北信愛(きた・のぶちか) 1523〜1613

南部一族。北(南部・剣吉)致愛の子。通称は彦太郎。尾張守・左衛門佐。出家して松斎と号す。剣吉城を居城としたことから剣吉氏を称し、この剣吉城が三戸城の北方に位置したことから、北氏をも称した。南部氏には、北氏と同様に東・南を姓とする一族がある。
父の北致愛は南部氏21代・南部信義の子で、信愛は南部氏24代の南部晴政の再従兄弟(またいとこ)にあたる。
南部氏惣領の晴政は長らく男児に恵まれなかったため、永禄8年(1565)頃に長女を娶せて南部信直を嗣子としていたが、元亀元年(1570)頃に長男・晴継が生まれたことによって晴政と信直が対立するようになると、南部(八戸)政栄とともに信直を擁護した。
晴政・晴継の死没によって三戸南部氏の嫡流が途絶え、その後継者を選定する際の重臣会議においても政栄とともに信直を推し、強引とも言うべき手法で家督に据えたという。
以後は参謀格として信直を補佐し、年次不詳ながらもこの頃と推測される信愛の知行地は8千石で、被官の中では第3位の大身であった。
信直が中央政局の実権を握った羽柴秀吉と誼を通じるにあたっては、その前段として前田利家と親交を持ち、天正15年(1587)4月には信直の使者として加賀国の前田利家を訪ね、九州征伐の陣中に在った秀吉に臣従の意思を伝えた。
天正18年(1590)の小田原征伐には信直に従って出陣。
天正19年(1591)3月、九戸政実らが信直への反抗を顕わにすると、翌月には信直の子・利直とともに京都へ向けて発ち、秀吉に情勢を報告。間もなく奥州討伐軍が差し下されることとなり、同年9月の九戸城攻撃にも出陣したようである(九戸政実の乱)。
慶長3年(1598)、花巻郡代となっていた二男・秀愛が没するとその後任を命じられ、慶長4年(1599)に信直が没すると郡代の辞任を申し出たが、新当主の利直はこれを許さなかったという。信任の厚さがうかがえる。
慶長5年(1600)の会津上杉征伐に際しては留守役を勤めていたが、この間に旧領主らによる一揆が起こると一族を差配して危機を脱し、出征していた利直以下の軍勢を呼び戻し、翌年にかけてこの一揆を鎮定した。
慶長18年(1613)、花巻城にて没す。享年91。
戦いに臨んでは常に小さな観音像を髻(もとどり)の中に収めていたという。