戦艦「摂津」
「摂津」は河内型戦艦の2番艦である。 河内型戦艦は日露戦争後の補充艦艇費で建造された日本海軍最初の弩級戦艦で、「河内」、「摂津」の2隻が竣工した。 主砲として30センチ砲連装6基を前後2基、舷側各2基の配置として搭載した。 また首尾線方向の砲力を重視し、舷側砲の45口径に対して前後の砲を50口径とした。 副砲には15.2センチを日本海軍の主力艦としてはじめて搭載した。 主機には「伊吹」と「安芸」のものに改良を加えたカーチス式タービン2基を搭載し、速力20ノットを得た。 しかし、主砲の砲身長が前後部砲と舷側砲とで異なるため、真の意味での単一巨砲艦とは言いがたいとの評価もあった。
第一次大戦では東支那海・黄海警備に従事、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災では救難に出動した。
1923年(大正12年)のワシントン海軍軍縮条約により、戦艦「陸奥」の代わりに、「摂津」は退役させられ標的艦となり、兵装や装甲などを撤去し、艦砲標的の曳航に使用された。 この時に撤去された前後主砲塔2基は、陸軍要塞砲として長崎県対馬要塞竜ノ崎第一砲台と竜ノ崎第二砲台移設された。
1937年(昭和12年)7月には、駆逐艦「矢風」を操縦船とした無線操縦爆撃標的艦に改造された。 さらに1940年(昭和15年)5月には、装甲鈑を装着した爆撃・砲撃実験標的艦となり、内海西部で任務にあたっていたが、1945年(昭和20年)7月24日のアメリカ軍機による空襲で大破着底した。(1)(2)
艦名は旧国名。 現在の大阪府の北西・南西部および兵庫県の東部の地域にあたる。 摂州。(3)
「津の国の難波の春は夢なれやあしの枯れ葉に風渡るなり」(西行/新古今集)
新造時 | 1940年(昭和15年) | |
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艦種 | 戦艦 | 標的艦 |
建造場所 | 第三船台 | |
基準排水量 ※1 | 20,650トン | |
常備排水量 ※2 | 21,295.648トン | |
軽荷排水量 ※2 | 19,115.163トン | |
満載排水量 ※2 | 23.110.316トン | |
全長 | 162.46m | |
垂線間長 | 152.40m | |
水線長 | 159.30m | |
水線最大幅 | 25.647m | 25.45m |
喫水 | 8.366m | 8.38m |
主機 | カーチス式直結タービン2基、2軸 | カーチス式直結タービン2基、2軸 |
主缶 | 宮原式水管缶(重油・石炭混焼)16基 | 宮原式水管缶(重油・石炭混焼)4基 ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基 |
出力 | 25,000馬力/32,200馬力(公試) | 16,000馬力 |
速力 | 20.0ノット/21.008ノット(公試) | 18.01ノット |
燃料 | 石炭:2,060.5トン、重油:406トン | |
航続力 | ? | |
装甲 | 水線305mm 甲板75(30+45)mm 砲塔前楯279mm 砲塔天蓋76mm 司令塔254mm | 対砲弾:17,000〜22,000mから発射される20cm特型演習弾に耐える程度 対爆弾:高度4,000mから投下される30kg演習爆弾に耐える程度 |
兵装 | 50口径毘式30.5cm連装砲2基 45口径毘式30.5cm連装砲4基 45口径四一式15.2cm単装砲10基 40口径四一式12cm単装砲8基 40口径四一式8cm単装砲12基 短8cm単装砲(一号)4基 45cm水中発射管5門 | |
乗員 | 999人 | |
その他 | - |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1909年(明治42年)1月18日 | 起工。 |
1911年(明治44年)3月30日 | 進水。 戦艦に類別。 呉鎮守府籍に編入。 |
1912年(明治45年)7月1日 | 竣工。 第一予備艦となる。 |
1912年(大正元年)12月1日 | 第一艦隊に編入。 |
1913年(大正2年)2月10日 | 打狗発。 南清方面航海。 |
1913年(大正2年)2月17日 | 馬公着。 |
1913年(大正2年)2月21日 | 馬公発。 南清方面航海。 |
1913年(大正2年)2月28日 | 佐世保着。 |
1913年(大正2年)4月11日 | 仁川発。 北清方面航海。 |
1913年(大正2年)4月22日 | 鎮海着。 |
1914年(大正3年)2月12日 | 古仁屋発。 中国方面航海。 |
1914年(大正3年)2月18日 | 鎮海着。 |
1914年(大正3年)8月18日 | 第一艦隊に編入。 |
1914年(大正3年)8月28日 | 佐世保発。 第一次世界大戦に従事。 |
1914年(大正3年)9月4日 | 佐世保着。 |
1914年(大正3年)12月1日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1915年(大正4年)12月13日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1916年(大正5年)12月1日 | 第二予備艦となる。 |
1917年(大正6年)10月1日 | 第一予備艦となる。 |
1917年(大正6年)12月1日 | 第一艦隊第二戦隊に編入。 |
1918年(大正7年)2月27日 | 馬公発。 中国方面警備。 |
1918年(大正7年)3月3日 | 佐世保着。 |
1918年(大正7年)7月23日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1918年(大正7年)8月20日 | 第一艦隊第二戦隊に編入。 |
1919年(大正8年)10月9日 | 特別大演習観艦式賜宴設備工事。 11月4日完了。 |
1919年(大正8年)11月6日 | 第三予備艦となる。 |
1920年(大正9年)4月1日 | 呉工廠で缶管入換工事着手。 翌年8月31日完了。 |
1920年(大正9年)10月19日 | 呉工廠で特定修理船体修理着手。 翌年8月31日完了。 |
1921年(大正10年)4月1日 | 呉工廠で船体修理着手。 10月12日完了。 |
