霞のような青い光が、夜の世界を渡っていく。
もやもやとしたそれは、寝静まる町のいたるところに充満していた。
時折、記号で書かれた文章のようなものが浮かび上がり、増殖しては消滅する。
ただそれは、注意深く見ていなければ気が付かないほどに、存在感が希薄であった。
壁を通り抜け、家の中へと入りこみ、寝静まる人々を起こすこともなく、変化もゆるやかに――
それは起こっていく。
一章・耳長の子供
まっすぐに続く荒野の一本道を、星動車の前照灯が照らしている。
エリオは車から降りると、辿ってきた道の遥か向こうを見やった。その目に映るものは『世界の柱』――新しい世界を創造するという大規模な禁術。
何度見せられても現実感など全く湧いてこない。夜空に広がる星の世界を、地上に落ちてこないよう支えているのではないかと錯覚するほどの巨大さだ。数時間前に抜けてきた山々が、緩やかな丘に見えてしまうほどに……
柱の形は、前にも見たことがある。これは、ペルネチブ半島に立てた最初の柱と同じ物だった。青紫色の光を発する球体が張り付いていて、表面は、網目を描くような軌道で白っぽい光が走っている。
エリオは、長い安堵の息を吐いた。術が問題なく機能しているというのは、なんとなく分かる。
ようやく緊張が解け、彼が脱力していると――
「あ……」
掠れたような、少女の声が聞こえた。
エリオがそちらへ顔を向けるよりも早く、彼の右腕に声の主がしがみついてくる。
咄嗟に力を込めて、身体を支えた。
「クレネスト様!?」
しがみついてきたのはクレネストだった。頭をエリオの腕に押し付けて、大きく肩を上下させている。
「すみません……少々立ちくらみが……」
小声でそれだけ漏らすと、彼女は深く呼吸を繰り返した。
「もしや血が足りていないのでは?」
「そう、かもしれません」
心配するエリオにクレネストが力なく答える。
ゴラム盆地を出てからまだ二日程しか経っていない。血液の回復を早めるため、治癒法術を使ってはいるのだろうが、限度というのもあるだろう。
クレネストはエリオから離れると、こめかみの辺りを押さえながら首を左右に振った。顔色は暗くてよく分からない。
「大丈夫ですか?」
「はい、少し落ち着いてきました。世界の柱を確認できましたので、気が緩んだのでしょう」
「長旅でお疲れでしょうし、どうか無理をなさらぬよう。仕事のことはできるだけ僕がなんとかしますから」
エリオがそう言うと、クレネストはこちらへ視線を向け、やがて嘆息した。
「はぁ……仕方ありません。お願いしますね」
そう告げてから後ろ手を組み、星動車の方へと翠緑の瞳を向ける。
と――後部座席のドアが開いた。
「うう、気持ち悪いのじゃ」
呻くような声が聞こえ、中から黒いドレスに身を包んだ女の子、テスが降りてきた。
黒髪のポニーテールと頭を揺らしながら、こちらへと歩いてくる。大きく体が傾くが、転びそうで転ばない。その姿はまるで酔っ払いだった。
この子はまだ、あの異質な現象に慣れていないのだろう。世界が白く染まり、時が遅くなる感覚。加えて、遥か彼方には超現実的な物体が聳え立っている。
「お! おおお? おわあぁ!」
それが目に入ったのか、テスは奇妙な声を上げながら地面にへたり込んでしまった。
「あらまぁです」
クレネストがテスの背後に歩みより、ぽふっと肩を抱いた。
「うう、クレネスト殿ぉ~本当に……他に方法はないのかえ?」
「ええ、信じてもらうしかないのです」
「……皆にテスは、いったいなんと言えばよいのじゃ」
「そうですね、どうすれば分かってもらえるのでしょう?」
「うぅ……」
困った顔でうつむくテス。
エリオも声をかけようとして――ふと気がついた。
「クレネスト様」
「あ、はい」
クレネストも気がついたようだ。
対向車線の向こうから、二つの丸い光が近づいてくるのが見える。車体は見えないが、灯かりの高さからして普通の星動車だろう。
三人はひとまず、停めてある星動車の傍へ移動して道を開けた。
近づいてきた星動車が、そのまま通り過ぎる――と、思われたのだが、三人の前を少し過ぎた辺りで道の脇に停車した。
黙って見ていると、中から一人の男が降りてくる。
「こんばんわ、なんだかヤバイことになってるね」
年齢はエリオと同じくらいだろう。親しげに微笑みながら、こちらへ近づいてくる。
微かな明かりの中で、金髪の青年であることが分かった。髪は短く、背はエリオよりも少々低い。
「あれって、近頃騒がれてる奴かなぁ~? 変な光が見えるからなんだろうと思ってたら、目の前がいきなり真っ白になるんだもんな~慌ててブレーキ踏んだんだけど、危うく事故るところだったよ」
彼はそう喋りながら世界の柱を眺めつつ、後ろ歩きで近づいてきた。
エリオとクレネストが顔を見合わせる。できれば他人との接触は避けたいところなのだが。
