![]() | 「人生は悲惨で、無意味だ。ならばもう一度」と、「生きることは苦である」と言いながらも「この世は何と美しく、人間の命は何と甘美なものであろうか」とは非常に近い内容であると思います。前者がニーチェの「永劫回帰(Eternal recurrence)」を最も端的に言い表した表現です。後者は釈迦牟尼の最も深遠な思想を言い表した表現ではないかと思います。ニーチェは東洋思想にかなり影響を受けていたという説があります。輪廻転生とか涅槃とまではいきませんが、「ならばもう一度」と「悲惨で無意味なもの」を敢然と肯定します。「永劫回帰」と「輪廻」との差は、もうあと一歩ではないでしょうか。 「それを言っては、お終いよ」と言うことを、敢えて言わせていただくと、「哲学は常に不完全です。更に決して、人助けの道具ではありません。」これも情熱をもって研究している先生方が聞いたら、お叱りを受けそうですね。哲人たちの言葉に対する情熱と執念には心から敬意を払います。しかし、「人の生き死に」の前では、如何なる思想も、もしかすると宗教も、無力です。自らの望まぬ死を納得して受け入れらえた人々の方が余程人間的に優れています。そういう意味で、「生きることの美しさ、甘美なること」を噛みしめて死ねれば、それだけで人生は、申し分ないものだと思います。私事でありますが、棺桶に入る前に、「あー、面白かった」と言いたいなと心密かに願っております。もし、本当にそう感じて絶命できれば、私の人生大成功です。 田形竹尾(大正5年生まれ)という人がおりまして、日本陸軍の戦闘機搭乗員です。太平洋戦争時には操縦技術は円熟期に入っておられた方で、たった何年か遅れで入隊し操縦を学んだ搭乗員の殆どが技量未熟のまま特攻隊員にされていったことを目の当たりにされています。田形自身も教官として多くの搭乗員を育て、その多くがお国のためというよりは、自分の妻子、親兄弟のために散華されました。田形も本土決戦が始まれば、真っ先に特攻出撃を行う覚悟でした。田形は特攻教官として、更には特攻隊員として終戦を迎えた稀有の人です。その田形が、戦後の人世をとおして問い続けたことは、特攻隊員たちの死の意味です。いくら高名な思想家、宗教家、知識人の話を拝聴しても、納得を得られることは一度も無かったとのことです。 角田和夫は日本海軍の戦闘機搭乗員で、特攻隊員でもありました。大変謙虚で、お優しい人柄の方です。操縦技術は間違いなく最高水準にあったのに、ご本人は全くそのことに触れず、命を守りきれなかった後輩搭乗員に、ひたすら懺悔されているような話しかされません。特攻隊員たちが断ち切りがたい生への執着を断ち切って死地へと出撃できたのも、「一刻も早くこの戦争をやめなければならない。死ぬのは俺たちが最後にしてくれ」という祈りであったと言う内容のことを記述されています。お二方とも2~3年前までは、確かにご存命でしたが、現在はどのようにされているのか存じ上げません。 このお二人に共通するのは、「死を生きた証言者」であるということです。田形氏の「日本人への遺書」(現在手元にないので、書名を誤っているかも知れません。その際はお許しください。)、角田氏の「修羅の翼」は東西の有名な思想書よりもずっと人間の存在理由を突き詰めて考えねば読めない価値ある書であると思います。特に角田氏の著書は、日本人皆に是非とも読んでいただきたい程の書です。戦記物というのは娯楽性が強いもが普通なのですが、大体、戦争を娯楽にするとは一体どういう神経をしているのだと思います。角田氏の著書には、全く娯楽性がありません。それだけに却って、つまらないかも知れません。しかし、当時の人たちがどのように生への執着を断ち切ることを要求され、苦悩し、最後には、笑って死んで行ったのかがよく理解できます。否、そんなに簡単に理解してはなりませんね。私の下らぬ話などには絶対にない、体験した者にしか持てない「凄み」があります。 実存主義の範囲は、一般には5人の哲人ですが、これは高校・大学レベルでの狭義(つまり西欧哲学の範囲内)の話です。広義にはキリストや釈迦牟尼まで、かなり大勢がふくまれているのですよ。そこから先は自分で考えなさいと言うようなものであると私は、個人的に、理解しております。亡くなられたご先祖様たちなら「Live For Life」の意味するものを即座に理解できると思います。 森麻季の「Stand Alone」を何回聴いても日本語が聴き取れないのですが、とても気に入ってきました。森の繊細なビブラートはすごく綺麗だと思います。美奈子さんぐらい正確に聴き取れるように発音して欲しいな。CD買ってこよ。 |
