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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

長門
戦艦「長門」完成時

「長門」は、長門型戦艦の1番艦である。 長門型は八四艦隊計画の戦艦として、「長門」、「陸奥」の2艦が建造された。 世界で最初に41c砲を主砲に採用し、建造中に発生したユトランド沖海戦の戦訓に基づいて水平防御の強化、速力向上を図っている。

1922年(大正11年)2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、完成が問題視されていた2番艦「陸奥」の保有を認める代償として、アメリカはコロラド級戦艦3隻、イギリス海軍はネルソン級戦艦艦2隻の保有が認められた。 この結果誕生した「長門」、「陸奥」、「コロラド(Colorado)」、「メリーランド(Maryland)」、「ウェストバージニア(West Virginia)」、「ネルソン(Nelson)」、「ロドニー(Rodney)」の7隻は世界のビッグセブンと呼ばれた。

長門
戦艦「長門」誘導煙突装備時

就役直後に第一艦隊旗艦となり、太平洋戦争開戦後まで、旗艦任務の大半を務めた。 就役後に前部艦橋への排煙逆流が問題となり、対策として第一煙突頂部にフードを設けたが効果は少なく、1924年(大正13年)に陸奥と共に第一煙突を後方に大きく曲げた屈曲煙突を採用した。

長門
戦艦「長門」開戦時

1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて大改装を行い、主缶の換装、装甲の追加、主砲塔の改造などが実施された。

長門
戦艦「長門」比島沖海戦時

太平洋戦争開戦を連合艦隊旗艦として迎え、ハワイ作戦支援、ミッドウェー・アリューシャン作戦支援に従事した。 その後も、前線作戦支援のため、トラック、パラオ、リンガ、タウイタウイに進出したが、最前線に出ることはなかった。 1944年(昭和19年)6月にはマリアナ沖海戦に参加、10月の比島沖海戦ではシブヤン海で空襲を受け、爆弾2発の命中により損傷した。 終戦時には横須賀において中破状態で残存していた。 アメリカ軍に接収された後、1946年7月にビキニ環礁で実施された原爆実験の標的艦となり、2回の原爆実験により沈没した。(1)

艦名

艦名旧国名。 現在の山口県の西半部。 長州。 律令制以前、その南西地方の下関海峡付近を穴門国と呼び、穴門国造が支配した。(2)

「爰伐新羅之明年春二月皇后領群卿及百寮移于穴門豐浦宮(爰に新羅を伐ちたまふ明年の春二月に、皇后、群卿及百寮を領ゐて、穴門豐浦宮に移りたまふ。)」(日本書紀巻九)

要目(3)(4)(5)(6)

新造時1936年(昭和11年)改装後捷号作戦時
艦種戦艦戦艦
建造場所造船船渠
基準排水量32,720トン ※139,190トン ※1
常備排水量33,870トン ※1
公試排水量37,396トン ※145,581トン ※2
軽荷排水量32,388トン ※136,911トン ※2
満載排水量40,204トン ※145,816トン ※2
全長215.80m224.94m
垂線間長201.35m201.35m
水線長213.60m221.07m
最大幅28.96m34.59m
水線最大幅28.96m32.46m
水線下最大幅28.96m34.59m
喫水9.83m(公試平均)/10.51m(満載平均)9.49m(常備平均)/9.96m(満載平均)
主機技本式オール・ギヤードタービン4基、4軸技本式オール・ギヤードタービン4基、4軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)15基
ロ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼)6基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)大型4基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)小型6基
出力80,000馬力/85,478.35馬力(公試)80,000馬力/88,445馬力(公試)
速力26.5ノット/26.443ノット(公試)25.0ノット/25.8ノット(公試)
燃料石炭:1,600トン、重油:3,400トン石炭:57.8トン、重油:5,788トン
航続力16ノットで5,500浬16ノットで8,650浬
装甲水線305mm
甲板146mm
砲塔前楯305mm
砲塔天蓋152mm
司令塔330mm
水線305mm
甲板146mm
砲塔前楯457mm
砲塔天蓋228mm
司令塔330mm
兵装45口径三年式40cm連装砲4基
50口径三年式14cm単装砲20基
40口径三年式8cm単装高角砲4基
安式53.3cm水中発射管4門
安式53.3cm水上発射管4門
45口径三年式40cm連装砲4基
50口径三年式14cm単装砲18基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
毘式40mm連装機銃2基

開戦時
45口径三年式40cm連装砲4基
50口径三年式14cm単装砲18基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃10基
45口径三年式40cm連装砲4基
50口径三年式14cm単装砲14基
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm連装機銃26基
同連装機銃10基
同単装機銃30基
射出機-呉式二号五型改1基
航空機-九五式水上偵察機3機
乗員1,333人1,360人
その他-あ号作戦時の機銃装備は以下
九六式25mm3連装機銃14基
同連装機銃10基
同単装機銃30基

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)(8)(9)

