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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

扶桑
戦艦「扶桑」竣工時

「扶桑」は、扶桑型戦艦の1番艦である。 扶桑型戦艦は金剛型巡洋戦艦でイギリスから導入された技術を基に設計された、日本海軍初の超弩級戦艦である。 主砲は金剛型と同じ45口径36cmで、これを連装砲塔6基12門搭載した。 主砲塔6基は、前後に背負式に2基ずつ配置、艦中央部に缶室を挟む形で2基を配置した。

扶桑進水式
扶桑進水式

「扶桑」は1912年(明治45年)3月11日に、呉工廠の造船船渠で起工された。 造船船渠は1908年(明治41年)1月21日に着工し、1912年(明治45年)3月2日に完成したばかりの最新施設(全長270m、幅35m、深さ15m)であり、「扶桑」は造船船渠で建造された第1艦となった。

以降、戦艦「長門」「大和」、航空母艦「赤城」「蒼龍」「葛城」等が建造されることとなる。 「大和」建造に備えて、造船船渠の1m掘り下げや走行クレーンの強化などを実施した。

1930年(昭和5年)4月12日〜1933年(昭和8年)5月12日に第一次改装工事が実施された。 改装の内容は、水平防御力の強化、主機と主缶の換装、遠距離砲戦に対応した主砲および副砲の仰角引き上げ、高角砲の換装などであった。 また、この改装で、3番砲塔上部に射出機を装備し、砲身の繋止位置を艦首方向とした。 このため、艦橋後方の基部がえぐられたような、独特の艦容となった。

扶桑
戦艦「扶桑」開戦時

1934年(昭和9年)9月16日〜1935年(昭和10年)3月にかけて第二次改装工事が実施され、バルジの増設、艦尾の延長が行われた。 1937年(昭和12年)頃、1、2番副砲を撤去し、機銃を九六式25mm連装機銃8基に換装。 1940年(昭和15年)には、射出機を艦尾に移設、呉式二号五型に換装した。

扶桑
戦艦「扶桑」比島沖海戦時

開戦後は、ハワイ作戦支援、ミッドウェー作戦支援に参加したものの、その後は主として内海西部で練習艦任務に就いた。 1943年(昭和18年)8月になり、南方作戦支援のためトラックに進出、1944年(昭和19年)5月30日渾作戦発動により、ビアク島に向ったが、6月3日に作戦は中止となり会敵の機会はなかった。  あ号作戦時には待機部隊となったためマリアナ沖海戦には参加していない。 捷一号作戦発動により、第二艦隊第三部隊(西村艦隊)として、10月22日にブルネイを発したが、スリガオ海峡でアメリカ駆逐艦の雷撃を受け沈没した。(1)(2)

艦名

艦名は旧国名。 艦名は旧国名。 中国の東方にあるという国。 日本の異称。(3)

「仰とふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。」(松尾芭蕉/おくのほそ道)

要目(4)(5)(6)

新造時1933年(昭和8年)改装後1935年(昭和10年)改装後
艦種戦艦
建造場所造船船渠
基準排水量29,326トン ※1(計画)34,700トン ※1(計画)34,700トン ※1(計画)
常備排水量30,600トン ※1(計画)
公試排水量30,998トン ※138,369トン ※239,105トン ※2
満載排水量36,448トン ※1
垂線間長192.02m192.02m192.02m
水線長202.69m(公試)210.00m(公試)
全長205.13m205.13m212.75m
最大幅28.65m33.22m
水線最大幅28.65m(公試)30.64m(公試)
水線下最大幅28.65m33.22m33.22m
喫水8.69m(公試平均)9.72m(公試平均)
主缶宮原式水管缶(重油・石炭混焼)両面8基、単面16基
ハ号艦本式水管缶(重油専焼)2基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
ハ号艦本式水管缶(重油専焼)2基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
ハ号艦本式水管缶(重油専焼)2基
主機ブラウン・カーチス式高中低圧直結タービン2基艦本式オール・ギヤード・タービン4基艦本式オール・ギヤード・タービン4基
推進器軸4軸4軸4軸
出力40,000馬力/46,313馬力(公試)70,000馬力/76,889(公試)70,000馬力/76,044(公試)
速力22.5ノット/23.0ノット(公試)24.7ノット/24.68ノット(公試)24.7ノット/24.68ノット(公試)
燃料石炭:4,600トン/重油:1,411トン重油:5,753トン重油:5,465トン
航続力14ノットで8,000浬16ノットで11,800浬
兵装45口径四一式36cm連装砲6基
50口径四一式15.2cm単装砲16基
四一式短8cm単装砲4基
安式53.3cm水中魚雷発射管6基
四四式二号53.3cm魚雷18本
45口径四一式36cm連装砲6基
50口径四一式15.2cm単装砲16基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九三式13mm4連装機銃2基
45口径四一式36cm連装砲6基
50口径四一式15.2cm単装砲16基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九三式13mm4連装機銃2基
射出機呉式二号四型1基呉式二号四型1基
装甲水線305mm 甲板64mm
司令塔305mm
砲塔前楯280mm
砲塔天蓋115mm
水線305mm
甲板67+32mm
司令塔351mm
砲塔前楯280mm
砲塔天蓋152mm
航空機水上偵察機3機(定数)水上偵察機3機(定数)
乗員1,193名1,303名
その他1917年(大正7年)3月に四一式短8cm単装砲を40口径三年式8cm高角砲に換装。
1923年(大正12年)頃に主砲の仰角引き上げと砲塔天蓋甲鈑換装を実施。
1937年(昭和12年)頃、1、2番副砲を撤去。 また、機銃を九六式25mm連装機銃8基に換装。1940年(昭和15年)には、射出機を艦尾に移設、呉式二号五型に換装。
捷号作戦時の機銃装備は以下
九六式25mm3連装機銃8基
同連装機銃16基
同単装機銃39基(うち5基は移動式)
九三式13mm単装機銃10基