![]() | ミューズさんにご指導いただいた方法で、頑張ってみます。アドバイス、有難うございます。 |
![]() | 大和の蛙さん >ショック、かなり長いお返事をほぼ書き終えたのですが、またまた操作ミスで全部吹っ飛んじゃいました。 PC上からBBSに投稿されているのでしょうか?それだったら、長めの文章を入力するときは、あらかじめテキストエディタ(メモ帳でも何でも)かWord、Excel等にあらかじめ文章を入力・保存しておいてから、入力欄のボックスに貼り付けて投稿されてはいかがでしょうか?もちろん、お使いのPCのOSがWindowsではなく、Mac OS XかLinuxだったとしても、付属のテキストエディタが必ずあるはずです。 そうしておけば、操作ミスで投稿できなかった場合でも、保存済みのテキストを呼び出せばすぐに送信できます。 それから、新しい投稿をする際に、削除キーを設定されていますでしょうか?既にご存じだとは思いますが、投稿する際にこれを設定しておくと、管理者でなくとも既存の間違った投稿を後から削除できます(画面の右下にあるテキストボックスで、削除したいスレッド番号と削除キーを入力し、削除ボタンをクリック)。残念ながら、できるのは投稿の削除だけで、修正はできないようです。ちなみに、「クッキーを記憶」が有効になっている場合、つまりチェックがついている場合(デフォルトではこの設定)、削除キーはブラウザに保存されているため、2回目以降の入力は不要です。 それでは。 |
![]() | ショック、かなり長いお返事をほぼ書き終えたのですが、またまた操作ミスで全部吹っ飛んじゃいました。気を取り直してまた送信します。しかし、本日はショックが大きすぎて、立ち直れません。もう少し時間を下さいね。本当にショックです。折角早起きして頑張ったのに。かなり落ち込んでいます。 森麻季の「Stand Alone」は「坂の上の雲」第2部の主題歌だったのですね。壮大で美しい曲です。因みに第1部では、サラ・ブライトマンが同曲を唄っています。本日知りました。私は森の方が好きだな。日本語聴き取れませ嗚呼が。一寸しつこいですね。森の日本語は聞き取れませんが、唄の上手さに免じましょう。素晴らしく上手ですから。 | |
![]() | 大和の蛙さん、お気の毒様でした。ミューズさんも書かれていますが、長文の原稿は、エディタで作成してこまめに保存することをお勧めします。 最近はそうでもないですが、昔のPCだと、油断すると固まってしまい、せっかく作成した原稿がおじゃんになるということが良くあったため、「頻繁に保存する」が鉄則でした。 |
![]() | 大和の蛙さん 実存主義者3人の人間観について説明していただき、有難うございます。 彼らは、いかにして現実社会の苦悩(絶望や不安)を解放して「人間が生きること」に価値を見出だすかということを生涯かけて追究してきたわけであり、広い意味で、「Live For Life」の精神に繋がるのかなとは思いました。ただ、現実社会の絶望や不安を解放するために彼らが提示した思想は、それだけでは、到底、(哲学的意味における)人生の根本問題を解決することはできません。あくまでもそのための重要な示唆を与えてくれたということではないかと思います。 |
![]() | お二人とも私の詰まらない話に耳を傾けいただいて、ありがとうございます。 - 美奈子さん言ってましたね。「ありがとう」にありがとうと。今ふと思い出しました。 zyam62さん、私も「天に響く歌」を読みました。指摘されていた正にあの部分です。心打たれました。いじらしく、美しいほど正直。本当は彼女の心の中には、どう処理したら良いのか分からないぐらいの大きな葛藤があったはずなのに、それをたった独りで背負って戦うんです。余程意志が強く、いさぎ良い人にしかできることではありません。概して、病人は自分の不遇を愚痴り、我がままになるものです。でも、彼女は全く違うんです。本田美奈子は息を引き取る最期まで、一流の本田美奈子なのです。私には彼女は美しい歌を唄うお姫様に思えます。そして、岩谷時子氏の詞が全部彼女に重なるのです。とりわけ、彼女のために書いた「時」という曲の詞がです。あの曲は彼女一人だけのためのものです。「歌姫」と言う言葉が彼女以上に相応しいと感じたことが有りません。コンプリート・クラシカル・イヤーズの美奈子さん、この世のものとは思えないぐらい美しいですね。