どう言葉を合わせたものかと、思案するエリオ。そんな彼の胸中はおかまいなしに青年は続けた。
これみよがしな大声で――
「あぁやはり世界は滅ぶんだなぁ~! あれが破滅の使者かぁ!」
その瞬間、ピシリっと、空気が割れたような気がした。
実際に空気が割れる、などということはありえない。そのくらいの不穏な気配。
クレネストがすっと立ち上がり、エリオの傍に歩み寄る。眠そうな半目に変わりはないが、口が閉じていた。
無言でエリオのローブの中へ手をつっこみ、星痕杭を一本取り出す。
それを後ろに大きく振りかぶり――
「えい」
青年の後頭部めがけて投げつけた。
適度に回転のついた星痕杭が、見事に命中する。跳ね返ってきた星痕杭を、エリオは反射的に空中で掴みとり、素早くローブの中へとしまった。
くぐもった声をあげ、後ろ頭を押さえながら、その場にうずくまる青年。
一度テスにぶつけられて分かっているが、あれは痛い。
「な、なんなんだ……今のは?」
涙目で青年が振り返る。
「さぁ? 何かが通り過ぎていったような気がしましたが、暗くてよく見えませんでした」
クレネストがしれっとして言った。エリオもそしらぬ顔であさっての方向を見ている。
青年は立ち上がり、訝しげにこちらの顔を交互に見た。首を捻りつつ、テスへ視線を移す。それから、星動車の方へと顔を向けた。
何を見てそれに気がついたのだろうか――男は突然こちらを指差して後ずさり、大声で言った。
「あー! あんたら星導教会かよ!」
「そうですけど、そういうあなたは滅亡主義者ですか?」
不機嫌そうにクレネスト。それでも多分、かなり抑えているのだろう。
しかし青年は、クレネストの言葉を否定する。
「はぁー? ちげーよ! 俺のどこをどうみたらそう見えるんだよ!」
確かに――どちらかといえば意気揚々としていて、滅亡主義者のようなヒネた感じはしない。
とはいえ、世界が滅ぶなどの発言を、軽々しく吐き散らかすのは滅亡主義者の特徴でもある。星導教が大勢をしめているノースランドにおいて、その発言は禁句とも言えた。
それでもおかまいなしに、青年は拳をにぎりしめて声を張り上げた。
「このままだと世界は滅亡する! だが星導教会はそれを認めない盲信者と化している! 滅亡主義者はただ滅亡を待つだけの怠惰な奴等! だからこそ俺がなんとかしなければならない! 俺が編み出した最強の術式をもって、破滅の使者を時の陥穽へと放逐し、世界を救うのさ!」
「と、トキノカンセイ? ホウチク?」
なにやら、ケッタイな単語をダイナミックに並べつのる青年に、エリオの目が点となった。クレネストも、なんだか目が線になっている。
これが究極の呆れというものだろうか――それ以上の言葉もでてこない。
「あーところでさ……」
淀んだ二人の反応を、特に気にする素振りもみせず、彼が聞いてきた。
「こんなところで何してたの?」
「…………」
「ああ、僕らも吃驚してあれを見てたんだけど……」
クレネストが、なんだか面倒くさそうに目配せをするので、代わりにエリオがそう答えた。
すると青年は、肩を竦めてかぶりを振る。
「いやいや、そういうことじゃなくてさ~、こんなところに女の子連れてきてなにしてんのよ君? ひょっとしてズッコンバッコンしてたの?」
いやらしい笑みを浮かべて、とんでもないことをのたまった。
あまりに聞き捨てならない発言に、エリオの眉が逆立つ。
「俺達は巡礼中でこのお方は司祭様だ! これから巡礼地へ行く途中だ! このお方の侮辱は許さんぞ!」
青年の胸倉を締め上げて、怒りの言葉を浴びせる。
「ちょっ! わかったわかった! 冗談だって、落ち着いてくれ!」
慌ててタップする彼を、エリオは突き飛ばすように離した。一発くらい殴りつけようかと思ったが、怪我でもさせて、問題が大きくなるとまずいので自重する。
青年は、よろめいて数歩下がると、咳き込みつつも乱れた胸元を整えた。
「ああもう、これだから信者は……」と、毒づくのが聞こえる。
少々ムッとするが、これ以上口論しても時間の無駄だろう。エリオはクレネストへ向き直って言った。
「こんな奴ほっといて、もう行きましょうよ!」
「はぁ……そうですね。テスちゃん、立てますか?」
「お、おう」
クレネストはテスを立たせると、スカートについた土をほろう。後部座席にテスを乗せてから、自分も助手席側へ歩いていった。
エリオは横目で青年の様子をうかがいつつ、運転席へ腰を下ろす――最後に何か言ってくるかと思ったが、青年は後ろ頭をかきながら、自分の車の方へ戻っていった。
クレネストが助手席に着き、シートベルトを締める。エリオは原動機を始動した。
道の彼方を見やれば、微かな町灯かりが並んでいる。
(あれ? 星動力の光……だよな?)
