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鎌倉幕府(かまくらばくふ)の滅亡(めつぼう)について





歴史で知りたいテーマのいちらん


 @ 元(モンゴル)の3度目の攻撃にそなえて、北九州の防衛(ぼうえ
  い)に備えなければならず、費用がかかるようになった。

 A 勝つことはできたが、元(モンゴル)から土地を取ったわけではない
  ため、元(モンゴル)との戦いで功績のあった武士たちに与える領地
  がなく、武士たちの信用を失った。

 B 元との戦いで借金(しゃっきん)をした武士たちを救うために、借金
  のかたに取られていた土地をただで武士にかえせという徳政令(とく
  せいれい)を出したため、かえって、武士たちにお金をかす人がいな
  くなり、武士の生活が苦しくなった。

 これらのことから、鎌倉幕府への武士たちの信用はなくなり、鎌倉幕府の滅亡(めつぼう)へとつながることになる。


【鎌倉幕府の滅亡(めつぼう)の原因】

 貧しくなって土地を売る武士がいれば、逆にその土地を買い集めて大きくなる武士もいた。その中でも目立って勢力を強くしたのが守護(しゅご)である。やがて、守護は武力で地方国の支配者になろうとした。
  ※ 奉公(ほうこう) … 忠誠(ちゅうせい)をつくして働くこと

 武士たちの中には土地を与えてくれない鎌倉幕府(かまくらばくふ)に奉公(ほうこう)するよりも、土地を与えてくれるようになった守護に奉公(ほうこう)する者もあらわれた。守護は鎌倉幕府から半ば独立したような形となり、これがやがて室町時代には、守護大名(しゅごだいみょう)とよばれるようになる。

     

   


 土地の有力者である名主(みょうしゅ)たちもしだいに力をたくわえ、他人の土地をうばったり、金を取ったりするようになった。これら名主の中には鎌倉幕府の力が及ばなくなると、守護や地頭の命令を聞かない者もあらわれた。このような者たちのことを悪党(あくとう)とよぶ。この悪党(あくとう)の中で有名な武士が楠木正成(くすのき まさしげ)である。

 半ば独立したような形となった守護や悪党たちは自分の利益を守るためにやがて、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を亡ぼす原動力となっていくのである。

 
 
【守護と悪党(あくとう)】
【鎌倉幕府が滅ぶ(ほろぶ)】
 
 このころ、執権(しっけん)の北条高時(ほうじょうたかとき)は、政治をなまけ、自分だけがぜいたくなくらしをしていたため、武士たちの不満は高まる一方であった。

 朝廷の力を鎌倉幕府(かまくらばくふ)からとりもどすチャンスと考えた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は鎌倉幕府(かまくらばくふ)をほろぼす計画を立てて、全国の武士たちに呼びかけた。楠木正成(くすのきまさしげ)はこの呼びかけにこたえ、赤坂城(あかさかじょう)に立てこもり、鎌倉幕府軍を苦しませた。しかし、鎌倉幕府の大軍にやぶれ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、隠岐の島(おきのしま)に流された。

 一度は鎌倉幕府(かまくらばくふ)への反乱をおさえたが、かくれていた楠木正成(くすのきまさしげ)が再び赤坂城(あかさかじょう)に立てこもると、逆に全国の守護も鎌倉幕府に対して反乱をおこした。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も隠岐の島(おきのしま)からひそかにぬけだし、鎌倉幕府方の有力な武将である足利尊氏(あしかがたかうじ)までが反乱をおこして、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とす状況となった。

 1333年5月、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻めこみ、鎌倉を攻め落とした。北条高時(ほうじょうたかとき)は一族とともに自殺し、鎌倉幕府は滅びることとなった。