波多野秀治(はたの・ひではる) 1529?〜1579

丹波国多紀郡の国人領主。丹波国八上城主。幼名は千熊丸。侍従・正四位・左衛門大夫。波多野宗家・元秀の跡を継いだ。
三好長慶細川晴元の対立には細川方に属したため、しばしば三好氏重臣・松永久秀の攻撃を受け、弘治3年(1557)に居城・八上城を攻落され、勢力を削がれた。
永禄3年(1560)、一族の波多野宗高らと共に正親町天皇に即位式の費用を献納、兵を率いて上洛して守護役を務めたという。この功績によって正四位侍従に叙せられる。
永禄9年(1566)には八上城を奪回、丹波国全域に支配権を確立するが、伸張してきた織田信長に属して領国を保った。
のち、足利義昭についた丹波国衆を信長が攻めた際には織田氏の重臣・明智光秀に属したが、途中からは毛利氏との関係で織田氏に敵対するようになった。同じく織田氏に徹底抗戦した播磨国三木城主・別所長治は秀治の妹婿にあたる。
天正5年(1577)より天正7年(1579)の明智光秀や細川藤孝による丹波攻めに抵抗して勇戦、よくこれを防いだ。しかし約1年半にも及ぶ籠城の末の天正7年(1579)5月に弟の秀尚と共に捕らえられ(八上城の戦い)、6月2日に近江国安土慈恩寺で処刑された。秀尚も安土の慈恩寺で処刑された。