土屋昌次(つちや・まさつぐ) 1545〜1575

武田家臣。通称を平八郎。右衛門尉。出自は武田信玄の傅役を務めた金丸虎義の二男。
永禄4年(1561)9月の川中島の合戦:第4回において信玄奥近習のひとりとして17歳で初陣を飾り、その後に信玄の命により、武田支族の土屋氏の名跡を継ぐ。
元亀2年(1571)の三河国加茂郡への侵攻においても功を示し、元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦では、徳川方にその人ありと知られた剛将・鳥居信之と激しい一騎討ちを演じ、その首級をあげた。
信玄が上洛途上の信濃国駒場で病死したときに殉死を願い出たが、重臣の高坂昌信に「死ぬことは簡単だが、信玄公の遺志を守り(信玄の跡を継いだ)勝頼公のために働いてほしい」と説得されたという逸話も残る。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦では、織田方の構築した馬防柵に攻めあぐんでいたとき、突破口を開くために単騎で乗り込んで、鉄砲隊の集中攻撃を受けて落命した。31歳の若さだった。法名は昌次院殿忠屋知真大居士。
武田家滅亡の天目山下田野の合戦で「片手千人斬り」の武勇伝を生んだ土屋昌恒の実兄。