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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

隼型
隼型水雷艇

「鵲」は隼型水雷艇の2番艦である。

本型はフランスのノルマン社(Normand Shipyard)が設計した「シクローヌ(Cyclone)」級水雷艇を原型としている。 ドイツのシーシャウ社(Schichau-Werke)の設計による「白鷹」との比較の結果、量産されたという説もある。 明治29年(1896年)度計画によりノルマン社に4隻を発注、明治30年(1897年)度計画より11隻を国内で建造した。 機関出力が計画値に達せず31.54ノットを記録した原型に対し、28.5ノットに留まった。 45cm魚雷発射管3基の装備は同時期の駆逐艦を凌ぐものであったが、1番発射管は配置の関係から右舷のみ発射可能であった。

1900年(明治33年)11月30日に竣工した「鵲」は、日露戦争で旅順港封鎖、黄海海戦、戦艦「セヴァストーポリ(Севастополь)」襲撃、日本海海戦に参加した。 1919年(大正8年)4月1日に除籍後、曳船兼交通船に指定され「鵲丸」と改名、佐世保工廠所属となり、1925年(大正14年)12月17日に廃船となった。

水雷艇から主力艦を守るための水雷艇駆逐艦(後の駆逐艦)の発展により水雷艇の有効性は失われ、さらに駆逐艦が水雷艇の役割を兼ねるようになり、日本では本型が最後の水雷艇となった。 なお、昭和期に復活した水雷艇(千鳥型水雷艇など)は事実上の小型駆逐艦であり、本型の後継ではない。(1)(2)

艦名

艦名は鳥の名。 鵲(カササギ)はスズメ目カラス科の鳥。 佐賀平野を中心に北九州に分布する。 日本には16世紀の朝鮮出兵時に朝鮮半島から人為的に移植されたとの説がある。 カササギ生息地は、1923年(大正12年)3月7日に国の天然記念物に指定されている。(3)(4)(5)

要目(1)(6)

艦種一等水雷艇
常備排水量 ※1152トン
垂線間長45.00m
最大幅4.90m
喫水1.45m
主機直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械2基、2軸
主缶ノルマン式水管缶(石炭専焼)2基
出力4,200馬力
速力28.5ノット
燃料石炭:28.5トン(満載)
航続力10ノットで2,000浬
兵装保式47mm単装軽速射砲3基
45cm単装水上発射管旋回式3基
乗員30人
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(2)(7)(8)(9)

