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 □話し手 後藤 隆一先生 『人間主義経済学序説』著者
 □聞き手 山本 克郎 「小島志ネットワーク」代表幹事

 伝統的経済学との根本的相違点



 
 前回までで、シューマッハー、ロエブル、小島の3人の先駆者のヒューマノミックス論が終わりました。これで「ヒューマノミックスとは何か」という理解が得られたと思います。そこで21世紀のわれわれが直面している現実の問題をどう捉えるか。更に具体的な点に触れて、お考えを伺いたいと思います。


 まずは、ヒューマノミックスとアダム・スミスや古典派の経済学、既往の経済学との相違点を確認したいと思います。スミスや古典派の場合、「自由な市場経済の理論」ですが、これに対してヒューマノミックスは自由な市場経済から生まれる矛盾を克服するために、もう一つの公的機関の政策というシステムを加えて、複合的なシステムとします。この点は、ケインズ経済学と同じですから、次にケインズ経済学との相違点は何かという問題が出てきます。


 ケインズの方法は、銀行からの企業や国家の借金を増やすことによって貨幣量を増やし、それによって投資や需要を拡大することによって、不況や失業を防ぐというものでした。しかし、それは、同時に経済成長を無限に続けることを意味していました。
 その結果、一方では、国家の借金が増え続けて膨大な額となり、他方では、生産と消費のめざましい拡大が資源・エネルギーの浪費を引き起こし、限りある資源・エネルギーの枯渇と自然環境の破壊という生態的危機の要因を累積して、持続不可能な事態を招来してきました。これが現代社会の矛盾です。
 この矛盾を克服する方法として、ロエブルは、独自の貨幣論を提起したものと思います。すなわち、市場経済が生み出す矛盾を克服し、しかも、国家の借金が拡大しないように、また必要な他の政策はできるように、そうした政策の遂行が行き詰まることのないシステムとしての貨幣論を考えたと言って良いのでしょうか。




 そうですね。ロエブルの貨幣論は、マルクス経済学から生まれ、ソ連型社会主義経済の矛盾を解明しようとしたところから考えられたものです。
 それでは、マルクス経済学とヒューマノミックスとの相違点からお話しましょう。
 ソ連型社会主義経済とは、官僚制による計画経済でした。計画それ自体は悪いことではないのですが、そこでの欠点の一つは、自由な人間の創造性を否定したことです。
 欠点の二つ目は、市場の持つ調節機能を全面的に否定したことです。その結果、非能率で、人間的欲求に応えることができないシステムとなりました。
 また、この官僚的統制には、人間疎外が発生し、道徳的腐敗という問題が起こりました。このために、ソ連経済は、生産力と福祉等の面でケインズの理論に立つアメリカ経済との競争に破れ、90年代にはソ連が崩壊してしまいました。
 これに対して、ヒューマノミックスは、人間の自由と市場システムをベースとしながらも、その上で、競争の結果生ずる所得格差や貨幣の循環不全、そして不況や失業や貧困や倒産という問題、また、自然環境の破壊と汚染、そして地球の温暖化と砂漠化という問題、さらには、戦争や自然災害というような人類社会の不幸と危機に対応して、そこから抜け出し、問題を解決するための人間的英知を機能させるシステムを求めています。


 そのシステムは、ケインズ的市場システムをベースとしながら、その市場システムと主体的なもう一つのシステムを構築し相互補完関係にあるものと位置付けて、その総合システム全体を自覚的に制御しようとするものです。そして、その政策の手段が制度としての貨幣、道具としての貨幣なのです。
 そこでの貨幣は不変の実体ではありません。貨幣それ自体は何の使用価値もありません。しかし、その貨幣が増えることによって、経済活動が活性化する。それを動かすことによって、人を動かし、物を動かすことができる。人間社会の「触媒」として機能させようというのです。その貨幣の役割を価値と意味を創造する触媒機能に求め、実物的なもの、人間的なものを活性化しようというのです。
 太陽と水の惑星である地球に、「生命」が生まれ、進化し、生命の自己創出はやがて人間誕生となり、その人間はよりよく生きるために、よりよく暮らすために社会を構成し、文化を創出して、社会的価値創造の主体である「共同体システム」を形成してきました。それは、人間の自覚性による社会システムであり、人間の英知です。
 この人間の本質に立ち返るならば、その英知を発揮して、「自覚的自己制御のシステム」と呼ぶべき、この社会システムの構築が可能です。その機関は、民主的政府などの公的機関の役目となります。ロエブルは、その政策の実践手段として、その機関に貨幣という触媒機能を持つ道具を与え、その発行と支出と回収の権能を与えようと考えたのです。
 私は、ロエブルの貨幣という触媒機能を持ったシンボルを手段とすることによって、ヒューマノミックスが描く社会を実現できると考えています。


