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上映時間28分

内容

1910年(明治43)朝鮮半島を植民地とした日本は、まず土地調査事業を開始した。それは農民から土地を奪う政策であった。土地を失った農民たちは満州に流れ、また日本に渡った。そして、急速に発展した日本の各産業の最先端で働く低賃金労働者となっていった。そして、賃金差別や職業差別、民族差別に耐えなければならなかった。

関東大震災では、「鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が放火、強姦、井戸に毒を投げ込んでいる」という流言に怯えた民衆が武装自警団を組織し、朝鮮人狩りを行い、6千人を越える朝鮮人が殺害された。
 1931年(昭和6)、日本が中国侵略を開始すると、朝鮮半島はその後方支援基地の役割を担わされ、戦争に必要な木材や鉄鋼、金属などの地下資源の採掘が盛んとなる。そして、皇国臣民化政策を強行し、皇民化教育により言葉を奪い、創氏改名により名前さえも奪った。そして、募集という名の強制連行をも開始した。

1941年(昭和16)、太平洋戦争に突入すると朝鮮半島に徴兵令を公布する。朝鮮半島では老いも若きも、男たちは日本の兵隊や労働力として狩り出されたのである。そうした強  制連行、強制労働の足跡は日本の各地に今なお痕跡を留める。

オホーツク海に面した北海道猿払村浅茅野。ここでは海軍の飛行場建設のため千人近い朝鮮人労働者が連れてこられ、僅か2年の間に100人以上が亡くなっている。過去帖には、かつて生きていたときの証として名前だけが延々刻まれている。美唄炭鉱。ここでも爆発事故やこの地方を襲った集中豪雨でタコ部屋が流され、多くの朝鮮人労働者が命を失っている。長野県松代。本土決戦に備えて大本営をここに移す計画が密かに実行され、7千人あまりの朝鮮人労働者が連れてこられた。工事は極秘で進められたため、犠牲者は闇から闇に葬られ、その真相は未だ明らかになっていない。掘り進めた坑道の岩壁に故郷や家族を偲ぶハングル文字が今も残る。

日本に強制連行された朝鮮人は70万人とも、100万人とも言われている。そして、日本の敗戦前夜には、在日朝鮮人は236万人に達していた。

戦後、その多くは祖国に帰ったもののサハリン、旧樺太の朝鮮人は引き揚げの対象から
外され、そのまま取り残された。その数、4万3千人。

ソウルにあるKBS(韓国放送公社)では、肉親からの便りや未だ行方のわからない肉親の消息を尋ねる放送を流している。「お父さん、何処に生きていらっしゃるのですか。この放送を聞いたら、ぜひ連絡を下さい。母は、お父さんだけを待ちながら、今も故郷で暮らしています。」KBSの電波は、過ぎ行く時の中で今日も、極東の空を駆け巡っている。

脚本・監督 中津義人

制作 東映株式会社教育映画部