菅沼定盈(すがぬま・さだみつ) 1543〜1604

徳川家臣。菅沼定村の長男。幼名は竹千代。通称は新八郎。織部正・従五位下。
はじめ今川氏に属して三河国設楽郡野田城にいたが、永禄4年(1561)に今川氏より離反して徳川家康に属し、本領を安堵された。この徳川氏へ従属したのち、今川氏真に攻められて一時は野田城を失うが、永禄6年(1563)6月に回復。
永禄11年(1568)、遠江国侵攻戦において戦功があり、井伊谷城・刑部城・浜松城を陥落させた。
元亀2年(1571)に一族以下の多くが武田方となるが、定盈は一貫して徳川氏に属した。元亀4年(=天正元年:1573)に武田信玄に野田城を攻められ、寡兵でよく防戦したが、水の手を断たれたこと、救援が期待できないことなどから開城して捕われた(野田城の戦い)。その防戦ぶりを見た信玄に仕官を勧められたが容れず、その後の人質交換によって解放された。
天正3年(1575)の長篠の合戦においては鳶ヶ巣山砦を攻め、武田勢の退路を遮断する功を立てた。また、天正10年(1582)の甲斐国侵攻、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも従軍。
徳川氏の関東移封後は上野国阿保で1万石を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には江戸城津留守居役を務める。
伊勢国長島城主となったのち、慶長9年(1604)7月18日に没す。63歳。法名は長翁宗堅勝徳院。