伊号第五十二(百五十二)潜水艦は海大二型(伊五十二→百五十二型)潜水艦の1番艦である。
日本海軍は明治末年以来、外国からの技術導入により潜水艦を建造してきたが、大正5年度計画で、日本海軍は自ら設計した潜水艦の建造に着手する。 これが海中型で、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の潜水艦として建造したが、用兵側の要求を満足するものではなかった。 海中型の艦隊随伴用潜水艦としての限界を感じた日本海軍は大正7年度までで海中型の建造を打ち切り、大型潜水艦の建造に移行していった。
大正7年(1918年)度計画の八六艦隊計画で海大型潜水艦として最初に建造された海大一型の伊号第五十一潜水艦は、水上速力20ノットを要求されたため、スイスのスルザー(Sulzer)社に3,000馬力ディーゼルの製作を依頼したが、製造が間に合わないため、単機出力1,300馬力のスルザー式2号ディーゼルを4基搭載、推進器は4軸とした。 そのために内殻は直径4.5mの内筒を眼鏡型に並べた特異な形となった。 実際の水上速力は18.4ノットにとどまったが、航続力は10ノットで20、000浬に達し、後の巡潜型と海大型の性能を兼ねる性能を持っていた。 兵装は45口径三年式12cm単装砲1基、魚雷発射管は十年式52cm発射管8門(艦首6門、艦尾2門)を装備、魚雷は六年式24本を搭載していた。
伊号第五十二潜水艦は、大正七年(1918年)度計画で海大一型である伊号第五十一潜水艦と同時に計画されたが、約10ヶ月遅れで起工された。 主機としてスイスのスルザー(Sulzer)社に発注していた三号ディーゼル機関(3,400馬力)が完成したため、これを2基搭載して、水上速力22ノットとして計画された。 このため船殻構造は円筒形となり、高速性に対処して船体の長さに対する幅も小さくとられ、艦型は伊号第五十一潜水艦とは異なったものとなっている。
公試では水上速力21.5ノットを記録したが、試作段階にあった大出力ディーゼル機関は故障が多く、実用上は19.5ノットが限界であった。 航続力は燃料搭載量が約半分の285トンとなったため、10ノットで10,000浬と半減されている。 海大一型に比べて航続力を短縮して水上速力の増大を極力図り、海大型の基礎となった潜水艦といえる。 兵装は12cm砲と8cm高角砲1門を装備していたといわれている。 魚雷発射管は十年式53cm発射管8門(艦首6門、艦尾2門)を装備し海大一型と同じであるが、魚雷搭載数は16本に減少している。(1)(2)
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 海大二型(伊五十二型) |
水上排水量 ※1 | 1,390トン(基準)/1,500トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 2,500トン |
垂線間長 | 94.80m |
全長 | 100.85m |
最大幅 | 7.64m |
喫水 | 5.14m |
主機 | スルザー式三号ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 閉鎖通風型4基 |
蓄電池 | |
出力 | 6,000馬力(水上)/2,000馬力(水中) |
速力 | 20.1ノット(水上)/7.7ノット(水中) |
燃料 | 重油:230トン |
航続力 | 10ノットで10,000浬(水上)/4ノットで100浬(水中) |
乗員 | 58名 |
兵装 | 45口径三年式12cm単装砲1基 十年式53cm魚雷発射管8門(艦首6門、艦尾2門) 六年式魚雷16本 |
安全潜航深度 | 45.7m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1920年(大正9年)11月12日 | 第五十一潜水艦と命名。 |
1922年(大正11年)2月13日 | 起工。 |
1922年(大正11年)6月12日 | 進水。 |
1924年(大正13年)11月1日 | 伊号第五十二潜水艦と改名。 |
1925年(大正14年)5月20日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1925年(大正14年)7月10日 | 第二艦隊に編入。 |
1925年(大正14年)12月1日 | 第二艦隊第二潜水戦隊十七潜水隊に編入。 |
1926年(大正15年)3月27日〜4月9日 | 戦隊と内海西部から青島、威海衛を凍て、旅順着。 |
1927年(昭和2年)3月27日〜4月5日 | 佐伯湾から廈門を経て、馬公着。 |
1927年(昭和2年)5月10日〜6月21日 | 徳山から南洋方面に向かい、横須賀着。 |
1928年(昭和3年)12月1日 | 第十七潜水隊は第二潜水戦隊から除かれる。 |
1929年(昭和4年)11月30日 | 第十七潜水隊は呉防備隊に編入。 |
1930年(昭和5年)12月1日 | 第十七潜水隊は呉防備隊から除かれる。 |
1932年(昭和7年)4月1日 | 第十七潜水隊は呉防備隊に編入。 |
1933年(昭和8年)1月1日 | 第十七潜水隊は呉防備隊から除かれる。 |
1933年(昭和8年)8月11日〜21日 | 館山から南洋方面に向かい木更津沖着。 |
1935年(昭和10年)11月15日 | 第十七潜水隊は解隊。 |
1938年(昭和13年)12月15日 | 警備兼練習潜水艦となる。 |
1939年(昭和14年)12月1日 | 呉鏡守府から舞鶴鏡守府に移籍。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 警備兼練習潜水艦を警備潜水艦に改める。 |
1941年(昭和16年)5月1日〜6月15日 | 大湊からカムチャッカ方面に向かい、大湊着。 |
1941年(昭和16年)8月10日 | 警備潜水艦を練習潜水艦に改める。 大湊要港部所属から呉鏡守府所属となる。 |
1942年(昭和17年)5月20日 | 伊号第百五十二潜水艦と改名。 |
1942年(昭和17年)8月1日 | 除籍。 廃潜水艦第十四号と改名。 |
1946年(昭和21年) | 播磨造船所で解体。 |
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