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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

樅型
樅型駆逐艦

「栗」は樅型駆逐艦の4番艦である。

日露戦後の海軍国防方針は、アメリカを主敵とし、来攻するアメリカ艦隊を日本近海での迎撃決戦で撃破するというものであった。 このため航洋型駆逐艦として、1911年(明治44年)に排水量1,000トンを超える一等駆逐艦海風型が建造された。 しかしながら、予算上の制約で大型駆逐艦を多数建造できないため、同時に中型(二等)駆逐艦として桜型が建造され、引き続いて樺型、桃型、楢型が建造された。

1917年(大正6年)度予算(八四艦隊計画)および1918年(大正7年)度追加予算(八六艦隊計画)で建造された樅型は、同時期に建造された峯風型一等駆逐艦の小型版であった。 本型の艦型は、それまでの短い船首楼の後端に艦橋を設けた形式とは異なり、艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を防ごうとしたものであった。 また、二等駆逐艦として初めてオールギアードタービンを搭載し、缶も重油専焼缶とされた。 主砲は12cm砲単装3門とし、波浪の影響を避けるため上甲板より一段高い位置に装備した。 魚雷発射管は連装2基を前部のウエルデッキに1基、後部に1基を装備した。(1)

1944年(昭和19年)、「栗」は水雷艇「初雁」とともに、五代目 春風亭柳昇(本名:秋本 安雄)師匠が船舶警護分隊長として部下14名、九二式重機関銃3丁とともに乗船した輸送船「暁雲丸」を、上海から香港まで護衛している。(2)

艦名

艦名は植物名。 ブナ科の落葉高木。 果実は長い刺のある「いが」で包まれ、熟すれば裂開して内から果実を散出する。 果実は食用・菓子などにする。 木材は耐久・耐湿性が強く、家屋の土台、鉄道の枕木、などに用いる。(3) 三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが(高橋虫麻呂/万葉集)

要目(4)(5)

新造時
艦種二等駆逐艦
基準排水量 ※1770トン
常備排水量 ※1850トン
垂線間長83.82m
水線長85.34m
最大幅7.93m
喫水2.44m
主機三菱パーソンズ式オール・ギヤードタービン2基、2軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)3基
出力21,500馬力
速力36ノット
燃料重油:250トン
航続力14ノットで3,000浬
兵装45口径三年式12cm単装砲3基
6.5mm単装機銃2基
六年式53cm連装発射管2基
六年式魚雷8本
乗員107人
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(6)

