松井康之(まつい・やすゆき) 1550〜1612

細川家臣。細川藤孝忠興の2代に亘って仕えた。松井正之の二男。通称は甚介・猪助・胃助・新助。佐渡守・式部大輔・従五位下。
はじめ将軍・足利義輝に仕えるが、永禄8年(1565)に義輝が横死すると細川藤孝のもとに寄寓し、藤孝が永禄11年(1568)に織田信長の後援を得て山城国勝龍寺(別称:青龍寺)城を奪回したときに功を挙げた。また、藤孝の養女を娶り、藤孝側近の筆頭格として重く用いられた。
この後も藤孝に従い、信長の命を受けた藤孝を援けて丹波・丹後国侵攻に尽力。また、これと並行して行われていた石山本願寺攻めにも参陣するなど、藤孝の厚い信任を得てその名代として幅広く活動している。
天正8年(1580)または9年(1581)には細川昌興(藤孝の二男)と共に藤孝より家老職を賜り、丹後国与謝郡日置城主として1万3千石を与えられた。天正10年(1582)には久美松倉城主となり、2万石の知行を得る。
藤孝の隠居後は藤孝の子・忠興に仕え、天正18年(1590)の小田原征伐文禄の役などに参陣して軍功を挙げた。
慶長5年(1600)、忠興の豊前国移封に伴って康之も豊前国に移り、杵築城を預かる。同年の関ヶ原の役に際しては同城を守備し、西軍方の大友義統勢の鎮圧に功があり、役後に2万6千石を領有。
慶長17年(1612)1月23日、63歳で没した。法名は春光院殿前佐州太守英雲宗傑大居士。
武人としてばかりでなく茶人としても著名であり、千利休と深い交わりがあった。利休は天正19年(1591)2月28日に自害したが、その直前の2月14日付けで康之に宛てられた書状は利休最後の書状として有名である。