本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

隼型
隼型水雷艇

「鴿」は隼型水雷艇の7番艦である。

本型はフランスのノルマン社(Normand Shipyard)が設計した「シクローヌ(Cyclone)」級水雷艇を原型としている。 ドイツのシーシャウ社(Schichau-Werke)の設計による「白鷹」との比較の結果、量産されたという説もある。 明治29年(1896年)度計画によりノルマン社に4隻を発注、明治30年(1897年)度計画より11隻を国内で建造した。 機関出力が計画値に達せず31.54ノットを記録した原型に対し、28.5ノットに留まった。 45cm魚雷発射管3基の装備は同時期の駆逐艦を凌ぐものであったが、1番発射管は配置の関係から右舷のみ発射可能であった。

1903年(明治36年)10月22日に竣工した「鴿」は、日露戦争で旅順港封鎖、戦艦「セヴァストーポリ(Севастополь)」襲撃、樺太攻略戦に参加した。 1922年(大正11年)4月1日に除籍後、曳船兼交通船に指定され、舞鶴工廠所属となり、1926年(大正15年)7月10日に廃船となった。

水雷艇から主力艦を守るための水雷艇駆逐艦(後の駆逐艦)の発展により水雷艇の有効性は失われ、さらに駆逐艦が水雷艇の役割を兼ねるようになり、日本では本型が最後の水雷艇となった。 なお、昭和期に復活した水雷艇(千鳥型水雷艇など)は事実上の小型駆逐艦であり、本型の後継ではない。(1)(2)

艦名

艦名は鳥の名。 鴿/鳩(ハト)はハト目ハト科の鳥の総称。 漢字で「鴿」と表記した場合はカワラバトを家禽化したイエバト(ドバト)をさす場合もある。 公園などで見かける群れは、ドバトやキジバトである。(3)(4)

要目(1)(5)

新造時
艦種一等水雷艇
常備排水量 ※1152トン
垂線間長45.00m
最大幅4.90m
喫水1.45m
主機直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械2基、2軸
主缶ノルマン式水管缶(石炭専焼)2基
出力4,200馬力
速力28.5ノット
燃料石炭:28.5トン(満載)
航続力10ノットで2,000浬
兵装保式47mm単装軽速射砲3基
45cm単装水上発射管旋回式3基
乗員30人
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(2)(6)(7)(8)