年月日履歴
1918年(大正7年)1月24日栗と命名。
1919年(大正8年)12月5日起工。
1920年(大正9年)3月19日進水。
1920年(大正9年)4月30日竣工。 本籍を佐世保鎮守府と定める。 第二十六駆逐隊に編入。
1920年(大正9年)12月1日隊は連合艦隊第一艦隊第一水雷戦隊に編入。 佐世保鎮守府所属。
1921年(大正10年)8月19 日第二十六駆逐隊(以下「隊」)は佐世保発。 青島に向かう。 艦隊演習。 
1921年(大正10年)8月30日隊は有明湾に帰着。
1922年(大正11年)8月29日隊は呉発。  セントウラジミルに向かう。 演習航海。
1922年(大正11年)9月10日隊は小樽着。
1923年(大正12年)8月25日隊は横須賀発。 支那沿海に向かう。 演習航海。 
1923年(大正12年)9月4日隊は佐世保着。
1923年(大正12年)9月28日隊は東京湾着。 30日まで関東大震災の救援活動にあたる。 
1923年(大正12年)12月1日隊は第一水雷戦隊から除かれ、佐世保鎮守府所属に編入。 
1924年(大正13年)10月9日隊は館山沖発。 演習航海に向かう。 
1924年(大正13年)10月10日隊は佐世保着。
1925年(大正14年)12月1日隊は連合艦隊第一艦隊第一水雷戦隊に編入。 
1926年(大正15年)3月24日隊は佐世保発。 上海に向かう。 演習航海。 
1926年(大正15年)4月26日隊は寺島水道着。 
1927年(昭和2年)3月27日隊は佐伯発。 青島、芝罘を経て、旅順に向かう。 
1927年(昭和2年)4月7日隊は旅順着。 
1928年(昭和3年)3月29日隊は有明湾発。 舟山島を経て、基隆に向かう。 
1928年(昭和3年)4月2日隊は基隆着。 
1928年(昭和3年)4月7日隊は基隆発。 香港に向かう。 演習航海。 
1928年(昭和3年)4月15日隊は馬公着。 
1928年(昭和3年)5月9日隊は佐世保発。 演習航海。 
1928年(昭和3年)6月22日隊は佐世保に帰着。 
1928年(昭和3年)12月10日隊は第一水軍戦隊から除かれ、馬公要港部所属に編入。 
1928年(昭和3年)12月25日隊は佐世保発。 馬公に向かう。 
1928年(昭和3年)12月28日隊は馬公着。 
1929年(昭和4年)1月15日馬公発。 汕頭に向かう。 警備任務。
1929年(昭和4年)2月9日馬公に帰着。 
1929年(昭和4年)2月26日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1929年(昭和4年)3月5日馬公に帰着。 
1929年(昭和4年)4月11日馬公発。 広東に向かう。 警備任務。 
1929年(昭和4年)5月21日馬公に帰着。 
1929年(昭和4年)5月25日馬公発。 汕頭に向かう。 警備任務。
1929年(昭和4年)6月25日馬公に帰着。 
1929年(昭和4年)8月27日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1929年(昭和4年)9月6日馬公に帰着。 
1929年(昭和4年)12月10日馬公発。 広東に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)1月24日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)2月28日馬公発。 履門に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)3月18日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)3月25日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)4月6日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)4月28日馬公発。 履門に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)5月9日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)6月24日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)7月13日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)8月25日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)9月2日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)10月30日馬公発。 福州に向かう。 警備任務。 
1930年(昭和5年)11月8日馬公に帰着。 
1930年(昭和5年)12月11日隊は基隆発。 佐世保に向かう。 
1930年(昭和5年)12月14日隊は佐世保に帰着。 
1930年(昭和5年)12月15日隊は馬公要港部所属から除かれ、佐世保鎮守府所属に編入。 
1932年(昭和7年)1月29日佐世保発。 上海に向かう。 上海事変の勃発による輸送任務。 
1932年(昭和7年)2月9日佐世保着。 補給、待機。
1932年(昭和7年)1月29日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)2月15日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)2月21日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)2月24日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)2月29日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月4日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)3月17日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月21日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)3月30日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月4.4日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)3月4.11日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月4.15日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)3月4.25日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月4.29日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)3月5.18日佐世保発。 上海に向かう。 