1921年(大正10年)9月10日 | 第一予備艦となる。 |
1921年(大正10年)10月10日 | 警備艦兼練習艦となる。 |
1922年(大正11年)4月1日 | 第三予備艦となる。 |
1922年(大正11年)8月23日 | 予備艦のまま海兵団練習艦となる。 |
1922年(大正11年)10月14日 | 第四予備艦となる。 |
1923年(大正12年)6月1日 | 第一予備艦となる。 |
1923年(大正12年)10月1日 | 除籍。 特務艦に類別。 |
1924年(大正13年)4月1日 | 標的艦への改造工事着手。 後に主砲塔は陸軍要塞砲として対馬竜ノ崎第一砲台(後部主砲塔)および第二砲台(前部主砲塔)に移設された。 |
1924年(大正13年)6月30日 | 改造完了。 |
1924年(大正13年)4月19日 | 第一予備艦となる。 |
1924年(大正13年)12月1日 | 第三予備艦となる。 |
1925年(大正14年)6月1日 | 第一予備艦となる。 |
1925年(大正14年)12月1日 | 第三予備艦となる。 |
1926年(大正15年)7月1日 | 第二予備艦となる。 |
1926年(大正15年)9月1日 | 第一予備艦となる。 |
1926年(大正15年)12月1日 | 第四予備艦となる。 |
1928年(昭和3年)3月1日 | 第二予備艦となる。 |
1936年(昭和11年)2月29日 | 呉工廠で無線操縦標的艦への改造工事着手。 |
1937年(昭和12年)7月31日 | 改造工事完成。 |
1937年(昭和12年)8月5日 | 連合艦隊付属に編入。 |
1937年(昭和12年)8月17日 | 佐世保発。 陸戦隊輸送のため、駆逐艦「矢風」とともに馬鞍群島に向かう。 |
1937年(昭和12年)8月19日 | 馬鞍群島着。陸戦隊を巡洋艦「名取」と第二十一駆逐隊ら移す。 |
1937年(昭和12年)8月21日 | 佐世保着。 補給待機。 |
1937年(昭和12年)8月27日 | 佐世保発。 輸送任務のために馬鞍群島に向かう。 |
1937年(昭和12年)8月31日 | 佐世保着。 |
1937年(昭和12年)9月8日 | 佐世保発。 輸送任務のために基隆に向かう。 |
1937年(昭和12年)9月10日 | 基隆着。 |
1937年(昭和12年)9月12日 | 基隆発。 |
1937年(昭和12年)10月15日 | 佐世保着。 |
1937年(昭和12年)11月1日 | 呉鎮守府部隊に編入。 整備休養。 |
1938年(昭和13年)4月20日 | 連合艦隊付属に編入。 |
1938年(昭和13年)10月17日 | 寺島水道発。 南支沿岸を経て馬公に向かう。 |
1938年(昭和13年)10月23日 | 馬公着。 |
1939年(昭和14年)3月21日 | 佐世保発。 |
1939年(昭和14年)4月3日 | 呉に帰着。 |
1939年(昭和14年)7月25日 | 第三予備特務艦となる。 |
1939年(昭和14年) | 呉工廠で爆撃砲撃兼用標的艦への改造着手。 翌年5月完成。 |
1940年(昭和15年)4月20日 | 連合艦隊付属に編入。 |
1941年(昭和16年)2月15日 | 佐世保発。 南支方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)3月5日 | 馬公着。 |
1941年(昭和16年)10月24日 | 第一航空艦隊の爆撃訓練のため九州方面に行動。 |
1941年(昭和16年)11月5日 | 海戦に伴なう主力艦隊の所在秘匿のため、12月初旬まで南西諸島方面に派遣され、偽通信に従事。 |
1941年(昭和16年)12月21日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1941年(昭和16年)12月25日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)12月28日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)1月10日 | 呉着。 入渠整備。 |
1942年(昭和17年)4月4日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)4月30日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)4月10日 | 主力部隊に部署され。連合艦隊司令長官の指揮下に入る。 |
1942年(昭和17年)5月3日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)5月26日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)6月17日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)7月8日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)7月14日 | 呉発。 内海西部ほかに行動。 |
1942年(昭和17年)9月9日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)9月16日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)9月25日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)10月18日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)10月30日 | 呉着。 補給休養。 |
1942年(昭和17年)11月5日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)11月25日 | 呉着。 補給休養。 |
1942年(昭和17年)12月8日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1942年(昭和17年)12月28日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)1月2日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)1月31日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)2月5日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)2月28日 | 呉着。 補給。 |
