一等巡洋艦「筑波」
「筑波」は筑波型一等巡洋艦(装甲巡洋艦)の1番艦である。 本型は旅順港閉塞作戦中に戦没した戦艦「八島」と「初瀬」の損失を補うため、日露戦争臨時軍事費で「筑波」、「生駒」の2隻が建造された。 性能的には、砲力を強化した装甲巡洋艦で、浅間型装甲巡洋艦の主砲20.3cm連装砲2基に対して30.5cm連装砲2基とし、速力は同等の20.5ノットとしている。 また、日露戦争の戦訓により、艦首衝角を廃止してクリッパーパウとし、ファイティング・トップ、機関部などの中心縦隔壁も廃止している。
2隻とも呉工廠で急造されたが、「筑波」の竣工は1907年(明治40年)1月、「生駒」は1908年(明治41年)3月の竣工となり、日露戦争には間に合わなかった。竣工時は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別されたが、1912年(大正元年)8月に巡洋戦艦の類別が新設されると、巡洋戦艦に類別変更となった。 国産最初の大艦であり、2番艦「生駒」との同時建造(「生駒」は2ヶ月遅れで起工)であったが、起工後11ヶ月で進水、2年で完成させる記録を作っている。
就役後「筑波」は、1907年(明治40年)にアメリカ合衆国ジェームスタウン殖民300年記念祝典参列したのち、ヨーロッパを歴訪した。 第一次世界大戦では、通商保護のため西太平洋方面の哨戒任務や南洋諸島占領作戦やドイツ領南洋諸島占領に従事したが、大戦中の1917年6月に横須賀で前部火薬庫の爆発により爆沈し、乗員305名が死亡した。(1)
艦名は山岳名。 茨城県の中央部、筑波山塊南端にある山。 山頂は男体山(870m)、女体山(876m)の2峰に分かれる。 筑波嶺(つくばね)とも。(2)
筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる (陽成院)
新造時 | 最終時 | |
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艦種 | 一等巡洋艦 | 巡洋戦艦 |
建造場所 | 第三船台 | |
常備排水量 ※1 | 13,750トン | |
全長 | 144.78m | |
垂線間長 | 134.11m | |
最大幅 | 23.8m | |
水線下最大幅 | 23.8m | |
喫水 | 7.95m | |
主機 | 直立式4気筒3段膨張レシプロ蒸気機械2基、2軸 | |
主缶 | 宮原式水管缶(石炭専焼)20基 | |
出力 | 20,500馬力 | |
速力 | 20.5ノット | |
燃料 | 石炭:2,000トン | |
航続力 | 10ノットで5,000浬 | |
装甲 | 水線178mm 甲板51mm 砲塔前楯229mm 砲塔天蓋38mm 司令塔203mm | |
兵装 | 45口径呉式30.5cm連装砲2基 45口径四一式15.2cm単装砲12基 40口径安式12cm単装砲12基 四一式短8cm単装砲2基 安式45cm水中発射管3門 | 45口径呉式30.5cm連装砲2基 45口径四一式15.2cm単装砲10基v 40口径安式12cm単装砲8基 40口径四一式8cm単装砲4基 四一式短8cm単装砲2基 安式45cm水中発射管3門 |
乗員 | 820人 | |
その他 | - |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1905年(明治38年)1月14日 | 起工。 |
1905年(明治38年)12月12日 | 進水予定日であったが、進水台の不備により進水中止。 |
1905年(明治38年)12月26日 | 進水。 一等巡洋艦に類別。 呉鎮守府籍に編入。 |
1907年(明治40年)1月14日 | 竣工。 |
1907年(明治40年)1月15日 | 第二艦隊に編入。 |
1907年(明治40年)2月28日 | 横浜発。 アメリカ合衆国ジェームスタウン殖民300年記念祝典参列およびヨーロッパ歴訪。 |
1907年(明治40年)11月16日 | 横須賀帰着。 |
1907年(明治40年)12月31日 | 第一予備艦となる。 |
1908年(明治41年)1月10日 | 第二予備艦となる。 |
1908年(明治41年)9月15日 | 第一予備艦となる。 |
1908年(明治41年)10月8日 | 第二艦隊に編入。 世界一周航海中の、アメリカ海軍大西洋艦隊[グレート・ホワイト・フリート(Great White Fleet)]を横浜で送迎。 |
1908年(明治41年)11月20日 | 第一艦隊に編入。 |
1909年(明治42年)5月11日 | 第三予備艦となる。 |
1909年(明治42年)9月20日 | 横須賀鎮守府に転籍。 |
1910年(明治43年)4月1日 | 第一予備艦となる。 |
1910年(明治43年)7月13日 | 下甲板発令所拡張工事訓令。 |
1910年(明治43年)12月1日 | 第一艦隊に編入。 |
1910年(明治43年)12月24日 | 機関部改造訓令。 |
1911年(明治44年)4月7日 | 船体、無電改造訓令。 |
1912年(明治45年)1月21日 | 横須賀発。 北清方面警備。 |
1912年(明治45年)2月8日 | 佐世保着。 |
1912年(明治45年)3月19日 | 機関部総検査修理訓令。 |
1912年(明治45年)4月1日 | 第二予備艦となる。 |
1912年(明治45年)5月4日 | 水雷指揮通信装置装備訓令。 |
1912年(明治45年)8月9日 | 子砲装備訓令。 |
1912年(明治45年)8月19日 | 砲火指揮通信装置装備訓令。 |
1912年(大正元年)8月28日 | 巡洋戦艦に類別変更。 |
1912年(大正元年)10月12日 | 艦載水雷艇魚雷落射機換装訓令。 |
1912年(大正元年)12月1日 | 第一予備艦となる。 15cm砲装備位置変更。 |
1913年(大正2年)12月1日 | 第一艦隊に編入。 |
1914年(大正3年)2月12日 | 古仁屋発。 中国方面航海。 |
1914年(大正3年)2月18日 | 佐世保着。 |
1914年(大正3年)3月29日 | 機関部改造訓令。 |
1914年(大正3年)4月27日 | 火薬庫冷却装置新設訓令。 |
1914年(大正3年)8月10日 | 第二艦隊に編入。 |
1914年(大正3年)8月15日 | 第一艦隊第三戦隊として支那海警備。 |
1914年(大正3年)10月1日 | 第一南遣艦隊として、ドイツ領南洋諸島占領に従事。 |
1915年(大正4年)2月1日 | 第二予備艦となる。 |
1915年(大正4年)10月1日 | 第一予備艦となる。 |
1915年(大正4年)12月4日 | 横浜沖特別観艦式御召艦。 |
1915年(大正4年)12月13日 | 砲術学校練習艦となる。 |
1916年(大正5年)10月25日 | 横浜沖特別観艦式御召艦。 |
1916年(大正5年)11月7日 | 主砲および15cm砲全砲身換装訓令。 |
1917年(大正6年)1月14日 | 横須賀で停泊中、火薬庫の爆発により着底。 |
1917年(大正6年)1月20日 | 第三予備艦となる。 |
1917年(大正6年)5月1日 | 解体工事着手。 |
1917年(大正6年)9月1日 | 除籍。 |
1918年(大正7年)12月31日 | 解体工事完了。 |
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