 2006年に年間260万部も読まれて超ミリオンセラーなった本に「国家の品格」藤原雅彦著があり、その年総裁選に臨んで安倍晋三さんは「美しい国へ」を出版して話題を呼びました。藤原さんの提起した「品格」はさらに坂東真理子さんの「女性の品格」に引き継がれ、2007年のベストセラーになり、人々の関心を呼びました。このように多くの関心が「品格」に集まったのは、日本社会が品格を失っており、どうして再生させるかを考える人々が多かったからでしょう。総理・総裁を目指した安倍さんが「美しい国」を語ったのは、醜くなった日本を美しい国への再生を目指す意味だったのでしょう。
 日本では鬱病や精神的な疾患が増大し、毎年3万人を超える自殺者が9年連続しています。心や身体の健康について不安を抱く人が増え続けています。高齢化社会へ向う中で年金問題が露呈して政府への不信感が募っています。こうしてテレビや新聞のニュースは毎日、暗い政治の話、変化の激しい経済や凶悪な犯罪、社会的な事故や災害が報道されて、2007年の一文字は「偽」と書かれました。これでは安心安全とは程遠い社会です。
 美しい国とか、品格のある国と言いうるためには、人々に人間らしい暮らしとやりがいのある仕事を保障するシステムが必要です。そして、すべての人々が社会的存在としての義務を果していくことに誇りと喜びを持ちうるようなシステムと情報の開示が不可欠です。
 冷戦終結後日本はバブルの崩壊があり、失われた90年代という長い暗い時期を迎えました。21世紀に入ると「改革なくして成長なし」と小泉改革が叫ばれますが、誰のための、どういう改革なのか、改革のパラダイムやそれを実現するシステムは示されませんでした。


 20世紀の延長線上には、明るい希望が持てませんから21世紀には21世紀らしい新しいパラダイムとシステムを提起することが必要だったのです。さらに、それは日本だけの社会改革に止まらず、国際関係を含む地球全体の問題として、考察されるべきことです。
 ヒューマノミックスの実現のための道筋を考えるにはこうした観点が必要であると思います。このような社会改革は、これまでも多くの理論があり、様々な変革の試みがありました。政治家たちによってしばしば利用されてきた偽せもの、似て非なるものが「ナショナリズム」であり、「ファッシズム」や「ナチズム」もありました。その概念は、確かに共同体的なものですが、その大半は偽せものでした。聖戦と称して、敗戦に終わった天皇制軍国主義もそうでしたから、国民は、政治が信じられないものになってきました。
 それは、真実を明らかにして、真理を探求して、共同体のあるべき姿を説こうとしない社会科学の罪でもあります。
 共同体システムが、本物であるためには、その目的が正しいものでなければなりません。そして、その手段が有効なものでなければなりません。それは、学問の問題ですが、その理論が未完成なのです。ヒューマノミックスの場合も、未だ、理論の段階であり、これから試行錯誤し完成されるべきものですが、最も完成に近いものだと私は考えます。