年月日履歴
1902年(明治35年)5月22日起工。
1903年(明治36年)8月22日進水。
1903年(明治36年)5月4日「雁」、「蒼鷹」、「鴿」、「燕」で佐世保水雷団第四水雷艇隊を編制。
1903年(明治36年)9月14日佐世保水雷団第四水雷艇隊は佐世保水雷団第九水雷艇隊となる。
1903年(明治36年)10月12日公試終了。 結果良好。
1903年(明治36年)10月22日竣工。 一等水雷艇に類別。
1903年(明治36年)10月31日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)12月1日警備艇となる。
1904年(明治37年)1月5日佐世保発。 長崎着。
1904年(明治37年)1月6日第九水雷艇隊は第二艦隊に編入。 三菱造船所で上架。
1904年(明治37年)1月8日降架。 長崎発。 佐世保着。
1904年(明治37年)2月7日第九水雷艇隊は第一集合地点で炭水補充の後、韓国南岸シングル水道に向かう。 午後、第四戦隊と合流。 午後4時、仁川港外ベーカー島に向かう。
1904年(明治37年)2月25日〜3月4日牙山湾警備。
1904年(明治37年)3月4日〜18日仁川湾口警戒。
1904年(明治37年)3月27日第二次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)4月15日旅順湾口探照灯位置測定。 第二次旅順港間接射撃。
1904年(明治37年)4月18日〜26日修理のため一時佐世保へ帰港。
1904年(明治37年)4月27日修理完了。 第二集合地点へ向け、佐世保発。
1904年(明治37年)5月3日第三次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)5月6日〜6月18日旅順港封鎖。
1904年(明治37年)6月19日第九水雷艇隊は第二艦隊に復帰。
1904年(明治37年)9月6日竹敷発。 第三地点へ。
1904年(明治37年)9月7日第九水雷艇隊は第一艦隊に臨時編入。
1904年(明治37年)9月13日〜12月8日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)12月9日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь)」襲撃。
1904年(明治37年)12月15日戦艦「セバストーポリ」再襲撃。
1904年(明治37年)12月26日修理のため小平島発。 佐世保に回航 (雁は後れて回航)。
1905年(明治38年)4月10日臨時第一艦隊に直属。 教育訓練、鎮海湾口警戒。
1905年(明治38年)4月18日第二艦隊に復帰。
1905年(明治38年)6月17日第三艦隊に編入。
1905年(明治38年)6月21日北遣艦隊に編入。 鎮海湾発。
1905年(明治38年)6月27日大湊着。 北海方面作戦に従事。
1905年(明治38年)7月2日樺太南部占領軍先発隊として、大湊発。
1905年(明治38年)7月9日メレヤ村沖上陸地点強行掃海。
1905年(明治38年)7月10日近藤岬(ノトロ岬)占領。
1905年(明治38年)7月12日コルサコフ泊地一帯掃海。
1905年(明治38年)7月7日〜20日コルサコフで警戒および通信に従事。
1905年(明治38年)7月21日樺太北部占領軍先発隊として、稚内発。
1905年(明治38年)7月23日黒龍沿岸州カストリーぺ威嚇射撃および偵察。
1905年(明治38年)7月24日アレクサンドロフスキー付近揚陸地点掃海。
1905年(明治38年)7月25日アレクサンドロフスキー泊地一帯掃海。
1905年(明治38年)7月24日〜8月2日アレクサンドロフスキー港で警備および通信に従事。
1905年(明治38年)8月2日アレクサンドロフスキー発。
1905年(明治38年)8月15日〜9月22日津軽海峡哨戒任務の傍ら掃海実験に従事。
1905年(明治38年)9月22日哨戒を撤し横須賀へ向け大湊着。
1905年(明治38年)9月26日横須賀着。
1905年(明治38年)10月23日凱旋観艦式参加。
1905年(明治38年)11月4日第三艦隊付属を解かれる。 警備艇となる。
1905年(明治38年)11月11日神戸着。
1905年(明治38年)11月12日神戸発。 高砂着。
1905年(明治38年)11月13日高砂発。 多度津着。
1905年(明治38年)11月14日多度津発。 呉着。
1905年(明治38年)11月16日厳島着。
1905年(明治38年)11月17日厳島発。 長府着。
1905年(明治38年)11月18日長府発。 博多着。
1905年(明治38年)11月20日唐津着。
1905年(明治38年)11月21日唐津発。
1905年(明治38年)11月22日佐世保着。
1905年(明治38年)12月12日第九水雷艇隊は第九艇隊となる。
1906年(明治39年)2月15日竹敷発。 前方着。
1906年(明治39年)2月16日前方発。 文島着。
1906年(明治39年)2月17日文島発。 木浦着。
1906年(明治39年)2月19日木浦発。
1906年(明治39年)2月22日馬山浦着。
1906年(明治39年)2月23日馬山浦発。 釜山着。
1906年(明治39年)2月25日悪天候のため、釜山出港取止め。
1906年(明治39年)2月26日釜山発。 蔚山へ。 悪天候のため、引返す。
1906年(明治39年)2月27日釜山発。 竹敷着。
1906年(明治39年)2月28日竹敷発。 佐世保着。
1906年(明治39年)3月12日第二船渠に入る。
1906年(明治39年)3月23日出渠。
1906年(明治39年)3月25日佐世保発。 長府着。
1906年(明治39年)3月26日呉着。
1906年(明治39年)3月28日呉発。 宮島着。
1906年(明治39年)3月29日厳島発。 徳山着。
1906年(明治39年)3月30日徳山発。 博多へ。 豊浦着。
1906年(明治39年)3月31日佐世保着。
1906年(明治39年)4月1日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)4月12日大村着。
1906年(明治39年)4月13日大村発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月1日警備艇となる。
1906年(明治39年)6月6日島原(?)着。
1906年(明治39年)6月8日待山口(?)発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月11日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)6月12日竹敷発。 鎮海へ。
1906年(明治39年)6月13日松真着。
1906年(明治39年)6月14日松真発。 釜山へ。 釜山着。