エリオは訝しげに首を傾げた。
復旧するには早すぎる。もしかして、星動力と同じ色の光を放つ新動力の灯りもあるのだろうか?
不思議に思いつつも、ゆっくりとアクセルを踏み、力を込めていく。それに合わせて、星動車が速度を上げていった。
(あと一時間半ほどかな、街に着くのは深夜……だな)
そんなことを考えていると――
「随分と怒っていたようですが」
唐突に、クレネストがポソっと言う。
「え? ああ……すみません、つい取り乱してしまいました。お恥ずかしいです」
さっきのことを注意されたものと思い、エリオは謝罪した。
少々熱くなりすぎたかもしれない。状況が状況なだけに、目立つようなことはなるべく避けたいのだ。
「以後、気をつけます」
そう反省すると、クレネストが探るようにこちらの顔をのぞき――少々の間そうしていたが、ほっと息を漏らして再び前を向いた。
納得してもらえたのかな? と、そう思ったのだが――
「いえ、それは良いのです。ですが、その……」
どこか躊躇うようなクレネストの声。
他に何か、ひっかかるところでもあるのだろうか。
「はい、何でしょう?」
と、促すエリオ。
クレネストは顎に手をあてて、思案顔で首を捻る。
ひとつ空気を吸い込むと、清純なその口から、たどたどしく言葉を発した。
「あの……ずっこんばっこん? ってなんですか?」
――――
なんだか周囲の音が聞こえない。
そうなる直前の音を聞いていたはずだが、いったい何だった。
エリオは真顔のまま、反応が止まる。
バックミラーに映るテスが、座席からズリ落ちるのが見えた。
「擬音だと思うのですが、エリオ君が怒った理由って多分それですよね?」
クレネストの言葉をようやく思い出す。
擬音か擬態かは、考えたこともない。ただ、それがどういった行為かを伝えるのは、あまりにも難易度が高かった。精神的な意味で――
「あ~え~っとそうですね……はい、それが理由です」
「それでエリオ君、ずっこんばっこんとは?」
さすがに彼女が、ここまで下品な冗談を言うとは思えない。本当に何も分かっていないのであろう。
半眼の奥で、純粋に好奇の色を輝かせているクレネスト。対してエリオは、じっとりと、変な汗が浮かんでくるのを感じた。
「ちょちょ、ちょっとクレネスト殿、耳を貸すのじゃ」
這い上がってきたテスが、割って入った。座席の間から顔を出し、手招きしている。
クレネストは長い髪の毛を手で除けて、テスの口元に耳を近づけた。
「…………」
こしょこしょという小さな声だけが聞こえてくる。
ある意味、渡りに船なのかもしれない。とはいえ、この子に説明させるというのも、いささか不安だ。自分の口からなら良いというものでもないが。
「……ということじゃ」
話終えたテスが、顔を引っ込めて座席に戻った。
じとっとした、気まずい沈黙の時が刻まれる。
ふと、バックミラーを見上げれば、にやけているテスが見えた。テスも、エリオが鏡ごしに自分を見ていることに気がついたのか、なにやらジェスチャーをし始める。左の親指と人差し指をくっつけて輪を作り、右手の人差し指をその中に突っ込んで、前後にゆする動作――
ひくついてるエリオの顔面に沿って、何筋かの汗が流れた。
「は、はぁ……その……ですけど」
これはクレネストの上擦った声。
あまりにも刺激が強すぎたのだろうか――なんだか、無理やり喋っている感が半端ではない。頬は恥じらいに染まり、身体を小刻みに震わせている。もじもじと股の間で両手を擦り合わせながら、続けた。
「わ、私も……子供ではありませんので……えとです……ぜ、善処しようと……なのです」
「しかしのぅ、善処するとはいっても、そういう言葉が載ってるのはエッチな本じゃぞ? ようするにエロ本じゃ――それこそズッコンバッコンしまくりの……」
なんだか淫らな部分をリズミカルに発音して、おもいっきり口を滑らせたテス。
はたして、血液を抜いた後でも血圧とは、結構な水準まで上がるものなのだろうか。
しゃっくりみたいな引きつった悲鳴の後――クレネストが真っ赤な顔で、エリオの膝の上へと横倒しになった。