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)(8)

年月日履歴
1912年(明治45年)3月11日起工。
1914年(大正3年)3月28日進水。
1915年(大正4年)11月8日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1915年(大正4年)12月13日第一艦隊第一戦隊に編入。
1917年(大正6年)4月9日佐世保発。 中国方面行動。
1917年(大正6年)4月29日呉着。
1918年(大正7年)2月27日馬公発。 中国方面行動。
1918年(大正7年)3月3日佐世保着。
1918年(大正7年)12月1日予備艦となる。
1919年(大正8年)8月1日第一艦隊第一戦隊に編入。
1920年(大正9年)8月29日館山発。 ソ連領沿岸警備に従事。
1920年(大正9年)9月7日小樽着。
1921年(大正10年)12月1日予備艦となる。
1923年(大正12年)9月6日関東大震災の救援に、9月22日まで従事。
1924年(大正13年)12月1日第一艦隊第一戦隊に編入。
1925年(大正14年)3月30日佐世保発。 中国秦皇島方面行動。
1925年(大正14年)4月5日旅順着。
1926年(大正15年)3月30日中城湾発。 中国厦門方面行動。
1926年(大正15年)4月5日馬公着。
1926年(大正15年)4月20日基隆発。 中国舟山島方面行動。
1926年(大正15年)4月26日寺島水道着。
1926年(大正15年)12月1日予備艦となる。
1927年(昭和2年)12月1日第一艦隊第一戦隊に編入。
1928年(昭和3年)3月29日有明湾発。 中国舟山島方面行動。
1928年(昭和3年)4月2日基隆着。
1928年(昭和3年)4月7日基隆発。 香港方面行動。
1928年(昭和3年)4月15日馬公着。
1928年(昭和3年)12月10日予備艦となる。
1930年(昭和5年)4月12日横須賀工廠で第一次改装工事に着手。
1930年(昭和5年)5月15日第三予備艦となる。
1932年(昭和7年)9月26日呉工廠に移り、第一次改装工事継続。
1933年(昭和8年)3月1日第二予備艦となる。
1933年(昭和8年)5月12日第一次改装工事完了。 呉工廠を出渠。
1933年(昭和8年)8月16日館山発。 南洋方面行動。
1933年(昭和8年)11月15日第一艦隊第一戦隊に編入。
1934年(昭和9年)9月16日呉工廠に入渠。 艦尾延長工事に着手。
1935年(昭和10年)3月工事完了。
1935年(昭和10年)3月29日佐世保発。 中国馬鞍群島方面行動。
1935年(昭和10年)4月4日寺島水道着。
1936年(昭和11年)4月13日寺島水道発。 青島方面行動。
1936年(昭和11年)4月22日寺島水道着。
1936年(昭和11年)8月4日基隆発。 厦門方面行動。
1936年(昭和11年)8月7日馬公着。
1936年(昭和11年)12月1日呉警備戦隊に編入。 練習艦となる。
1937年(昭和12年)2月26日呉工廠で第二次改装工事に着手。
1938年(昭和13年)3月31日第二次改装工事完了。 呉工廠を出渠。
1938年(昭和13年)11月15日第一艦隊第一戦隊に編入。
1939年(昭和14年)3月22日鹿児島発。 北支方面行動。
1939年(昭和14年)4月2日寺島水道着。
1939年(昭和14年)12月15日第三予備艦となる。
1941年(昭和16年)4月10日第一艦隊第二戦隊に編入。
1941年(昭和16年)12月8日ハワイ作戦支援のため、柱島発。
1941年(昭和16年)12月13日柱島着。
1942年(昭和17年)2月21日呉工廠に入渠。 主砲砲身換装。
1942年(昭和17年)2月25日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)4月18日ドーリットル空襲により、アメリカ機動部隊攻撃のため、柱島発。
1942年(昭和17年)4月22日柱島着。
1942年(昭和17年)5月29日ミッドウェー作戦支援のため、柱島発。
1942年(昭和17年)6月17日横須賀着。
1942年(昭和17年)6月22日横須賀発。
1942年(昭和17年)6月24日柱島着。
1942年(昭和17年)9月4日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)9月9日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)11月15日1943年(昭和18年)1月15日まで、少尉候補生の乗艦実務練習艦となる。
