扇谷上杉持朝の二男。法名は道含。不改軒とも号す。扇谷上杉顕房の弟。扇谷上杉定正の兄。妻は大森氏頼の娘。
妻の母(大森氏頼室)の兄である相模国三浦郡新井城主・三浦時高の養嗣子となり、寛正3年(1462)3月に時高が隠退するまでに三浦氏の家督と「三浦介」の称号を相続したものとみられ、文明8年(1476)からの長尾景春の乱に際し、実家である扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に協力して事にあたった「三浦介」はこの高救であろう。
この道灌が謀殺されたことを端緒として勃発した長享元年(1487)からの山内・扇谷の両上杉氏の抗争(長享の乱)に際しては山内上杉氏に与し、実家である扇谷上杉氏とは敵対した。これは、昵懇であったと思われる道灌が殺害され、その嫡男の太田資康が山内上杉方に逐電したことを受け、それに追随したものと目されている。長享2年(1488)9月には子・三浦義同(道寸)とともに武蔵国須賀谷原に在陣しており、この道寸の娘は太田資康の妻となったことが知られているが、この時点で婚姻していたかは不明である。
その後の動向は不詳であるが、明応8年(1499)9月に執行された上杉持朝三十三回忌法要に際しての法語によって、その時点での生存が確認され、他の大家を支えているとされている(『玉隠和尚語録』)。