武田信勝(たけだ・のぶかつ) 1567〜1582

武田勝頼の嫡男。母は織田信長の養女(遠山直廉の娘)。幼名は武王丸。通称は太郎。
祖父・武田信玄が元亀4年(=天正元年:1573)4月に没した際、勝頼は武王丸が成人したら速やかに家督を譲ることを遺言されたという(『甲陽軍鑑』)。
正確な時期は不詳だが、天正7年(1579)12月頃に13歳で元服したようである。これと前後して武田一族や家臣の多くの官途や受領名が変更されていることから、信勝は元服と併せて武田氏当主に就任したとも見られているが、実質的な当主としての権限は引き続き勝頼が担っている。
記録を見る限りでは天正10年(1582)2月からの織田氏による武田征伐において初めて軍陣に赴き、3月11日の田野の合戦で奮戦するも戦死した(武田征伐)。享年16。史料や軍記によって異なるが、その死に様は討死とも自刃とも伝わる。
この武田征伐において3月2日に新府城で軍議が行われた際、去就に惑う父の勝頼に対し、これまでの父や長坂光堅跡部勝資武田信豊らの主導によるこれまでの方針を批判し、新府城で滅亡すべきだと堂々と説き、自分の生母が信長の養女であり、征伐軍大将の織田信忠とは従兄弟にあたるため織田に近いと思われるだろう、だからこれまで強く諫言することができなかったのだ、と言い放ったという(『甲陽軍鑑』)。
慶長5年(1600)に至って高野山で供養が行われた。法名は英材雄公大禅定門。