1932年(昭和7年)3月5.22日佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)8月6日隊は第二達外艦隊司令官の指揮下に入り、北支派遣を下令される。 隊は佐世保発。 仁川に向かう。
1932年(昭和7年)8月7日仁川着。 
1932年(昭和7年)8月8日仁川発。 栄口に向かう。 警備行動。 
1932年(昭和7年)8月17日旅順に帰着。 
1932年(昭和7年)8月19日旅順発。 栄口に向かう。 警備行動。 
1932年(昭和7年)9月8日旅順に帰着。 
1932年(昭和7年)9月17日旅順発。 栄口に向かう。 警備行動。 
1932年(昭和7年)9月22日旅順に帰着。 
1932年(昭和7年)9月23日旅順発。 青島に向かう。 警備行動。 
1932年(昭和7年)9月24日青島着。 
1932年(昭和7年)10月5日青島発。 旅順に向かう。 警備行動。 
1932年(昭和7年)10月7日旅順に帰着。 補給ののち、栄口に向かう。 警備行動。
1932年(昭和7年)10月12日旅順に帰着。 
1932年(昭和7年)10月15日隊は第二遣外艦隊司令官の指揮を解かれ、内地に帰投を下令される。 隊は旅順発。 佐世保に向かう。 
1932年(昭和7年)10月17日隊は佐世保に帰着。 
1932年(昭和7年)12月17日隊は基隆発。 東犬島に向かう。 
1932年(昭和7年)12月22日馬公着。 補給、待機。 
1933年(昭和8年)11月15日第三艦隊第十一戦隊に編入。 佐世保発。 上海に向かう。 中支方面に警備行動。 
1934年(昭和9年)3月22日馬公着。 補給、待機。 
1934年(昭和9年)4月7日馬公発。 上海に向かう。 警備行動。 
1934年(昭和9年)4月10日上海着。 
1934年(昭和9年)7月上海発。 北支方面に向かう。 
1934年(昭和9年)8月2日旅順着。 
1934年(昭和9年)8月16日大連発。 上海に向かう。 
1934年(昭和9年)8月18日上海着。 
1934年(昭和9年)8月上海発。 南支方面に向かう。 警備行動。 
1934年(昭和9年)9月20日馬公着。 補給、待機。 
1934年(昭和9年)10月8日高雄発。 上海に向かう。 
1934年(昭和9年)10月11日上海着。 
1934年(昭和9年)11月10日上海発。 佐世保に向かう。 
1934年(昭和9年)11月12日佐世保に帰着。 
1934年(昭和9年)11月15日第二十六駆逐隊から除かれ、第三艦隊第十一戦隊に編入。 
1934年(昭和9年)12月1日佐世保発。 上海に向かう。 
1934年(昭和9年)12月3日上海着。 以後、中支、南支方面に行動。 
1935年(昭和10年)8月23日馬公着。 補給、待機。 
1935年(昭和10年)9月6日馬公発。 上海に向かう。 
1935年(昭和10年)9月9日上海着。 
1936年(昭和11年)8月29日佐世保着。 整備休養。 
1936年(昭和11年)9月25日馬公発。 上海に向かう。 
1936年(昭和11年)9月28日上海着。 以後、警備行動。
1936年(昭和11年)11月15日第三艦隊長江警備隊に部署され、第三艦隊司令長官、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、揚子江流域の警備を下命される。 
1937年(昭和12年)4月20日「栂」と、南京上流5浬付近を航行中、中国空軍機の爆撃を受ける。 
1937年(昭和12年)7月7日支那事変の勃発により、警戒態勢に入る。 
1937年(昭和12年)7月19日監視哨戒および調査の目的で、20日から24日まで、呉淞、七了口、滸浦口、江陰、鎮江、九段沙方面を行動し、呉淞沖に警泊を下令される。 
1937年(昭和12年)7月20日上海発。 既令任務に向かう。 
1937年(昭和12年)7月28日中支部隊に部署され、第三艦隊司令長官の指揮下に入り、揚子江流域各地において、警戒監視を下命される。 上海発。 漢口に向かう。 
1937年(昭和12年)7月30日第十一戦隊司令官の直率下に、漢口着。 警泊、待機。 
1937年(昭和12年)8月8日0:45、漢口発。 上海に向かう。 
1937年(昭和12年)8月9日13:00上海着。 補給待機。 
1937年(昭和12年)8月11日中支部隊第一警戒部隊第二警戒隊に部署され、第十一戦隊司令官、砲艦「勢多」艦長の指挿下に入り、呉淞‐通州間の哨戒を下令される。 
1937年(昭和12年)8月14日15日まで、黄浦江下流左岸一帯の敵部隊と交戦。 
1937年(昭和12年)8月17日浦東側に係留。 終日、付近の敵部隊と交戦。 
1937年(昭和12年)8月21日戦隊は中支部隊上流警戒部隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、呉淞上流の警戒、航路浮標の監視を下令される。 
1937年(昭和12年)8月23日劉河鎮沖着。 来襲する敵機と度々交戦。 
1937年(昭和12年)10月3日A作戦部隊第二掩護隊に部署され、第八戦隊司令官の指挿下に入り、七了口方面の陽動牽制を下令される。 
1937年(昭和12年)10月10日部隊と、以後、13日まで、陽動牽制に当たる。 
1937年(昭和12年)10月14日第十一戦隊(以下「戦隊」)は中支部隊第一警戒部隊に部署され、第十一戦隊司令官の指挿下に入り、揚子江方面の警戒を下令される。 
1937年(昭和12年)10月20日第三艦隊は、支那方面艦隊に編入。 中支部隊指揮官は、支那方面艦隊司令長官となる。
1937年(昭和12年)11月7日中支部隊第一警戒部隊第一護衛隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、黄浦江の啓開を下令される。 
1937年(昭和12年)11月10日捕獲員を砲艇「小鷹」で派遣。 中国砲艦「中和」を捕獲。 閉塞線下流の掩護に当たる。 
1937年(昭和12年)11月12日陸戦隊を南市に派遣、閉塞線付近の敵舟艇を抑留。16日まで。 
1937年(昭和12年)11月20日第一警戒部隊と、黄浦江の啓開と、浦東作戦を終わる。 戦隊は中支部隊第一警戒部隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、黄浦江方面に配備を下令される。 
1937年(昭和12年)12月1日第一警戒部隊前路警戒隊掩護隊に部署され、敷設艦「八重山」艦長の指揮下に入り、遡江啓開の掩護を下令される。 
1937年(昭和12年)12月4日陸戦隊を巫山砲台付近に揚陸、掃蕩に当たる。 
1937年(昭和12年)12月7日第一警戒部隊下流警戒隊に部署され、砲艦「嵯峨」艦長の指揮下に入り、揚子江下流の警戒を下命される。
1937年(昭和12年)12月8日ビックツリー方面の警戒に当たる。 
1937年(昭和12年)12月23日戦隊は中支部隊第一警戒部隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、クロッシングより上流の警戒を下令される。
1938年(昭和13年)5月戦隊は揚子江部隊(以下「部隊」)に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、漢口方面攻略作戦の支援を下令される。 
