永禄11年(1568)12月に今川氏・北条氏との甲駿相三国同盟を破棄して今川領駿河国に侵攻した武田信玄であったが(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、甲斐・駿河国境を扼す大宮城主の富士信忠による頑強な抵抗と、これを支援する北条氏の参戦によって兵站を脅かされ、駿河国からの一時撤退を余儀なくされた(大宮城の戦い)。
駿河国制圧のための拠点となる興津城や久能山城に穴山信君・板垣信安らを残して永禄12年(1569)4月下旬に帰国した信玄は、休む間もなく今度は北条氏の領国へと出陣する。
6月には籠坂峠を経て駿河国東域へ軍勢を進め、北条氏の拠点である駿河国深沢城や伊豆国の韮山・三島方面を放火するなどして北条軍を足柄峠に釘づけにしたうえで、軍勢を転じて大宮城を再び攻めはじめた。駿河国掌握を目論む信玄にとって、兵站を確保するためにも大宮城は是が非でも制圧しなければならない地だったのである。
三島から大宮城に直行した武田軍は、穴山信君を大将として大宮城を攻めはじめた。前回の戦いで大宮城を支援した北条軍は駿東郡に在って動くことができず、孤立化した大宮城主の富士信忠は20日ほどに及ぶ籠城戦の末に、主君・今川氏真の勧めもあって和議を請い、7月2日(3日とも)に降伏開城したのである。
このあと、富士氏は穴山氏の配下に組み込まれて昵懇の関係になっている。