奥平貞能(おくだいら・さだよし) 1537〜1598

三河国設楽郡作手(つくで)の領主。奥平貞勝の嫡子。通称は九八郎。美作守。
姓は平氏。奥平氏はもとは上野国に住んでいたが、上野国奥平郷よりこの奥平姓を称す。
貞能ははじめ今川氏に仕えたが、永禄3年(1560)頃から今川氏真に背いて徳川家康に属し、永禄11年(1568)の掛川城攻めにも従軍した。
元亀元年(1570)6月の近江国姉川の合戦には、酒井忠次麾下として参陣し、戦功を挙げた。
元亀3年(1572)10月、甲斐国の武田信玄が徳川領の三河・遠江国への侵攻を開始すると武田氏に降ったが、所領問題のもつれから翌天正元年(1573)8月頃より再び徳川氏に属すようになり、これを討伐しようとした武田氏が軍勢を興したことから、天正3年(1575)の長篠の合戦が引き起こされた。ここで子・信昌とともに織田・徳川連合軍の勝利の道を開く。
慶長3年(1598)12月11日、京都伏見にて没した。