平賀広相(ひらが・ひろすけ) 1528〜1567

毛利家臣。平賀興貞の子。平賀隆宗の弟。通称は新九郎。蔵人大夫。
平賀氏は出羽国平賀(平鹿)郡を領した出羽国平賀氏の一族で、安芸国に移住した一派は高屋保を本拠とする国人領主に成長した。
広相の父・興貞は安芸国頭崎城に拠って尼子氏に属したが、祖父の弘保と隆宗・広相兄弟は白山城に拠って大内義隆に仕えた。
天文18年(1549)7月に隆宗が病死したのち、義隆は平賀氏家中の反対を押し切って寵愛していた小早川隆保に平賀氏の名跡を継がせたが、その義隆が天文20年(1551)9月に陶晴賢に討たれると、広相は陶氏と盟約を結んでいた毛利元就の後援を得て平賀氏本宗家を継いだ。
天文21年(1552)3月には元就の三男・小早川隆景と兄弟の契約を結んで毛利氏に属し、天文23年(1554)の陶氏との戦いでは先鋒となって奮戦、翌天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦にも従軍している。
永禄10年(1567)3月17日死去。40歳。法名は高岳常雲。