南部政栄(なんぶ・まさよし) 1544〜1610

八戸南部氏。南部一族の新田行政の子。幼名は久松。通称は彦次郎。薩摩守。
天文17年(1548)、嗣子のなかった八戸南部氏17代・八戸勝義の死没を受けて5歳で家督を継承し、18代の当主となる。
かつて南部氏の惣領家であった八戸南部氏は、天文年間(1532〜1555)前期に治義・義継・勝義の3代に亘って早世が続いたために勢威が衰退しており、家督継承時や天文21年(1552)に一族の謀叛や侵攻を受け、永禄10年(1567)には、実父の葬儀に出掛けた際に一族の櫛引氏(四戸南部氏)に城を襲撃されるなどしているが、同年9月には南部氏惣領・南部晴政の一字を受けて政栄(政儀)と名乗り、当時の惣領家であった三戸南部氏の傘下に入ることで家の存続を図ったものとみられる。
その後に勢力を回復し、元亀元年(1570)頃(年次に異説あり)、既に南部信直を継嗣に定めていた晴政に男児が生まれたことで、次期惣領をめぐって晴政と信直の反目が顕著となると両者の調停を行っている。天正10年(1582)に晴政、そしてその実子である晴継の相次ぐ死没(ただし、晴政・晴継の死没時期については異説もある)によって南部氏惣領が不在となり、その後継者選定に際しては北信愛とともに信直を推した。
信直の家督継承後は九戸政実津軽為信の台頭を制せなかったことで南部惣領家の勢威は相対的に低下したが、政栄は惣領家の権力確立に尽力して信直をよく支え、天正18年(1590)に羽柴秀吉小田原征伐を行うにあたって全国の諸大名に動員をかけた際には、秀吉に直参して独立大名となることをあえて望まず、惣領家の配下となってこれを支える途を選んだという。
天正19年(1591)の九戸政実の乱に出陣。
慶長15年(1610)に没した。享年67。