天文法華(てんぶんほっけ)の乱

河内北半国守護・畠山義堯(義宣)とその臣・木沢長政の不和を発端として始まり、天文元年(1532)8月からの法華一揆(日蓮法華宗徒の集団)と一向一揆(浄土真宗門徒の集団)の対立(天文法華一揆:山科本願寺合戦)において、法華一揆は木沢長政を支援する細川晴元の与党の要として奮戦、その威勢を大きく上昇させるとともに、京都市中の自衛をも担うまでになったのである。
この日蓮法華宗徒の威勢増大は驕りを招き、晴元政権を一向一揆から救ったのは自分たちだ、という自負が広まり、これがやがては下層町衆を中心とした大規模な地子銭(租税)不払い運動へと発展したのである。
これらの振る舞いは武家層や仏教諸派の反感を招くところとなり、とくに洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(山門:天台法華宗)にとっては大きな脅威となった。さらに天文5年(1536)3月には法華宗徒と延暦寺の僧とで行われた宗教上の教義をめぐる宗論において延暦寺僧が説破されるなどしたため、比叡山を中心とする旧仏教勢力の法華宗に対する反目は更に深まったのである。
これらのことを受けて延暦寺側では6月1日の三院集会において武力を以って制することが議され、東寺・神護寺・根来寺・粉河寺・石山本願寺・東大寺・興福寺・三井寺など畿内外の諸大寺に援兵を要請するまでに緊張は高まった。
この援兵要請は細川晴元や六角定頼らにも申し入れられた。この細川・六角らは延暦寺と法華宗との間に立って調停に動いていたが、先の天文法華一揆の経緯もあって延暦寺側に押し切られて与することとなり、反法華宗連合ともいえる勢力が構築されることになったのである。

7月に入ると、反法華連合は軍事行動を起こす。
7月20日頃には六角定頼・義賢父子や蒲生定秀らに率いられた3万ともいわれる近江国の軍勢が東山に布陣、延暦寺も諸国の末寺から集められた数万にものぼる僧兵を東山山麓に配し、その北には三井寺勢力3千余が陣を取り、京都の北・東を完全に遮断。これに対して法華宗徒側は2万とも3万ともいう宗徒が洛中やその周辺の警固にあたって防備を固めた。
戦端は22日に松ヶ崎での戦いによって開かれ、ついで田中や三条口・四条口などで焼き討ちを伴う激戦が展開された。
緒戦は法華宗徒側に優勢に展開したが、27日に近江勢が四条口の戦いに投入されたことを機に形勢が逆転、四条口・三条口を破った近江勢は延暦寺勢が京都市中に乱入し、略奪や放火が繰り広げられたのである。
この反法華連合の侵攻によってその日のうちに法華宗寺院のことごとくが炎上し、翌28日には本圀寺も焼失。さらには反法華連合が法華宗徒を大量に虐殺するという暴挙に出たため、21ヶ寺といわれる法華宗寺院は壊滅的打撃を受けたのである。この虐殺から逃れ得た者は本尊や経典を守り、堺へと落ち延びていった。
また、この21ヶ寺はみな京都市中にあったために放火による戦禍で下京一帯は焼け野原と化し、禁裏や御所が位置する上京は反法華連合の攻撃を免れたため被害は比較的少なかったが、それでも洛中の3分の1ほどが灰燼に帰したといわれる。
この後、延暦寺勢は厳しく落人を探索し、法華宗徒の集会や徘徊、還俗転宗を取り締まるなど、強い弾圧策を執った。