南部政長(なんぶ・まさなが) ?〜1360

八戸南部氏。南部政行の四男。母は波木井南部実継の女で、南部師行の同母弟。通称は六郎。遠江守。
正慶2:元弘3年(1333)5月、兄の南部時長・師行とともに、鎌倉へ進攻する新田義貞の軍勢に参加(鎌倉の戦い)。このとき政長は奥州から馳せ参じたともいい、功により甲斐国倉見山付近、陸奥国糠部郡七戸郷を与えられた。
同年冬、北畠顕家が陸奥国に入部するに際し、糠部郡の目代(検断奉行)に任じられた兄・師行とともに陸奥国に赴任し、糠部郡八戸に根城を築いて拠った。
建武2年(1335)8月、中先代の乱に呼応した陸奥国北条余党の乱を平定するなど、師行とともに建武政権下の陸奥国の治安に任じた。
同年、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉に拠って建武政権への叛意を示し、北畠顕家がこの討伐に向かった際(北畠顕家の征西)には子・信政を従軍させ、政長自身は糠部の根城を守備している。
暦応元:延元3年(1338)5月、北畠顕家の二度目の征西戦に従軍した師行が顕家とともに討死したのちにはそのあとを継ぎ、南朝の退勢を覆すために東国に下向した北畠親房に応じて北奥羽の足利(北朝)勢力と戦い、北奥羽南朝勢力の中心となった。
暦応4:興国2年(1341)の春、この前年に陸奥国桃生郡石巻の日和山城に入城した北畠顕信の命を受けて南進を開始、岩手郡の栗屋河(厨川)で北朝方の稗貫勢を破って和賀郡に進み、顕信と呼応して多賀国府の挟撃を図ったが、北朝方の奥州総大将・石塔義房の策謀で曾我勢に居城の根城を衝かれたことから軍勢を返したため、顕信の多賀国府奪還は成らなかった(三迫合戦)。
これと前後する暦応2:延元4年(1339)3月、暦応3:興国元年(1340)6月、暦応4:興国2年2月、貞和2:興国7(=正平元)年(1346)4月、同年12月の5度に亘って足利直義から勧降状が届けられているが、いずれも一蹴している。
康永2:興国4年(1343)には曾我師助を戦死させて後村上天皇から刀と甲冑を賜り、貞和元:興国6年(1345)2月18日、北畠顕信から陸奥国加美郡を宛行われた。しかしこの加美郡は足利尊氏の所領であったため、この拝領が実現したかは不詳である。
観応元:正平5年(1350)8月15日、八戸郷の所領と家督を嫡孫の信光に、七戸郷を嫡男・信政の未亡人である加伊寿御前に譲った。信政はこの2年前に吉野で高師直勢と戦って討死している。
延文5:正平15年(1360)8月に没した。贈正五位。