引田(ひけた)の合戦

天正10年(1582)8月、長宗我部元親によって阿波国勝瑞城を逐われた十河存保は讃岐国へと逃れて虎丸城に入った(中富川の合戦)。しかし、東からは長宗我部元親、西からは香川親和が迫り、苦境に立たされていたのである。
存保は自力で身を保つことが困難なことを悟り、羽柴秀吉に救援を求めた。
秀吉はその頃、柴田勝家との対立が表面化し、有事に備えることを考慮すると兵を率いて四国に赴くことはできなかったのである。かといって見捨てるわけにもいかず、そこで秀吉は淡路国洲本にいた仙石秀久を救援軍として讃岐国に派遣したのであった。

一方、長宗我部元親も天正11年(1583)春、白地城より2万の大軍を率いて進発、美馬郡と阿波郡の境の大窪峠より讃岐に攻め入り、虎丸城に迫った。
田面山に布陣した長宗我部勢は、虎丸城の周囲の田に入って麦薙ぎ、苗代返しなど、十河方の食糧を窮地に陥れる作戦を実行に移しはじめていた。
一方の仙石秀久は、2千の兵を率いて海路から引田浦へ上陸、港の北側にある引田城に入った。この引田城は舟が直接着岸できるため、隠密裏に行動できるという利点があった。
秀久が到着後直ちに斥候を出したところ、香川信景らに率いられた5千の兵が引田城に向けて進軍中との報を得た。これを受けた秀久は軍勢を3手に分け、仙石勘解由・仙石覚右衛門・森権平をそれぞれの将として数百の兵を与え、引田の入り口に近い山中に潜ませた。
引田城へ向けて進軍中の香川隊は仙石勢の伏兵があることを知らずに峠にさしかかったところ、いきなり周囲より鉄砲射撃を浴びせられ、隊伍を乱して退却にかかった。仙石勢はそれを追撃、秀久の本隊も峠まで押し出して優勢のままに攻め立てたが、香川隊もしだいに態勢を立て直し、数を頼んで反撃に転じてきた。
本陣の元親ははじめこの会戦を知らずにいたが、銃声が聞こえたので桑名太郎左衛門・中島与市兵衛を偵察に出したところ、先遣隊と仙石勢との間で既に戦闘が始まっていることを知らされた。そこで元親は桑名・中島の両名を香川隊の加勢に向かわせ、自らも本隊を率いて進軍を開始した。4月21日のことである。
この合戦で兵力に勝る長宗我部勢が圧勝、仙石勢は幟を取られるという失態を見せた。仙石勢では仙石勘解由・森権平が、長宗我部勢では中島与市兵衛・国吉三郎兵衛らが討死を遂げた。
ちなみに、この合戦のあった天正11年(1583)4月21日という日は、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の合戦があった日でもある。
秀久は引田城へ退却、長宗我部勢もそれを追撃して引田へ入り、町の北の岡に上がって勝鬨をあげた。
長宗我部勢はその夜はそこに布陣し、翌朝より引田城への総攻撃を開始した。仙石勢は既に多くの兵を失っていたために戦意を失っていたとみえて、あっけなく落城した。秀久も舟で城を脱した。

救援部隊の仙石勢の敗北により、虎丸城の十河存保は孤立無援の窮地に立たされることになった。勝ち目なしと見た存保は、開城と国外退去することを条件に元親に降伏を申し入れたのである。
この引田の合戦を天正12年(1584)7月19日とする説もあるが、天正11年4月21日が正しいようである。