 現在の中国は、社会主義の中から現れ、全体主義的計画経済をベースとしながら、「改革解放」によって、市場システムを導入して、二元的混合経済となっています。この中国経済は現在世界的な競争力と影響力を持つ存在となりました。
 これとヒューマノミックスとの根本的相違は何かをも問わねばなりません。この13億の人口を持ち、10パーセントを超える成長を続ける中国は、変化と多様性に富んでおり、この国を論ずることは容易ではありません。しかし、ヒューマノミックスの観点からどう見えるかを論ずることは出来ます。
 その観点から見る時、いわゆる現代化された中国経済は、ケインズやロエブルのいうミクロ経済とマクロ経済が並存する二元的混合経済です。二元的なシステムという点では共通の要素を持っていますが、その貨幣の哲学的、社会学的機能は異なっています。
 それは、暫らくおくとして、中国経済の全体的性格についての第一印象を述べると、それは、リストの「国民生産力の理論」に近い保護主義的経済であると言えましょう。すなわち、国家権力の保護政策によって、金融的にも、税制的にも、行政的にも保護され育成されているナショナリズム経済です。


 他の国々の企業が中国経済に参加する道は、持っている技術や資本を提供し、中国企業のパートナーとなることによって法的保護と特権を与えられながら取引する不平等経済への参加となります。したがって、中国企業に生産技術や経営のノウハウを移転し終われば、そのビジネスは終了するということになります。これが、中国に進出を許された日本企業が中国で辿ってきた、また辿るであろう運命です。これら企業は、その他にも特許の侵害や、模造品の製造など国際ルールに違反した様々な被害があまりにも多かったようです。
 にも拘らず、中国経済が、世界から許され、先進国からの資本と技術の導入に成功したのは何故か。なぜ、資本も技術も持たない中国経済が、資本も技術もある日本経済に対して、圧倒的に優位に立ち、自己主張を貫き通すことができたのか。これは、世界経済の新しい経験でした。
 すでに拡大しきって需要不足に直面していた先進国の企業にとって、生き残るためには、膨大な需要と予想利益の期待できる中国経済への参加は如何に身を屈しても求めざるを得ない存在だったのです。その取引の関係は、ただ一人の独占企業(中国政府)と無数の弱小企業の関係でした。
 それは、競争の関係ではなく、情実の関係であり、不合理な関係であり、政治的主従の関係でした。日本にとっての強みは、生産技術とビジネスのノウハウを持っていることでしたが、その移転と格差が消滅するのは、時間の問題でした。日本には、定年退職した技術者がたくさんいましたから、彼らは中国経済の発展のため容易に利用されました。


 中国経済発展の根本的原因は、先進国の科学的生産技術と中国の膨大な低賃金労働を結びつけることによって、巨大な利潤を作り出すことでした。かって日本がやってきたことであり、その後、アジア新興工業国の歩んだ道でした。
 しかし、中国の場合、それが全世界を舞台とした、長期の国家戦略として行われることに特徴がありました。それに必要な人材の教育と資源の確保と設備の建設を、世界戦略として練り上げ、民間のビジネスマンの自発能動とエネルギーの爆発によって実現してきたのです。
 中国経済の国際競争力の強さは、低賃金と高技術の結合によるものですが、もう一つは、為替レートの問題がありました。技術の向上により、生産性が上がり、競争力が強くなり、貿易黒字が増えると、為替レートが変わり、競争力が下がり、収支が均衡に向かうといわれるのですが、中国は、この変動相場制に移ることを拒み、これを固定し続けてきました。その結果が、世界の生産基地といわれるようになったのです。そして、世界の汚染大国、中国の問題が生まれました。
 これはロエブルの貨幣論とは、根本的に異なる発想であります。これは社会システム論の問題ですが、さらに、異なる点は、パラダムの問題でもあります。ヒューマノミックスと中国経済のシステムとの違いはどこにあるか。目的観が違うことです。


 人生の目的は、金儲けではないというのが、ヒューマノミックスの考え方です。
 貨幣は、手段であって、それ自体はシンボンルであり、人間によって作られた制度であって、自然に存在する実体でもなければ、法則によって動くものでもない。人間の価値観によって善にもなれば悪にもなる。何が本当の価値であり、目的であるか。その目的を実現するための触媒である貨幣の使い方を考え出すことが政治と言う技術の役割です。
 それは、社会も経済も永続するシステムであり、共存と循環のシステムでなければならないということです。