1938年(昭和13年)5月28日部隊と、安慶攻略作戦に当たる。 
1938年(昭和13年)6月13日安慶攻略作戦終了。 
1938年(昭和13年)6月14日戦隊は揚子江部隊護衛隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、九江攻略作戦の支援を下令される。 
1938年(昭和13年)6月16日部隊と、遡江作戦(V作戦)を開始。 
1938年(昭和13年)7月25日部隊と、九江に突入、警戒に当たる。 
1938年(昭和13年)7月28日V作戦終了。 
1938年(昭和13年)8月22日部隊と、漢口攻略作戦を開始。 
1938年(昭和13年)10月26日部隊と漢口攻略作戦を終わり、引き続き、岳州攻略作戦を支援。 
1938年(昭和13年)11月14日部隊と、岳州攻略作戦を終わる。 
1938年(昭和13年)11月15日戦隊は中支部隊揚子江部隊に部署され、第十一戦隊司令官の指揮下に入り、揚子江流域の警戒を下令される。 
1939年(昭和14年)11月15日第十一戦隊から除かれ、第十三戦隊に編入。 支那方面艦隊附属。 
1940年(昭和15年)9月11日基隆着。 補給、待機。 
1940年(昭和15年)9月15日北仏印進駐作戦に関連し、南支方面に行動。 
1940年(昭和15年)10月23日基隆着。 補給、待機。 
1940年(昭和15年)10月27日基隆発。 南支方面に行動。
1940年(昭和15年)11月15日第十三戦隊は解隊。 上海方面根拠地隊に編入。 支那方面艦隊附属。
1941年(昭和16年)11月15日支那方面艦隊上海方面部隊に部署され、上海方面根拠地隊司令官の指揮下に入り、中支方面沿岸の警戒を下令される。 
1941年(昭和16年)12月8日対米英開戦。 沿岸の替戒に当たる。 
1941年(昭和16年)12月15日上海着。 補給、待機。 
1941年(昭和16年)12月17日上海発。 沿岸の警戒に当たる。 
1941年(昭和16年)12月29日上海に帰着。 補給、待機。 
1941年(昭和16年)12月31日上海発。 沿岸の警戒。 
1942年(昭和17年)1月12日上海に帰着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)1月29日上海発。 沿岸の警戒。 
1942年(昭和17年)2月16日上海に帰着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)2月21日上海発。 ルソン島スビック湾に向かう。
1942年(昭和17年)2月25日第三南遣艦隊司令長官の指揮下に入る。 比島部隊比島西部隊第一掃海部隊に部署され、第三南遣艦隊司令長官第三十一特別根拠地隊司令官の指揮下に、マニラ湾等掃海を下令される。 
1942年(昭和17年)5月10日第三南遣艦隊司令長官の指揮を解かれ、原隊に復帰を下令される。 マニラ発。 上海に向かう。 
1942年(昭和17年)5月15日上海着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)5月25日上海発。 沿岸の警戒。 
1942年(昭和17年)6月6日上海帰着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)7月21日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1942年(昭和17年)9月17日上海着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)9月21日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1942年(昭和17年)10月22日上海着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)10月26日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1942年(昭和17年)11月15日上海着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)11月17日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1942年(昭和17年)11月20日上海着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)11月25日上海発。 馬公に向かう。 
1942年(昭和17年)11月27日馬公着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)11月29日馬公発。 呉淞に向かう。 
1942年(昭和17年)11月30日呉淞着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)12月21日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)1月15日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)1月20日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)2月19日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)2月23日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)3月22日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)3月31日呉淞発。 佐世保に向かう。 護衛任務。 
1943年(昭和18年)4月3日佐世保着。 補給待機。 
1943年(昭和18年)4月5日佐世保発。 上海に向かう。 
1943年(昭和18年)4月7日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)4月9日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)4月20日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)4月24日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)5月19日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)5月24日上海発。 沿岸の警戒に向かう。 
1943年(昭和18年)6月5日上海着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)6月9日上海発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1943年(昭和18年)6月24日船団を護衛中、馬公付近において、「芝罘丸」と触衝、艦体を損傷して、航行不能となり、「蓮」に曳航されて、上海に向かう。 
1943年(昭和18年)6月30日上海着。 以後、江南造船所に入渠、修理に当たる。 
