにそこにいるかのような臨場感を生み出す ― そう想像できます。それが、ベラスケスが人物のサイズを計算してこのサイズのキャンバスを選んだ理由であり、絵の上半分が壁と天井であることの意味です。つまり、この絵は、パソコンのモニターで見るのではなくて、またカラーの印刷物で見るのでもなく、さらに、高く吊るされた絵を遠く見上げるのでもなくて、実物の絵の前の特定の位置に立つことで意味を持つ ― 鑑賞者が絵の世界に入り込む ― という驚くべき手法で描かれていたのです。残念ながら私にはこれを直に確かめるチャンスは来ないでしょう。きっとあと何十年かしたら、プラド美術館もこのことに気づいて、展示方法を見直すことになるかも知れません。

ついでに、このような画法は日本にもあります。金刀比羅宮の裏書院はふだんは非公開なのですが、たまたま私が訪れたときは一般公開されていました。この書院はまるでひとつの美術館のようなもので、応挙や若冲などの作品がこともなげに建物の一部となっています。その部屋のひとつに、3面に渡ってふすま絵に描かれた山の連続絵があります。その谷を流れる川は外の庭園に面した縁側で途切れるのですが、その流れの延長線は、なんと実際の庭の小さな池と小川に連なっているのです。絵が現実の風景と一体化しているわけです。この部屋の中央に坐ると、まわりのふすま絵の世界に自身が入り込んでいる錯覚を覚えます。つまり、このふすま絵は、ここから運び出してどこかの美術館に展示したとしても、意味をもたない。これは裏書院で見るしかない作品なのです。


芥川龍之介とロシア文学 

芥川のロシア文学への関わりがどのようなものだったのか、今まで考えたこともなかったのですが、全集にはこんな随筆も収録されていました。

僕は所用の為に遅参して行ったから、殆ど話には加はれなかった。ロシアの小説や戯曲は英訳により、クウプリン位まで読んでゐるのに過ぎないから、実は話に加はっても仕かたはないのである。ピリニヤアクの短篇も二三読んで見たが、僕には肌の合はないものだった。それからちょっと僕の作品のロシア語になってゐるものもあることを聞いた。それは金さんの翻訳であるから、勿論うまいのには違ひない、(後略)
「日露芸術家の会談記」後記 
(芥川龍之介全集 第九巻 219ページ 岩波書店 1978年)
この会談が開催されたのは1927年のことで、芥川の死のほんの数ヶ月前のことでした。このときの様子と参加者の集合写真がこちらでご覧いただけます。
レニングラード東洋大学とレニングラード日本学の弾圧
梶重樹 専修大学学会 2009年3月

それにしても、芥川がアレクサンドル・クプリーンまで読んでいるということは、トルストイやチェーホフは言うに及ばず、プーシキンも当然読んでいた、ということを意味します。芥川の活躍した20世紀初頭に英訳された『スペードの女王』が今でもインターネットで見つかります。それを読むと、私のようなロシア語の初学者でさえ間違えないような誤訳が目につきます。もっとも、翻訳のミスというものはあるのが普通で、それ自体は騒ぎ立てることでもありません。しかし、ロシア語そのものの理解が浅いと、翻訳された文章は、英語として読んでもおかしな文脈になることがあり、それはとうぜん英語圏でのプーシキンの評価や人気に直接繋がります。

そういう制約を承知で、あえて英訳で他言語の文学まで精力的に研究していた芥川には、いったいどんな問題意識があったのだろうか、と思いを馳せずにはいられません。

すると、芥川が活躍した20世紀初頭の日本と、プーシキンの生きた19世紀初頭のサンクトペテルブルクとに共通する点があることに気づきます。そもそもサンクトペテルブルクは、ロシアの西欧化を強力に進めたピョートル1世(1672ー1725年)が、ネヴァ川のデルタの湿地帯に建設した計画都市です。工事が完成して遷都したのが1712年ですから、プーシキンの時代は、それからまだわずか100年しか経っていません。さらにエカチェリーナ2世(1729ー1796年)は、ロシア・アカデミーに最初の本格的ロシア語辞典の編纂を命じます。そんな、西欧文化とロシア文化が融合かつ拮抗する国際都市にプーシキンが登場します。

プーシキンは、ヨーロッパ先進国なみに、ロシア文学の地位を上げようとします。フランス文学は言うに及ばず、当時ドイツも、すでに文学ではゲーテ(1749ー1832年)が、哲学ではカント(1724−1804年)、ヘーゲル(1770ー1831年)が出ています。さらにプーシキンは英文学からは、シェイクスピアに強く影響されてボリス・ゴドノフなどの詩劇を書きます。

『スペードの女王』の中で、ゲルマンがリザヴェータに送った手紙が、ドイツの小説の引き写しだった、という記述があります。ゲルマンがドイツ人という設定もあるでしょうが、それが、ヨーロッパでベストセラーになった『ウェルテル』(1774年)のような作品ではないか、とも想像できます。けれど、ドイツ語を知らないリザヴェータはそれに気づかなかった、というのは興味深いところです。つまり、フランス文学にしろ、ドイツ文学にしろ、英文学もそうでしょうが、ロシア語への翻訳とういものはなかった、あったにしろ限られていた、ということが分かります。つまり、翻訳を通じて先進国の文学を知る、ということはあり得なかった。それだけ、当時のロシア語は文学語としては、ヨーロッパ先進国の言語並にまだまだ洗練、確立されていなかった。それを成し遂げたのが、ほかならぬプーシキンだったわけです。