 中国は今や、世界の工場であり、最大の輸出大国となり、ドル保有国となり、資本による覇権主義国家となったのです。しかし、それは、同時に、自然環境の破壊と汚染を引き起し、文明論的危機の最大の震源地となったことを意味しています。
 これは、ヒューマノミックスとは反対物であり、二元的システムは似て非なるものであります。しかし、中国経済のベースにあるものは、社会主義的価値観であり、全体主義的計画経済なのであります。
 ケ小平によって始められた「社会主義の現代化」というのは、「黒猫であろうが、赤猫であろうが、ねずみを取る猫は良い猫だ。一緒に金持ちにならなくても、なれるものからなってゆけばよい」という論理で、地域的特区を作って、一国二制度を可能にしました。今その矛盾と共に、新しいその可能性を実験しているのだと思います。
 即ち、中央の強大な権力と社会主義的価値観は、自由主義的市場主義の中に残っているのです。自国の経済発展のためなら何でもでき、何でもする国のように見えます。しかし、昨年の温家宝首相の訪日は、別の中国観を与えてくれました。日本に対しても非常に友好的で、政治家としても国民本位の考えで、立派だということです。
 胡錦濤主席も同じように見えます。首脳間の相互訪問も実現するようです。日本と中国の間に、環境基金設立の案ができるようですが、発展的方向に見えます。両国とも、ナショナリズム国家ですが、ナショナリズムが危険なものであることに気がつくことは困難でないようです。
 しかし、中国の最も深刻な国内問題として、市場システムにおけるあまりにも激しい高度成長が生み出した貧富の格差と環境問題があります。


 格差問題は、世界の格差大国アメリカに劣らぬ成金と極貧という極端な分裂を抱え、年間、10万件を越す暴動を持つ社会主義国になってしまったということです。
 環境問題は、中国において、正に生存の危機の問題となるでしょう。水の問題であり、食料の問題であり、大気汚染の問題であります。日本の環境技術に援助を求める段階にいたっています。黄土高原の流砂や工業地帯の酸性雨は、モンスーンと共に、国境を越えて押し寄せるし、黄海で発生した巨大クラゲが海流にのって日本海を覆いつくす。これらは、ナショナリズムでは問題解決を図ることができません。
 こう考えると、中国問題は、自由主義か社会主義かの問題を超えて、人類の生存の危機をかけた、ヒューマノミックスにとっても、人類の未来にとっても最大の問題を孕んだ共通の問題だということが理解されてきます。アジア共同体の形成は、環境と食料の安全保障から始めるのが自然かも知れません。



 内外ともに深刻な問題、困難な課題に当面していますが、此処で「人間とは何か」という本質に立ち返って考えてみましょう。人は生命が与えられれば生まれ、生命が亡くなれば死ぬ。人間の本質は生命であり、人間はその社会を生命進化に即して、すべての人々の幸せを実現するシステムを求めて構想するべきものです。
 そうした社会を構成する個々の人間は、その属する社会のために必要ならば喜んで死ぬこともできる存在です。本来死と生は永遠なるものの両面であって、人間の主体性とは、内なるものの自己実現であり、それは、生死を超えた存在であります。




  明解な中国問題の分析等を交えて死生観に至るお話しを伺い、ヒューマノミックスのパラダイムを考える上でたいへん勉強になりました。有難うございました。
 次回は、もう一つの経済大国で、科学技術と国際通貨の供給国でもあり、昨年サブプライム・ローン問題で世界の金融危機を起こしているアメリカ経済を取り上げ、その上で、このヒューマノミックスと言う思想が、世に理解され、世界の直面している危機を克服してゆく上での一番困難な問題は何であるか、また、今の日本で一番狂っていることは何であるか、いろいろお考えをお聞かせ頂いて終わりたいと思います。
 この対談を先生にお願いして一年、ほぼ目的を達成することができたと考えております。本当に有難うございました。しかし、時代の状況は、これからが、ヒューマノミックスの本格的な展開が求められているように思います。引き続きご指導下さるよう宜しくお願い申し上げます。



 山本先生の熱意で始まったこの対談にお役に立てたことを喜んでおります。
また、この対談は、大変に大きな問題を取り上げていることに、改めて驚いております。今後ともよろしくお願いします。

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