久米早百合(昔、久保田早妃)がイエス・キリストに傾倒し、キリストを「彼」と呼び、「彼のことをもっともっと知りたい」と言っていたのですが、丁度そんな感じかも知れません。本当の容姿は心を通して見るものだと思います。天童よしみも可愛いと思います。弘田三枝子も整形やダイエットをしなくても十分可愛いのに、zyam62さんの話をうかがって、酷い話だなと思いました。 ミューズさん、出来るだけ短く端的に頑張ってみます。因みに、ヤスパーズとハイデッカー(三木清の先生)は殆んど知らないので、こちらは容赦願います。 実存主義という言葉を実際に用いたのはサルトルただ独りなのですが、確かにミューズさんの仰るようなくくりになっています。 サルトル:「実存は本質に先立つ」サルトルは無神論的立場から、人間は神から命をを受けて生まれいでるのではない。全く無目的に生まれると考えました。人間が作り出したものには最初から目的があります。人間は様々なものをそれぞれの目的で利用します。一個人の立場に立つと、決して自ら望んで生まれいでたものではありません。おまけに人間の上に立つ神がいないので、生まれ出でた目的は何ら示されていません。これを「自由の刑に処せられている」と言いました。自由イコール不安ですから、それから逃げたくなる。しかし、「自分のあり方を自らが選択し、人類の運命に参加しなければいけない」というのが主な主張です。 キルケゴール:この人はキリスト教徒です。神の前に人はただ独り裸で立って生きることを主張しました。神の前では如何なる肩書き家柄も意味を成しません。そこには万人に向けた客観的真実など存在しません。自分にとっての命がけの主観的真実が横たわっているだけです。そこでは絶望こそ死を意味するもので、この人の有名な著書「死に至る病」とは絶望のことで、決して絶望してはならないと説いています。 ニーチェ:無神論的立場から自ら宗教を乗り越える宗教を作り出したと思います。能動的ニヒリズムや永劫回帰という言葉の意味するものは、人生は悲惨で無意味だ、しかし、だからこそこれを直視し、人生なんてたかがこれほどのものか、ならばもう一度同じ人生を歩もうという強い勇気と意志を提唱しました。 全部自分の頭の中にある言葉で説明させていただきましたので、言葉の正確さを欠いているとは思いますが、概ね正しいと思います。(あー疲れた。ミューズさん、お手柔らかにお願いします。苦情ではもちろんありませんよ。)どれも皆生きることの意味は生きることであると言えると思います。 今から「コンプリート…」の美奈子さんに会ってきます。 |
![]() | > Live For Life(生きるために生きる)を初めて眼にしたとき、これってサルトル、キルケゴール、ニーチェに代表される Existentialism(実存主義)と同じだと思いました。 >サルトル曰く、「実存主義はヒューマニズムである」だけです。 大和の蛙さん キュルケゴール、ヤスパース、ニーチェ、ハイデッガー、サルトルらは、それぞれ独自の人間観を主張していますが、いずれも実存主義者として、「いかにしたら、人間は絶望や不安から解放されるか」ということを生涯をかけて追究してきたといえます。それゆえ、彼らの主張する人間観は、「人間とは何か?」といった命題を考える上で、重要な示唆を与えてきたものと考えます。それでは、先の「Live For Life(生きるために生きる)」という考え方が、彼ら実存主義者たちの人間観と本質的に同じであるとされる理由は何でしょうか? |
![]() | 削除してください。すみません。 | |
![]() | 554、削除しました |
![]() | 弘田三枝子の異常なダイエットの話は当時報じられました。僕はそれを知ったとき大いに憤慨し芸能界とはなんと愚かな者たちの集まりなんだと思いました。しかし、そうしたことは芸能界に限らず私たちの身の回りに日常的にあって、顔や体型の美醜をあげつらうことなど実際に僕自身も経験しています。今では○○ハラスメントなどと戒める社会的な意志も見えてきたので少なくなったとは思いますが(楽観的?)、当時はまるで野放しだった。弘田三枝子はこうした風潮の被害者だと今の今まで思っています。 僕は演歌の天童よしみが出てくるとほっとします。天童よしみのかわいさがわかる日本人はすばらしい。 本田美奈子.は、歌もその人間性も何もかも全部まるごと大切な何かです。今も存命の人ならもう少し冷静に好悪の分析やら現実的に行うこともあるでしょうが、本当に残念ながらもうこの世にいない。だからもう僕にとっては観音様みたいな人なのです。コンプリートクラッシックイヤーズのボックスの本田、本当にきれいですね。 最近「天に響く歌」という本を読みました。高杉さんに、肩をふるわせて泣いているところを見られていることに気づいた本田が「バレたか。」といって笑顔を作ったという記述があります。なんとも言葉にならない思いでしばらくのあいだ沈思黙考でした。 僕は森麻季も好きです。最近は日本で活動しているみたいですね。ヨーロッパでずいぶん苦労したと聞きましたが伴侶とお子さんにも恵まれてよかったです。 |
