一章・クレネスト=リーベル
少女が目を覚ますと、窓から書斎に陽が差し込んできた。
食べかけのサンドイッチが目に映り、ザラリとした感触が右の頬へと伝わる。
本をまくら代わりに寝ていたらしい少女は、机に突っ伏したまま、しばらく呆然としていた。
(あぁ、こちらが夢でしたか)
ようやく、どれが現実なのかに気がついた少女は、ゆっくりと体を起こす。そのまま椅子の背もたれに寄りかかり、顔を上げた。
夢の内容を思い起こそうとしたが、記憶が薄れている。たしか昔の夢だったと思う。
(はぁ……どうしたものでしょう)
何か悩み事でもあるかのように、困った表情で少女は目線を落とした。
秒針の刻む音が大きく聞こえている。机の上に置いてある時計の音だ。
しばらく、それをぼんやりと見つめ――
「やってしまいました」
ささやき声にも聞こえる、どこか幼さを含んだ可愛らしい声でそう呟く。少女は静かに立ち上がった。
部屋の片隅にかけている大きな鏡の前に立ち、自身の姿を確認する。
厳正さを象徴する白い法衣が、いささか乱れていた。薄く青みがかった銀髪は、腰ほどまである見事なものであったが、今は寝癖のおかげで美貌が台無しである。伏し目がちな目蓋の奥には、翠緑を宿す瞳があった。
少女はまず法衣を正す。それから髪の毛にクシを通してみた。
が、どう考えても時間がかかりすぎる――少女は嘆息した。中途半端に寝癖を直した状態で諦める。
帽子掛けから、太陽十字とよく似た紋章の入っている大きな帽子を手に取り、それを深々と被った。
ケースに必要な書類を入れ、それを片手に書斎を出ていく。
歴史の重さを感じさせる空気が流れている――
そんな古めかしい廊下を歩きながら、向かう先を窓越しに見上げてみる少女。
そこには……
城と見まごうばかりに雄大荘厳――いかにも宗教建築といった雰囲気のあるとても大きな建物、教会本堂が見えた。
(どのような子でしょうね)
頭の中で、そんな言葉を思い浮かべる少女。緊張しているのか、眠そうに伏し目がちになっている目を、さらに細めていた。
階段を下り、一階から本堂へ続く渡り廊下を抜け――その途中、数人の法衣姿の男女とすれ違った。
いずれも少女より年上のようで背も高い。
むしろ、ひと際小さく、少々痩せ気味の体躯である彼女の存在の方が、周りから浮いているほどに奇妙だった。
少女の姿を見るなり会釈をしてくるが、挨拶の声はない。
「クレネスト・リーベル君」
本堂の入り口付近に差し掛かったとき、入り口の前に立っていた年配の男が、少女の姿を見るなりそう呼んだ。
「あぁ、司教さま」
「あぁ、司教さまじゃないよ。呼び出しが聞こえなかったのかね? 待たせてあるから早くきたまえ」
「……はい」
クレネストと呼ばれた少女は、そう返事をしてうつむくと、司教の後に続いた。
伝統的な装飾が施された本堂の廊下を進み、礼拝堂の東側に位置する裏口から中へ入る。
と、クレネストは、礼拝堂の様子よりもまず先に、天井を見上げた。
星の歴史と文化を反映した巨大な天井絵。星を崇める自然宗教、星導教会大聖堂が有する歴史的名画である。たとえ見慣れた者であっても、思わず見上げてしまうほど、圧倒的な存在感であった。
視線を落とすと、広くて豪華だが、決して華美ではない礼拝堂に、多数の一般入場客が見られた。教会関係者が説明、誘導を行っているようだ。
祭壇には、クレネストの帽子と同じ形状の紋章が掲げられ、その下のプレートには、「ノースランド国・星導教会・首都セレスト本部」という文字が入っている。
壇上に目を移すと、助祭が着る法衣をまとっている青年が二人。金髪と、もう一人は赤毛。彼等よりは、おそらく年上であろう黒髪の女性が一人。祭壇前には、クレネストと同じ帽子を被った壮年の男がいた。
クレネストと司教が壇上へ上がると、壮年の男は一礼して司教に場所を譲った。左側に青年達、右側にクレネストと壮年の男が並んだ。
緊張した面持ちの青年達と、慣れた様子の壮年の男。なんだか眠そうな表情をしているクレネスト。司教はそんな互いの顔を見やり、一つ咳払いをしてから話しを始める。
「さて、これが本日新規に配属されることになった助祭達だ。まずはそれぞれ自己紹介をしなさい。それと、資格を授与された時に星導名を授かったと思うが、それも忘れずにな」