一方、20世紀初頭の日本も「西欧化」を目指していたことはロシアの事情と似ています。いちはやく欧米列強と肩を並べる一等国になるんだ、という意気込みはエカチェリーナ2世の時代のロシアと変わりがありません。ところが、明治政府は軍事一等国を目指したのであって、文化的に列強と肩を並べることはありえませんでした。そもそも西欧化といいつつも、英語も、フランス語も、ドイツ語も、文学を語る以前の問題としてことばそのものの習得と習熟が日本では困難だったのです。それは外国語が普通に話され、外国人もふつうに生活していたサンクトペテルブルクと、根本的に異なる点です。

芥川は、日本の西欧化が文化としてはうわべだけの物まねであることを意識した作家のひとりでした。漱石が芥川を見いだしたのも、きっと自身と同じ問題意識を若い作家に認めたからではないかと思います。けれど、こうした、西欧の文学に学び、追いつこうと考えた作家は、芥川が最後だったように思います。その画期となるのが、1926年の改造社「現代日本文学全集」に始まる「全集ブーム」です。以下主立ったものをWikipedia の資料から引用すると、 

現代日本文学全集 (1926―1931年)全63巻 改造社 発行点数25万
世界文学全集 (1927―1930年)全57巻 新潮社 40万
世界大思想全集 (1927―1933年)全126巻 春秋社 10万
明治大正文学全集 (1927―1932年)全60巻 春陽堂 15万
世界美術全集 (1927―1932年)全36巻 平凡社
近代劇全集 (1927―1930年)全43巻 第一書房
小学生全集 (1927―1929年)全88巻 興文社 30万
マルクス・エンゲルス全集 (1928―1930年)全20巻 改造社

「円本ブーム」とも呼ばれる出版現象です。円本ではありませんが、全集の予約制に対抗して、日本と世界の「古典」を安価に提供するという趣旨で、同じく1927年に発刊されたのが岩波文庫です。

こうして、欧米の文学は全集本の翻訳で手っ取り早く読む、という風潮が固定化します。しかも、タイトルとはいえ、「世界文学」と「日本文学」が全集という装丁のもと、本棚に対等に並ぶのですから、中身も対等のものに違いありません。この風潮はやがてそのまま、「西洋文化」と「東洋文化(日本文化)」という二極化の固定観念へと繋がっていきます。

こうした全集が発刊されたのはほとんどが1927年、芥川龍之介が命を絶つ年ですが、そうした土壌はすでにその前から形成されていたと見るべきでしょう。それは、作家が目指していた、ヨーロッパの先進文学を取り込もうとした姿勢とは相容れないものだったことでしょう。分かりやすい例を挙げると、芥川に『河童』という作品があります。読み出すとすぐに分かりますが、これは『ガリバー旅行記』(1726年)をモデルにしています。そのパロディとも、リメイクとも、人によって感じ方は違うでしょうが、問題はそこにはありません。『ガリバー旅行記』を巨人の国と小人の国が登場する童話と勘違いしている人も多いのですが、あれは文明批評、それも、かなりきわどい政治風刺の物語です。けれど、当時のイギリスとでは時代と政治事情の異なる日本で、それを翻訳で読んでも、ちっとも楽しめない。ガリバーよりも『河童』のほうが断然面白いのです。ついでに言うと、『坊っちゃん』もその手法は『ガリバー旅行記』です。

300年前のスウィフトがぴんと来なければ、では、150年前のエミリー・ブロンテ『嵐が丘』(1847年)はどうでしょう? 翻訳ではどうしても語り口が日本語として不自然さが出てしまうので、読み通すには忍耐が必要です。ところで、この小説の構造をそっくり借用した日本版『嵐が丘』ともいうべき水村美苗『本格小説』(2002年)がありますが、こちらのほうが、元祖『嵐が丘』の日本語訳よりも断然面白い。エミリー・ブロンテはイギリスではこんなふうに読まれたのだろう、という想像も働きます。

ちなみに、私も例に漏れず、「世界文学全集」世代です。学校の図書館には必ず、世界文学全集と日本文学全集が揃っていました。中学3年生だったとき、ふたりの先生がこんな会話をしているのを耳にしました。

― 3年**組の**さん(女子)は『戦争と平和』を読んだそうですよ。
― へえ、中学3年で。えらいですねえ。

『戦争と平和』を読むことは「偉い」ことなんだ、と知った私は、先生に誉められたい一心で、さっそく『戦争と平和』を読もうとしたのですが、冒頭から全然興が乗らない。退屈だ。数ページ読んで、本棚に返しました。プーシキンの『スペードの女王』も同様に「世界文学全集」に入っていたものです。全集に収録されていなかったら、プーシキンという名を知るのはもっと後になったことでしょう。でも、前回のプレゼンで話したように、翻訳で読んだプーシキンは、文章がへただな、という印象を残しただけでした。『魔術』のほうが、よっぽど面白かったのです。



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