![]() | zyam62さん、もし、私がついついずに乗って、ぶしつけな物言いをしてしまっていたのなら、お詫び申し上げます。どうそ、お気を悪くしないで下さい。私は、本田美奈子のことを考えているときが一番楽しいし、本田美奈子が褒められると嬉しいし、本田美奈子が侮辱されると、冷静さを装っていても、怒りがこみ上げてきます。本当は赤の他人なのに、可笑しいですよね。他の私の好きな音楽家のことで、酷評されても、「フーン、この人にはそんなふうにしか聴こえないんだ」で終わりなのですが。入院中本当は辛かったはずなのに、見舞ってくれる人に涙一つ流さず、明るく陽気に振る舞い、本当は独りの時に泣いていたなんて、余りにもけなげ過ぎます。 弘田三枝子のお話大変参考になりました。初めて聞かせてもらった内容です。「わたしが死んだら」のジャケットの写真は、まるで西洋人形のように美しいと思いますし、YouTubeの動画でもスタイル抜群なのですが、その裏にそんなことが隠されているなんて想像すらつきませんでした。人間心理として興味深い話ですね。 これはジャンルにもよると思うのですが、流行歌の世界は、とても普通の人が足を踏み入れられるところではありません。ご存じかもしれませんが、○日の人と、○○出身の人が数多くいます。「え!あの人も、この人も」という状態です。当然、裏では醜い争いがないと考える方が不自然です。私自身に関しては、差別もしていませんし、偏見もないつもりなのですが、そんな簡単な話ではありません。水平社をご存知ですか?私その水平社発生の県に住んでおりますので、嫌でもそういう話は裏で頻繁に耳にします。この話、後で「刺される(本当に刺されるんですよ)」と大変ですので、ここまでで宜しいでしょうか? - これを読まれた方で気を悪くされた方もおられるかも知れませんが、私はそういう方々が大変なご苦労をされていることも存じ上げております。何とかしなければならない問題であるとも認識しております。まだまだ不勉強なこともお許しください。 デビューしたての中森明菜(...ちょっと怖い!)の歯並びがガタガタだったのはご存知でしょうか。歯並びの矯正をしてきれいな歯になりましたね。松田聖子ももともとは一重まぶただったのをご存知でしょうか。顔が少しづつ変わっていったので、あまり気付かれていないようですが、今や完全に別人の顔です。余り世代の変わらないアイドルだった本田美奈子は、たぶん何も手を入れていません。なぜなら、顎が小さいので歯並びが少し悪いでしょ。鼻孔も左右非対称です。私はあの顔が好きですが、アイドルの顔としては不十分です。すぐに、バンド・ブームがやってきて、顔、姿にはあまり高い要求が無くなったように思えます。レベッカのノッコ、よく見るとイモ姉ちゃんでしょ。この発言も問題があるな。でも、これぐらいは許してもらえます。それでも今はまた外見重視に戻ってしまったようにも見えます。ただし、個性を売っている人たちは、十分受け入れられているのではないでしょうか。中島みゆき、山姥みたいな鬼束ちひろなんかそうだと思います。反対に不細工を売り物にしている人もいます。ポール・ボッツ、スーザン・ボイルでしたっけ?実力と美形を兼ねそろえたソプラノの森麻季やヴァイオリニストの諏訪内あきこ(漢字を忘れました)。ただしこの人たちは例外中の例外です。森麻季なんか外見重視のAPEXというレコード会社からCDが出ています。残念ながら、人格が評価されることは稀と言うより本田美奈子以上に評価されている人は一般にいないのではないかと思います。私もそのような人がいたら知りたいと思います。たぶん本当は厳しい世の中で、誰しも人格の陶冶がなされていると思うのですが。それは売り物にはならないのだと思います。本田美奈子にしても命を賭して、そして亡くなったからこそ、漸くクローズ・アップされたのでははでしょうか。本当はあんなに素晴らしい実力の持ち主なのに。 |
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