年月日履歴
1917年(大正6年)8月28日起工。
1919年(大正8年)11月9日進水。 横須賀鎮守府籍に編入。 
1920年(大正9年)11月15日竣工。 第一予備艦となる。
1920年(大正9年)12月21日連合艦隊第一艦隊第一戦隊に編入。 第一艦隊旗艦となる。
1921年(大正10年)8月19日佐世保発。 青島方面行動。
1921年(大正10年)8月26日呉着。
1922年(大正11年)6月26日仁川発。 旅順方面行動。
1922年(大正11年)7月4日鎮海着。
1922年(大正11年)8月29日呉発。 ロシア領沿岸方面行動。
1922年(大正11年)9月10日小樽着。
1923年(大正12年)8月25日横須賀発。 中国沿岸方面行動。
1923年(大正12年)9月4日有明湾着。
1923年(大正12年)9月5日関東大震災救援警備活動。 9月30日まで。
1923年(大正12年)12月1日連合艦隊旗艦となる。
1924年(大正13年)3月8日佐世保発。 中国沿岸方面行動。
1924年(大正13年)3月20日馬公着。
1924年(大正13年)6月横須賀工廠で、前檣楼、煙突改造工事着手。 翌年3月完成。
1924年(大正13年)12月1日砲術、水雷、機関学校練習艦となる。
1925年(大正14年)12月1日第一艦隊第一戦隊に編入。 連合艦隊旗艦となる。
1926年(大正15年)3月30日中城湾発。 廈門方面行動。
1926年(大正15年)4月5日馬公着。
1926年(大正15年)4月20日基隆発。 舟山島方面行動。
1926年(大正15年)4月26日寺島水道着。
1927年(昭和2年)3月27日佐伯発。 青島・芝罘方面行動。
1927年(昭和2年)4月7日旅順着。
1927年(昭和2年)10月30日横浜沖大演習観艦式に参加。
1928年(昭和3年)3月29日有明湾発。 舟山島方面行動。
1928年(昭和3年)4月2日基隆着。
1928年(昭和3年)4月7日基隆発。 香港方面行動。
1928年(昭和3年)4月15日馬公着。
1928年(昭和3年)11月10日横浜沖大礼特別観艦式に参加。
1928年(昭和3年)12月1日艦隊より除く。
1928年(昭和3年)12月10日砲術、水雷、機関学校練習艦となる。
1915年(大正4年)5月29日天皇陛下関西方面行幸のさい、御召艦となる。
1916年(大正5年)10月26日神戸沖特別大演習観艦式に参加。
1916年(大正5年)12月1日第一艦隊第一戦隊に編入。
1917年(大正6年)3月29日佐世保発。
1917年(大正6年)4月5日裏長山列島着。
1917年(大正6年)12月1日第二予備艦となる。
1918年(大正7年)12月1日第一予備艦となる。
1919年(大正8年)2月呉工廠で対空兵装換装、射出機装備、探照灯換装その他工事に着手。
1919年(大正8年)8月16日館山発。 南洋方面行動。
1919年(大正8年)8月21日木更津沖着。
1919年(大正8年)8月26日横浜沖大演習観艦式に参加。
1920年(大正9年)4月1日呉工廠で大改装工事に着手。
1921年(大正10年)11月15日第一艦隊第一戦隊に編入。
1922年(大正11年)1月31日大改装工事完了。
1922年(大正11年)8月4日基隆発。 廈門方面行動。
1922年(大正11年)8月7日馬公着。
1936年(昭和11年)10月29日神戸沖特別大演習観艦式に参加。
1937年(昭和12年)3月27日寺島水道発。 青島方面行動。
1937年(昭和12年)4月6日有明湾着。
1937年(昭和12年)8月21日陸軍第十一師団の一部約2,000名を小松島から上海へ輸送。
1937年(昭和12年)8月25日佐世保に帰投。
1937年(昭和12年)9月15日寺島水道発。 北支方面行動。
1937年(昭和12年)9月17日旅順着。
1937年(昭和12年)9月21日旅順発。 北支方面行動。
1937年(昭和12年)9月23日佐世保着。
1937年(昭和12年)12月1日練習艦となる。 翌年にかけて横須賀工廠で25mm機銃装備、射出機位置改正その他の工事実施。
1938年(昭和13年)12月15日第一艦隊第一戦隊に編入。 連合艦隊旗艦となる。
1939年(昭和14年)3月22日鹿児島発。 北支方面行動。
1939年(昭和14年)4月2日寺島水道着。
1940年(昭和15年)3月26日有明湾発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)4月2日高雄着。
1940年(昭和15年)10月11日紀元二千六百年特別観艦式に参加。
1941年(昭和16年)2月24日佐世保発。 南支方面行動。
1941年(昭和16年)3月3日馬公着。
1941年(昭和16年)3月30日横須賀で主砲バーベット甲鈑追加、砲身換装その他の工事実施。 5月28日まで。
1941年(昭和16年)8月11日第一艦隊第一戦隊に編入。 連合艦隊旗艦となる。
1941年(昭和16年)9月9日横須賀で臨戦準備工事実施。 10月6日まで。
1941年(昭和16年)10月9日対アメリカ戦を想定して、図上演習を行う。
1941年(昭和16年)12月8日連合艦隊旗艦として、ハワイ攻撃機動部隊援護のため、柱島発。
1941年(昭和16年)12月13日柱島に帰投。
1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦を「大和」に移す。
1942年(昭和17年)3月15日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)4月9日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)5月29日ミッドウェー作戦主力部隊として柱島を出撃。
1942年(昭和17年)6月6日ミッドウェー作戦中止により。航空母艦「加賀」の生存者を駆逐艦から収容。
1942年(昭和17年)6月14日柱島に帰投。
1942年(昭和17年)7月14日第一艦隊第一戦隊に編入。 
