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上映時間35分

内容
太平洋戦争の末期、日本で唯一の地上戦となった沖縄。米軍の戦史は伝える。「ありったけの地獄を一ヶ所にまとめたような戦闘であった」と。

■アメリカの反撃と日本軍の敗北
 開戦以来、破竹の進撃を見せた日本軍。しかし、日本より戦力の面ではるかに勝るアメリカが大量の航空機、艦船、近代兵器を使用して反撃に転じた。日本は1942年(昭和17)
6月のミッドウエー海戦の敗北以後、各地で敗退を繰り返していった。敗因は航空戦力の劣勢であった。日本の工業生産力は長引く日中戦争で消耗していた。総動員体制の下、「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に「金属供出」と「勤労奉仕」により航空機や兵器の増産に努めたがアメリカの生産力に太刀打ちできるはずもなかった。

■沖縄戦の予測と沖縄守備軍の強化
 1944年(昭和19)の夏、連合国軍のマリアナ作戦が開始され、サイパンが玉砕すると、大本営は米軍の沖縄進攻を予測し沖縄守備軍の強化を計る。満州や中国大陸、千島、樺太、日本内地から実戦部隊が続々と沖縄に移動して来た。総勢6万7千。沖縄では全島要塞化に向け、飛行場建設や陣地の構築が進めらていった。

■B−29の本土空襲
 そうした中、東南アジアや太平洋では日本軍の敗北が続いていた。太平洋の島づたいに日本本土に迫ってきた米軍はマリアナ諸島にB−29の基地を設営。そのB−29による空襲が1944年(昭和19)の暮れから始まった。1945年(昭和20)3月には硫黄島が玉砕する。そして、日本の殆どの都市がB−29の爆撃で破壊されていった。

■開戦前夜
 この段階で日本の敗戦は決定的であった。しかし、大本営は本土決戦を叫び続けた。そして、沖縄では時間稼ぎのために長期の持久戦を展開する作戦が立てられた。根こそぎの総動員体制が敷かれ、13歳の少年や70歳の老人まで狩り出された。中等学校生は鉄血勤皇隊に、高等女学校生は学徒看護隊に、女子青年団は救護班にそれぞれ組織されていった。沖縄守備軍約10万の内、その1/3が臨時召集や学徒隊などのにわか仕立ての兵士だった。

■開戦
 こうして沖縄は戦いの日を迎えた。1945年(昭和20)4月1日、米軍本隊は沖縄本島宜野湾読谷、北谷の海岸に上陸開始。海は米軍の艦船で埋め尽くされ、黒々としていたという。地上戦闘部隊18万3千、艦船約3千、補給部隊を合わせると54万の大部隊であった。日本軍の反撃は一切なく、米軍は首里を目指して南下。米軍の通過する村々ではガマ(洞窟)に隠れていた村民たちが集団自決を計った。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すことなかれ」日本軍の戦陣訓に基づく自決であった。

■死闘
 日本軍は浦添丘陵に主力部隊を配置して米軍を待ち受けた。死闘の攻防戦が始まったのは4月8日。猛烈な砲撃を加えてから戦車部隊と歩兵部隊を突撃させて来る米軍。日本軍は地下陣地から迫撃砲や機関銃で応戦し、夜になると闇にまぎれて肉弾攻撃を行う。この血で血を洗う激しい攻防戦はおよそ50日間繰り広げられ、5月下旬まで続いた。日本軍の戦死者約6万4千名。全兵力の8割を失い、壊滅した。浦添丘陵に残る嘉数の塔の碑文は伝える。『物量を誇るアメリカ軍の大軍、宜野湾に上陸す。迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣勢にして唯日夜肉弾、また肉弾。ここ嘉数の丘に玉砕す』

■持久戦と肉弾
 日本軍はあくまで持久戦で臨む作戦をたて、隆起珊瑚礁の自然洞窟がたくさん存在する喜屋武半島に撤退。それに伴い各野戦病院では閉鎖とともに重症の負傷者の処置命令が出された。それは青酸カリによる自殺であった。
 海軍部隊は南部への撤退作戦に同調せず、陸戦隊1万名が小碌飛行場に立てこもって米軍を迎え撃ち、6月3日から10日間激戦の末、大田司令官以下自決し玉砕。
 陸海軍の航空部隊は「菊水作戦」の名で特別攻撃をかけた。目指すは敵空母。我突入す。
これが最後の言葉であった。延べ1900機が飛び立ち4千4百の若い命が散った。アメリカ軍の350隻が被害を受け、1万名の米兵が命を落とした。
 こうした特攻は空だけではなかった。海でも爆弾を積んだ特攻艇が敵の艦船に体当たりをかけた。陸でも手榴弾や爆雷を抱いて鉄血勤皇隊の少年や救護班の少女が戦車に体当たりをかけた。負けると分った戦いに、ただ時を稼ぐためだけの戦いに、空に、陸に、海に、爆弾を抱いた体当たり戦法で多くの若い命が散った。それが沖縄の戦いであった。

■沖縄戦の最後
 喜屋武半島での最後の戦いは、、まさに地獄絵図さながらであった。洞窟に潜む負傷兵や赤ん坊を抱いた母親、子ども、そして老人たちが黄燐弾やナパーム弾、火炎放射器などで焼き殺されていった。日本軍司令部のある摩分仁の丘は、丘陵全体が砲弾と炎につつまれ、まさに鉄の暴風吹き荒れる丘となった。6月23日、司令部壕に立て篭もる将兵が最後の切り込み攻撃をかけ、玉砕。こうして沖縄の戦いは終わった。
 1945年3月末、沖縄の戦いが始まる時点で廃墟と化し、完全に敗北していた日本。その段階でなぜ、日本は降伏しなかったのであろうか。なにゆえに、大本営は最後まで本土決戦を叫び続けたのであろうか。

脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部