1943年(昭和18年)3月1日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)3月14日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)3月24日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)3月31日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)4月1日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)4月15日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)4月30日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)5月23日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)6月3日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)7月3日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)7月16日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)8月12日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)8月15日 | 機動部隊に部署され、第三艦隊司令長官の指揮下に入る。 |
1943年(昭和18年)9月1日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)10月7日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)10月17日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)10月23日 | 呉着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)11月21日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1943年(昭和18年)12月28日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)1月4日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)1月28日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)2月2日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)2月19日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)3月4日 | 第一航空艦隊付属に編入。 |
1944年(昭和19年)3月10日 | 第五基地航空部隊に部署。 第一航空艦隊司令長官が指揮。 |
1944年(昭和19年)3月19日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)4月20日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)5月2日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)5月18日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)6月1日 | 連合艦隊付属に編入。 連合艦隊付属部隊に部署され、連合艦隊司令長官が指揮。 |
1944年(昭和19年)6月10日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)7月13日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)7月31日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)10月1日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)10月29日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1944年(昭和19年)11月30日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)12月8日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1945年(昭和20年)2月18日 | 呉着。 補給休養。 |
1945年(昭和20年)3月3日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1945年(昭和20年)5月16日 | 呉着。 補給休養。 |
1945年(昭和20年)5月24日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1945年(昭和20年)6月14日 | 呉着。 補給休養。 |
1945年(昭和20年)6月18日 | 呉発。 内海西部に行動。 |
1945年(昭和20年)7月24日 | 江田内でアメリカ空母機攻撃により被爆着底。 |
1945年(昭和20年)11月20日 | 除籍。 |
1946年(昭和21年)6月 | 播磨造船により浮揚解体作業に着手。 |
1947年(昭和22年)8月 | 解体作業完了。 |
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