1942年(昭和17年)7月18日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)7月22日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)1月25日呉工廠に入渠。 主給水タンク修理。
1943年(昭和18年)2月2日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)5月31日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)6月6日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)8月7日柱島発。 ソロモン方面作戦支援。
1943年(昭和18年)8月23日トラック着。 同地において、全作戦支援を行いながら、訓練に従事。
1943年(昭和18年)10月17日無線諜報により、ウエーキ、マーシャル方面に敵機動部隊来襲の公算大との判断で、トラック所在部隊をブラウンに輸送のため、トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。 人員揚陸。
1943年(昭和18年)10月23日ブラウン発。 ウエーキ南方250浬まで進出したが、敵影を見ず反転。
1943年(昭和18年)10月26日トラック着。
1944年(昭和19年)2月1日トラックが敵機動部隊の攻撃を受けるおそれがあるため、連合艦隊主力はパラオに向け、トラック発。
1944年(昭和19年)2月4日パラオ着。
1944年(昭和19年)2月16日パラオも敵機動部隊の攻撃を受けるおそれがあるためと燃料の関係で、主力はリンガ泊地に向け、パラオ発。
1944年(昭和19年)2月21日リンガ泊地着。 訓練に従事。
1944年(昭和19年)2月25日第一戦隊旗艦となる。
1944年(昭和19年)3月30日リンガ泊地発、シンガポールに回航。 修理および整備。
1944年(昭和19年)4月15日修理完了。 シンガポール発、同日リンガ泊地着。
1944年(昭和19年)5月4日第一戦隊の旗艦を「大和」に移す。
1944年(昭和19年)5月11日リンガ泊地発、タウイタウイに向かう。
1944年(昭和19年)5月14日タウイタウイ着。
1944年(昭和19年)6月13日アメリカ軍マリアナ来攻により「あ号作戦決戦用意」により、タウイタウイ発。
1944年(昭和19年)6月13日ギマラス(フィリピン中部)に回航、補給をうける。
1944年(昭和19年)6月13日ギマラス発。 マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月22日中城湾着。
1944年(昭和19年)6月23日中城湾発。
1944年(昭和19年)6月24日内海西部着。
1944年(昭和19年)7月2日呉発。 人員、軍需品輸送。
1944年(昭和19年)7月10日中城湾着。
1944年(昭和19年)7月12日中城湾発。
1944年(昭和19年)7月20日マニラをへて、リンガ泊地?。 訓練に従事。
1944年(昭和19年)10月18日アメリカ軍レイテ上陸により捷一号作戦が発動され、リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日プルネイ着。
1944年(昭和19年)10月22日ブルネイ発。 レイテ湾に向かう。
1944年(昭和19年)10月24日シブヤン海で空襲を受け、爆弾2発が命中。
1944年(昭和19年)10月25日サマール島沖でアメリカ護衛空母艦隊と交戦。
1944年(昭和19年)10月28日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)11月15日第三戦隊に編入。
1944年(昭和19年)11月17日ブルネイ発。 内地に向かう。
1944年(昭和19年)11月25日横須賀着。 入渠して損傷箇所修理および副砲撤去工事。
1945年(昭和20年)1月1日第一戦隊に編入。
1945年(昭和20年)2月10日横須賀鎮守府警備艦となる。
1945年(昭和20年)4月20日予備艦となる。
1945年(昭和20年)6月1日本土決戦に備え、特殊警備艦となる。
1945年(昭和20年)7月18日横須賀で艦載機の空襲を受け、爆弾3発が命中。
1945年(昭和20年)9月15日除籍。 アメリカ軍に引渡し。
1946年(昭和21年)7月1日ビキニ環礁での原爆実験(空中爆発)に供される。
1946年(昭和21年)7月25日ビキニ環礁での原爆実験(水中爆発)に供される。
1946年(昭和21年)7月29日沈没。

参考資料

  1. 日本戦艦史.東京,海人社,1988,p114-117 p188-189,世界の艦船.No391 1988/3増刊号 増刊第24集
  2. 世界大百科事典 第2版(オンライン版)
  3. 前掲.日本戦艦史.p115 p188-189
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,36p
  5. 石橋孝夫.日本帝国海軍全艦船1868-1945 [ 戦艦・巡洋戦艦 ].東京,並木書房,2007,p316-318
  6. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 1巻 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥.東京,光人社,1996,p91-99
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 1巻 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥.東京,p100
  8. 前掲.日本戦艦史.p115 p188-189
  9. 前掲.日本帝国海軍全艦船1868-1945 [ 戦艦・巡洋戦艦 ].p321-322

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