1906年(明治39年)6月15日釜山発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月23日佐世保着。
1906年(明治39年)6月26日佐世保発。
1906年(明治39年)6月29日佐世保着。
1906年(明治39年)7月10日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)10月6日警備艇となる。
1906年(明治39年)12月12日竹敷発。 薄香湾へ。 田助着。
1906年(明治39年)12月13日田助発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)12月15日佐世保発。
1907年(明治40年)4月15日佐世保発。 旅順へ。
1907年(明治40年)4月16日旅順着。
1907年(明治40年)4月21日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)4月23日大連発。 旅順着。
1907年(明治40年)4月25日旅順発。 裏長山列島へ。
1907年(明治40年)4月28日龍厳浦着。
1907年(明治40年)4月29日龍厳浦発。 旅順へ。
1907年(明治40年)5月1日旅順着。
1907年(明治40年)5月3日旅順発。
1907年(明治40年)5月4日営口着。
1907年(明治40年)5月7日営口発。 旅順へ。
1907年(明治40年)5月8日旅順着。
1907年(明治40年)5月20日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)5月23日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)5月28日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)6月3日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)6月11日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)6月14日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)6月19日旅順発。
1907年(明治40年)6月20日旅順着。
1907年(明治40年)6月21日旅順発。
1907年(明治40年)6月24日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)6月25日船底塗装のため入渠。
1907年(明治40年)6月29日出渠。
1907年(明治40年)7月7日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)7月13日旅順発。 芝罘着。
1907年(明治40年)7月16日芝罘発。 旅順へ。
1907年(明治40年)7月23日旅順着。
1907年(明治40年)7月27日旅順発。
1907年(明治40年)7月28日大連着。
1907年(明治40年)7月31日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)8月8日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)8月11日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)8月16日旅順発。
1907年(明治40年)8月19日旅順着。
1907年(明治40年)8月24日旅順発。 同日、旅順着。
1907年(明治40年)8月26日旅順発。
1907年(明治40年)8月28日旅順着。
1907年(明治40年)8月30日旅順発。
1907年(明治40年)8月31日旅順着。
1907年(明治40年)9月5日旅順発。 同日、旅順着。
1907年(明治40年)9月10日旅順発。 同日、旅順着。
1907年(明治40年)9月21日旅順着。
1907年(明治40年)9月22日旅順発。 大連着。
1907年(明治40年)9月24日大連発。 海洋島へ。
1907年(明治40年)9月25日鎮南浦着。
1907年(明治40年)9月28日鎮南浦発。 大連へ。
1907年(明治40年)9月29日大連着。
1907年(明治40年)9月30日大連発。 旅順へ。 旅順着。
1907年(明治40年)10月3日旅順発。
1907年(明治40年)10月6日旅順着。
1907年(明治40年)10月7日旅順発。
1907年(明治40年)10月8日旅順着。
1907年(明治40年)10月17日旅順発。
1907年(明治40年)10月18日仁川着。
1907年(明治40年)10月19日仁川発。 木浦へ。
1907年(明治40年)10月20日木浦着。
1907年(明治40年)10月24日松真着。
1907年(明治40年)10月30日松真発。 佐世保へ。
1907年(明治40年)10月31日佐世保着。
1907年(明治40年)11月14日小演習のため佐世保発。
1922年(大正11年)4月1日除籍。 同日、雑役船に編入、曳船兼交通船に指定、舞鶴工廠所属となる。
1926年(大正15年)7月10日廃船。
1927年(昭和2年)8月10日売却。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. ab日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p122,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  2. ab福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p27
  3. 世界大百科事典 第2版
  4. 真木広造監修.野鳥.東京,永岡書店,2016,p30.(ISBN978-4-522-31148-6)
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p54
  6. 艦船行動簿.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C10100047300〜C10100054500,(防衛省防衛研究所)
  7. 極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻1〜巻7.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C05110040500〜C05110054800,(防衛省防衛研究所)
  8. 水雷艇略歴完(2).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C09050695700(第1〜4画像目).水雷艇略歴 明治37〜38,(防衛省防衛研究所)