八上(やがみ)城の戦い

中国経略の一環として、織田信長明智光秀に丹波国への出陣を命じた。標的となったのは、丹波国一円に勢力を張る八上城の波多野秀治・秀尚兄弟である。光秀は進軍に先立って、できることなら軍を交えることなく、織田氏の傘下に入るように勧めた。一時は織田氏に恭順したが天正4年(1576)1月に突如として叛き、それ以後は断固として敵対する方針を採ったのである。
光秀は天正6年(1578)3月に居城の近江国坂本城を発し、与力の細川藤孝と共に丹波国に攻め入った。そして14日、八上城を取り囲む。
八上城は麓からの高さが200メートルを越すという要害に守られており、攻めにくい山城である。それを憂慮してか、光秀は八上城の包囲を続けたうえで付近の鎮圧をはじめたのである。4月には滝川一益丹羽長秀らの増援を受けて波多野氏に与した荒木氏綱の細工所城を陥落させている。
しかし信長の意向で、同じ中国経略でも羽柴秀吉が指揮を執る播磨国三木城攻めや、信長に叛いた荒木村重の摂津国有岡城攻め、石山本願寺攻めなどの方が優先され、そちらの増援としての命令を受けることが多く、八上城攻めは遅々として進まなかったのである。

光秀が本格的に八上城攻撃に乗り出すのは、翌天正7年(1579)になってからのことである。2月28日に居城・近江国坂本城を出陣し、すでに支配化においていた丹波亀山城に入る。
一方の八上城は兵糧攻めにさらされており、城内の食糧は欠乏していた。だが、依然として頑強な抵抗が続けられていたのである。
しかし5月5日には波多野宗長の守っていた有力な支城・氷上城が陥落する。これによって明智勢の士気はさらに高揚し、それとは逆に八上城の士気は低落する。この八上城が落ちたのは、6月1日のことであった。相当の餓死者が出ている事態を省みずに抵抗を続ける波多野秀治であったが、これに不満を爆発させた城兵に捕えられて、光秀に引き渡されてしまったのである。秀治兄弟は6月6日に洛中を曳き回されたのちに安土に護送され、慈恩寺にて磔刑に処された。
この合戦において、攻めあぐんだ光秀が母を人質に出して波多野兄弟へ和議を持ちかけたという話は有名であるが、それは後世の創作とされている。