三浦時高(みうら・ときたか) 1416〜1494?

相模国の豪族。三浦高明の子。三浦介。相模国三浦郡新井城主。
鎌倉幕府草創期に活躍した三浦氏は絶大な威勢を誇っていたが、鎌倉時代中期の宝地合戦で勢力を大きく衰退させ、南北朝期には足利氏に属すも勢力を伸長させることができず、本貫地の三浦半島では南端部の数村の所領と「三浦介」の称号を相伝するに止まっていた。
14世紀半ばの観応の擾乱の頃、三浦高通の代には相模守護職を回復したのちは、一時の断絶はあるものの高連・高明と伝え、永享元年(1429)には時高が相模守護に就任していたことがわかる。
時高は鎌倉公方・足利持氏に仕え、永享10年(1438)8月、持氏が上野国に出奔した関東管領・上杉憲実を討つために発向する際に鎌倉府の留守の警固を任された。しかし10月には幕府の支援を受けた憲実方に応じて鎌倉から撤退し、11月1日には鎌倉に侵攻して占拠したため、箱根での戦いに敗れて退却してきた持氏は鎌倉に入ることができなかった(永享の乱)。また、永享12年(1440)からの結城合戦においても鎌倉の警固を任されている。
これらの戦役で活躍した扇谷上杉氏に相模国内の闕所地の多くや守護職が与えられ、相模国は扇谷上杉氏の分国と化したが、時高は扇谷上杉氏と競合せずに提携する途を選び、年次等は不詳ながらも扇谷上杉持朝の二男・高救を養嗣子に迎えている。
享徳の乱における時高の動向は伝わらないが、地勢や姻戚関係からも上杉方であったと思われ、寛正3年(1462)3月末までには隠退し、家督は養嗣子の高救に譲ったとみられる。
なお、軍記等では、時高は嗣子に恵まれなかったため上杉高救の子(長じて三浦義同)を養子とするも、晩年に生まれた実子に家督を相続させたいと考えて義同を廃嫡し、義同は出家して道寸と号して足柄の総世寺に身を置いていたが、母方の実家である大森氏の支援を受けて明応3年(1494)に挙兵、時高は義同によって9月23日に新井城を攻められて討たれたとしている。享年79。法名は聖方または聖亀。
この義同に討たれるまでの経緯は信憑性の高い史料には見えず、不詳と言わざるを得ない。しかし何らかの理由で義同と反目し、結果として討たれた可能性は高いであろう。