助祭とは、星導教会司祭の下で、その仕事を補佐する下位の聖職者である。星に使える証として『星導名』という新しい名前を授けられ、以後その名で呼び合うことを義務付けられていた。
司教は、一番手前にいる女性を指し、
「はい、そこの君から」と促す。
その女性は、一歩前に出て敬礼した。
「自分は、本日助祭として就任することになりました、元ノースランド国軍所属、フィール・エイダであります! 星導名はアリーです! 星導教会のために尽力します! よろしくお願いします!」
元軍人……らしい彼女――
仰々しい自己紹介と声量に、司教は思わず苦笑いをする。
驚いた一般客の視線が一斉にこちらを向いて、残り二人の緊張を煽った。
「あー、大変元気な自己紹介はよいのだが、ここは教会なんでな。他のお客さんもいるから、もう少し静かにお願いするよ」
司教がそう言うと、アリーという名を授かった女性は赤面してうつむいた。
「し、失礼しました」
言って、肩をちぢこませつつ彼女が下がる。
変になってしまった場の空気――それを振り払うかのように、わざとらしく咳払いをしてから金髪の青年が前へ出た。
「レイク・オーランド十七歳。星導名はセイルです。星導教会附属、東・北大陸高等学校から来ました。星導教に関する理解を深め、法術、星動力について学び、布教に努めたいと思います」
彼が言い終えると、壮年の男がうむと頷いた。
「その心を忘れること無きように」
司教の言葉に、彼は一礼を返し……クレネストと最後の青年に、チラりと視線を走らせる。
それを見た最後の青年が、前に出て会釈した。
「同じく自分は、星導教会附属、東・北大陸高等学校から来ました。マリス・マクレインと言います。星導名はエリオです。奉仕の精神を忘れず、この国の発展と布教に努めたいです」
無難な自己紹介を終えたこの青年を、クレネストはじっと見つめた。
この国では非常に珍しい赤い髪。背は高めで一見細身に見えるが、体つきはしっかりしている。
顔立ちに幼さが残っているものの、ともあれ真面目そうではあった。
もっとも――毛色の珍しさや、見た目の幼さでは、クレネストの方が上であるが……
三人の自己紹介が終わると、壮年の男が司教と視線を交わす。
男は、司教が頷くのを見てから静かに口を開いた。
「私は司祭のマイルス・エリオール。星導名はゼフィスという。アリー君とセイル君に、私の助祭として勤めてもらうことになる。期待しているよ」
それを聞いたアリーは目を輝かせ、セイルは姿勢を正し、深々と頭を下げた。
壮年の男ゼフィスが一歩下がる。全員の視線が最後の一人、クレネストに集中した。
見た目は、頼りなさそうなくらい小さい。おそらく年齢は、この中で最も低いであろう彼女。眠そうな伏し目がちの表情からは感情も読み取れず、なんともいえない不思議な空気を身にまとっている。
全く動じているような気配はない。
「司祭のリーベルと申します。名字はありません、星導名はクレネストと言います」
見た目通りの、静かで可愛らしい声に反し、どう考えてもわけありの自己紹介。三人の助祭は怪訝な表情になった。
司教とゼフィスは、わずかに表情を曇らせる。
しかし、そんな反応にも慣れているのか、当のクレネストは全く気にせず、続けて口を開く。
「エリオ君には私の助祭として、司祭の仕事を補佐して頂くことになります。また私にとっても、あなたが初めての助祭ですので、お互い至らぬところがあると思いますが、どうかよろしくお願いします」
そう言いながらクレネストは、翠緑の瞳でエリオを真っ直ぐに見つめ――
彼は気恥ずかしくなったのか、目が合うなり視線を下へと逸らした。
「エリオ君?」
「あっ、は、はい、こちらこそ尽力させてもらいます」
少し反応が遅れたせいか、エリオは慌てた様子でそう答えると、姿勢を改めた。
クレネストが一歩下がるのを見てから、最後に司教が話を締めくくる。
「私の名は知っているだろうが、フォルス・モーゼス、星導名パトリックだ。ゼフィス君。クレネスト君。任命書は忘れずに持ってきてあるね?」
二人は頷くと、持ってきたケースから任命書を取り出し、パトリック司教に渡す。パトリック司教は任命書を確認し「うむ」と漏らすと、三人の助祭の前に立ち、厳かに告げる。
「アリー、セイル、エリオの三名を、星の導きの名の下に、本日この時をもって、星導教会の助祭として正式に任命する。以後、星導名を名乗り、星導教の名に恥じぬよう、奉仕に励むように」