1943年(昭和18年)9月7日江南造船所発。 試験航準で沿岸に出動。 
1943年(昭和18年)9月8日江南に帰着。 
1943年(昭和18年)9月13日上海発。 沿岸の警戒に向う。 
1943年(昭和18年)9月15日呉淞に帰着。 待機。 
1943年(昭和18年)9月19日上海発。 馬公に向かう。 
1943年(昭和18年)9月22日馬公着。 補給、待機。 
1943年(昭和18年)9月24日馬公発。 上海に向かう。 
1943年(昭和18年)9月28日上海に帰着。 
1943年(昭和18年)9月29日江南に回航。 以後、江南造船所に入渠、修理に当たる。 
1944年(昭和19年)1月出渠。 上海において、整備待機。 
1944年(昭和19年)2月1日黒牛湾発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)2月17日基降着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)2月22日基隆発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)3月16日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)3月21日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)3月31日上海着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)4月2日上海発。 高雄に向かう。 護衛任務。 
1944年(昭和19年)4月5日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)4月7日高雄発。 基隆に向かう。 護衛任務。 
1944年(昭和19年)4月8日基降着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)4月10日基隆発。 上海に向かう。 
1944年(昭和19年)4月11日上海着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)4月17日竹船団に編入され、第六護衛船団司令官の指揮下に入る。 上海発。 四礁山泊地に向かい、船団と合同、待機。 
1944年(昭和19年)4月21日四礁山泊地発。 マニラに向かう。 
1944年(昭和19年)4月28日船団とマニラ着。 解列、補給、待機。 
1944年(昭和19年)5月6日マニラ発。 基隆に向かう。 
1944年(昭和19年)5月8日基降着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)5月11日基隆発。 上海に向かう。 護衛任務。 
1944年(昭和19年)5月14日上海着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)6月15日上海発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)6月24日第91船団4隻の護衛に加入、香港に向かう。 
1944年(昭和19年)7月5日船団と九龍着。
1944年(昭和19年)7月上旬九龍発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)8月4日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)8月17日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)8月25日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)9月15日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)9月25日馬公着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)10月7日馬公発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)10月30日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)11月4日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)11月22日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)11月24日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)11月30日高雄着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)12月2日高雄発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1944年(昭和19年)12月21日基降着。 補給、待機。 
1944年(昭和19年)12月25日基降発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1945年(昭和20年)1月10.日基降着。 補給、待機。 
1945年(昭和20年)1月22日基降発。 沿岸警戒、護衛任務。 
1945年(昭和20年)1月27日南号作戦に協力を下令される。
1945年(昭和20年)1月31日江南着。 補給、待機。 
1945年(昭和20年)2月5日江南発。 南号作戦輸送部隊の間接護衛。 
1945年(昭和20年)6月25日青島着。 補給、待機。 南号作戦協力後、北支沿岸の護衛任務に従事。 
1945年(昭和20年)8月15日青島において終戦。 
1945年(昭和20年)8月21日アメリカ軍に降伏、武装解除。 駆逐艦「蓮」、第二十一駆潜隊と青島発。 アメリカ軍の監視下に、仁川を経て、鎮海に向かう。
1945年(昭和20年)8月29日鎮海着。 弾薬の海中投棄などの作業に従事。 
1945年(昭和20年)10月4日「蓮」とともに、鎮海から釜山に回航。 
1945年(昭和20年)10月5日釜山港内の掃海海面をアメリカ軍の指示で、確認運行中に触雷。 鵜ノ瀬灯台の355度350mにおいて沈没。 
1945年(昭和20年)10月25日除籍。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. 日本駆逐艦史.東京,海人社,1992,p38〜56,世界の艦船.No453 1991/7増刊号 増刊第34集
  2. 春風亭柳昇.与太郎戦記.東京,筑摩書房,2005,p187〜258,ちくま文庫(ISBN4-480-42069-X)
  3. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  4. 前掲.日本駆逐艦史.p56
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p51
  6. 渡辺博史.護衛部隊の艦艇(一)駆逐艦一.自家本,2012.P1-7