1943年(昭和18年)7月18日呉工廠に入渠。 電探、機銃増備。
1943年(昭和18年)7月24日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)8月17日トラックに向け内海西部発。
1943年(昭和18年)8月23日トラック着。 訓練。
1943年(昭和18年)10月17日マーシャル方面にアメリカ機動部隊来襲のおそれがあるため、トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。
1943年(昭和18年)10月23日ブラウン発。
1943年(昭和18年)10月26日トラック着。
1944年(昭和19年)2月1日トラックがアメリカ機動部隊の攻撃をうけるおそれがあるため、トラック発。
1944年(昭和19年)2月4日パラオ着。
1944年(昭和19年)2月16日パラオもアメリカ機動部隊の攻撃をうけるおそれがあるため、パラオ発。
1944年(昭和19年)2月21日リンガ泊地着。 訓練。
1944年(昭和19年)2月25日連合艦隊付属となる。
1944年(昭和19年)4月8日リンガ泊地発。 同日、シンガポールに回航。
1944年(昭和19年)4月13日シンガポール第一船渠に入渠。
1944年(昭和19年)4月25日出渠。
1944年(昭和19年)4月27日シンガポール発。 同日、リンガ泊地に回航。
1944年(昭和19年)5月11日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)5月14日タウイタウイ着。
1944年(昭和19年)5月30日渾作戦発動により、タウイタウイ発。
1944年(昭和19年)5月31日ダバオ着。
1944年(昭和19年)6月2日ビアク島に向け、ダバオ発。
1944年(昭和19年)6月3日渾作戦中止により、ダバオへ向かう。
1944年(昭和19年)6月5日ダバオ着。
1944年(昭和19年)6月17日ダバオ発。 同日、マララグ着。 あ号作戦待機部隊となる。
1944年(昭和19年)6月20日マララグ発。 同日、ダバオ着。
1944年(昭和19年)7月1日ダバオ発。
1944年(昭和19年)7月2日タラカン着。
1944年(昭和19年)7月8日第四駆逐隊とともにタラカン発。
1944年(昭和19年)7月15日呉着。
1944年(昭和19年)8月2日呉工廠に入渠。 電探、機銃増備。
1944年(昭和19年)8月14日呉工廠を出渠。
1944年(昭和19年)9月10日山城とともに第二艦隊第二戦隊を編成。
1944年(昭和19年)9月23日呉発。
1944年(昭和19年)10月4日リンガ泊地着。
1944年(昭和19年)10月18日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)10月22日ブルネイ発。 比島沖海戦に第二艦隊第三部隊として参加。
1944年(昭和19年)10月22日〜10月25日スリガオ海峡でアメリカ駆逐艦の雷撃を受け沈没。
1945年(昭和20年)8月31日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 2巻 戦艦扶桑・山城・伊勢・日向.東京,光人社,1996,p27-33
  2. 呉造船所社内報編集局編.船をつくって80年.呉.呉造船所,1968,p31
  3. 世界大百科事典 第2版(オンライン版)
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p36
  5. 石橋孝夫.日本帝国海軍全艦船1868-1945 [ 戦艦・巡洋戦艦 ].東京,並木書房,2007,p256-285
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 2巻 戦艦扶桑・山城・伊勢・日向.P27-33
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 2巻 戦艦扶桑・山城・伊勢・日向.p36
  8. 日本戦艦史.東京,海人社,1988,p87 p187,世界の艦船.No391 1988/3増刊号増刊第24集

謝辞

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