穴山信友(あなやま・のぶとも) 1506〜1560

甲斐国武田氏の重臣。この時期の穴山氏系図には混乱が見られるが、穴山信風(信綱)の子とされる。穴山信君(梅雪)の父。通称は八郎か。伊豆守。号は蟠龍斎。甲斐国河内の領主。
穴山氏の支配した甲斐国河内地域は今川氏の領国である駿河国と接しており、そのために武田氏と今川氏の間に在って変転あるいは両属することで存続してきたが、永正18年(=大永元年:1521)7月に信友のことを示しているとも目される「武田八郎」が駿河国の今川氏のもとから召還されており、この頃に甲斐守護・武田信虎に服属して以来、一貫して武田氏に属したようである。
享禄4年(1531)に父が没すると家督を相続し、天文年間(1532〜1555)の初期に武田信虎の二女(南松院)を妻とした。その後、居館を南部から下山に移し、城下の整備を実施している。
信友は武田信虎・信玄の2代に亘って仕えて重く用いられたが、その一方においては今川氏との関係も維持している。天文16年(1547)2月には今川義元と共同で、富士山本宮浅間大社神殿に戦乱で失われた脇差を奉納していることが知られ、天文21年(1552)の信玄嫡男・武田義信と今川義元の息女の婚儀に際しては駒井高白斎と共に今川氏との談合を行っており、これらの功績からか、年未詳ではあるが今川氏より駿河国山西に所領を与えられている。
永禄元年(1558)6月から11月の間に家督を信君に譲り、蟠龍斎と号して出家したのちも今川氏との通交を担い、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦で今川義元が戦死したのちには信玄の命を受けて駿河国に赴き、義元の後継・今川氏真と交渉を行っている。おそらくは義元戦死の弔意と氏真が家督を相続したことの祝儀、武田氏と今川氏の同盟継続を申し合わせたのであろう。
同年12月16日に下山で病没した。享年55。法名は円蔵院殿剣江義鉄大居士。
酒好きで、泥酔して乱れることもしばしばであったと伝わる。
文人としても優れ、歌人・冷泉為和らが甲斐国を訪れた際には招いて歌会を催していることが知られる。また、天文13年(1544)に武田信玄が冷泉為和を招いて歌会を催したとき、その世話役をも務めている。