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上映時間29分

内容
■太平洋戦争の開始
 1941年(昭和16)12月8日未明、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲。しかし、その2時間前に日本軍はマレー半島上陸作戦を敢行していた。上陸地点はコタバル。太平洋戦争は、コタバルから始まっていたのである。
 主力部隊はタイ南部のシンゴラやバタニに上陸し、東洋一の軍事要塞シンガポールを目指した。開戦から僅か70日あまりでイギリス軍は降伏し、マラヤとシンガポールは日本の占領地となった。

■占領下のマレー半島
 「天皇陛下ノオオサメニナル日本ハ世界ヂュウデ一バンリッパナ国デス」と書かれた当時の日本語教科書がマレーシア国立公文書館に残る。日本は生活習慣や教育、言語にいたるまで日本への同化を強要した。そして、授業を受ける子どもたちは毎朝朝会で「君が代」を歌わなければならなかった。
 当時を語る呉志超氏。「占領した後、日本は東南アジアの民衆を解放するためだと言った。しかし、それは間違いだ。日本人が来てやったことは暴力と弾圧、虐殺だった。とても、開放などではなかった。」 

■なぜ、東南アジアにまで侵略したのだろうか
 その大きな要因は日中戦争である。中国側から描いた映画『バトル オブ チャイナ』(監督フランク・キャプラ 1944アメリカ)は抗日民族統一戦線の成立、そして抗日の戦い、蒋介石支援ルートによる英米の支援などを描くとともに、日本の支配が点と線でしかなく、泥沼化していく様子をも詳細に描いている。
 日本は泥沼化する日中戦争の打開を南進政策に求めた。その目的はゴム、スズや鉄鉱石、石油という東南アジアの豊富な資源の確保とビルマから雲南省を経て重慶にいたる蒋介石支援ルートの遮断であった。

■シンガポール大検証とマレー虐殺
 シンガポールを占領した日本軍は華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、重慶への献金者などの摘発を目的に中国系住民を対象とした検証を行った。良民と判断され、「検」のスタンプが押された者だけが帰され、疑いのある者は拘留された。拘留された人々はシングラップの浜辺で殺された。
 こうした検証と虐殺はマラヤでも行われた。クアラルンプールの少し南にあるパリッティンギ村。ここでは675人の村人が殺された。うち250人近くは子どもであった。葉一苟さんはその虐殺から奇跡的に助かった。身体にはその時銃剣で刺された傷跡が7ヶ所も残っている。スンガルイ村では列車に乗ってやってきた日本軍が村に火を放ち、小さな赤ん坊まで銃剣で殺した。今はないイロンイロン村では1474人が殺された。大勢の中国系住民が抗日軍ということで殺され、その犠牲者の数は未だつかめていない。

■元日本兵の証言
 元日本兵、三宅元次郎さんは400人ぐらいの中国系住民がゴム園で虐殺されるのを目撃
した。「日本軍の将校は、ただいまより大元帥閣下の命によりこれを殺す、と言うと軍刀で首を落とした。血柱が2,3メートル吹き上がった。シューと音と立ててな」「人として、人間として、ほんとうは話したくない。日本の恥、日本人の恥やからな。」元日本兵、三宅元次郎さんの言葉は重く響く。

脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部