年月日履歴
1899年(明治32年)12月26日起工。 フランスのノルマン(Normand Shipyard)社で建造、呉造船廠で組立。
1900年(明治33年)6月30日進水。
1900年(明治33年)11月30日竣工。 一等水雷艇に類別。
1900年(明治33年)8月28日第一船渠に入渠。
1900年(明治33年)8月31日第一船渠を出渠。
1900年(明治33年)10月15日公試終了。 成績良好。
1900年(明治33年)11月21日塗装のため第一船渠に入渠。 在渠日数2日の予定。
1900年(明治33年)11月24日出渠
1900年(明治33年)12月6日「隼」、「白鷹」、「鵲」、「真鶴」、「千鳥」で竹敷要港部第一水雷艇隊を編制。
1900年(明治33年)12月13日呉発。 ?
1900年(明治33年)12月14日
1900年(明治33年)12月15日長府着。 風凪次第竹敷へ。
1900年(明治33年)12月17日竹敷着。
1900年(明治33年)12月25日佐世保着。
1900年(明治33年)12月28日佐世保発。 福岡着。
1901年(明治34年)1月4日福岡発。 竹敷へ。 天候不良のため郷ノ浦
1901年(明治34年)1月7日竹敷着。
1901年(明治34年)4月13日佐世保着。
1901年(明治34年)4月18日福岡着。
1901年(明治34年)4月22日竹敷着。
1901年(明治34年)5月2日竹敷着。
1901年(明治34年)5月19日竹敷発。 佐世保着。
1901年(明治34年)5月22日長崎で乗架。 28日降架予定。
1901年(明治34年)5月27日降架。
1901年(明治34年)6月12日平戸着。 明朝、佐世保へ。
1901年(明治34年)6月17日佐世保発。
1901年(明治34年)6月18日伊万里着。
1901年(明治34年)6月19日伊万里発。
1901年(明治34年)6月21日竹敷着。 午後6時伊万里へ向け行く。
1901年(明治34年)6月23日シサ着。 即日佐世保へ。
1901年(明治34年)6月24日佐世保着。
1901年(明治34年)7月6日船体汽罐部修理着手。 7月31日まで。
1901年(明治34年)7月24日伊万里に向け佐世保発。 楠久着。
1901年(明治34年)7月28日佐世保に向け楠久発。 佐世保着。
1901年(明治34年)7月30日竹敷着。
1901年(明治34年)7月31日修理竣工。
1901年(明治34年)8月22日長府着。 午後呉に向け行く。
1901年(明治34年)8月23日呉着。
1901年(明治34年)8月27日別府着。
1901年(明治34年)8月28日宇和島着。
1901年(明治34年)8月29日八屋着。
1901年(明治34年)8月30日竹敷着。
1901年(明治34年)9月26日楠久着。
1901年(明治34年)9月30日竹敷着。
1901年(明治34年)10月12日平戸着。 明日、佐世保へ。
1901年(明治34年)10月13日佐世保着。
1901年(明治34年)10月14日巡航のため佐世保発。
1901年(明治34年)10月17日竹敷に向け佐世保発。 天候不良のため平戸着。
1901年(明治34年)10月19日平戸発。 竹敷着。
1901年(明治34年)11月13日韓国南岸巡航のため竹敷発。 釜山着。
1901年(明治34年)11月14日釜山発、木浦へ。
1901年(明治34年)11月17日木浦発。 長??へ向け行く。
1901年(明治34年)11月22日釜山着。 明日、竹敷へ。
1901年(明治34年)11月23日竹敷着。
1901年(明治34年)11月29日秋季演習のため竹敷発。
1901年(明治34年)11月30日竹敷帰港。
1901年(明治34年)12月9日島原へ向け長崎発。 島原着。
1901年(明治34年)12月11日牛深着。 即日、佐世保へ。 佐世保着。
1901年(明治34年)12月17日船体機関部修理着手。 35年2月10日までの予定。
1902年(明治35年)1月31日船底塗替えのため入渠。 出渠日調整中。
1902年(明治35年)2月6日20日、出渠予定。
1902年(明治35年)2月20日出渠。
1902年(明治35年)2月28日竣工。
1902年(明治35年)3月4日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1902年(明治35年)3月8日韓国南岸巡航のため竹敷発。
1902年(明治35年)3月17日竹敷着。
1902年(明治35年)4月7日安下庄を経て佐世保へ向け、玖玻発。
1902年(明治35年)5月18日釜山より巨済島へ向け行く。
1902年(明治35年)5月20日馬山浦着。
1902年(明治35年)5月22日馬山浦着。
1902年(明治35年)5月23日馬山浦発。 釜山へ。
1902年(明治35年)5月25日釜山発。 竹敷へ。
1902年(明治35年)6月8日ウラコウ着。
1902年(明治35年)6月9日?着。
1902年(明治35年)6月10日西郷着。 今夜、西郷発。 ?着。
1902年(明治35年)6月13日敦賀着。
1902年(明治35年)6月14日敦賀発。 小浜着。
1902年(明治35年)6月15日小浜発。 舞鶴着。
1902年(明治35年)6月16日舞鶴発。 宮津着。
1902年(明治35年)6月17日松江着。
1902年(明治35年)6月18日米子着。
1902年(明治35年)6月19日米子発。
1902年(明治35年)6月21日フカハ着。
1902年(明治35年)6月22日深川発。 竹敷着。
1902年(明治35年)6月28日馬山浦着。
1902年(明治35年)7月1日竹敷着。
1902年(明治35年)7月5日竹敷発。 福岡着。
1902年(明治35年)7月8日竹敷着。
1902年(明治35年)7月10日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1902年(明治35年)8月2日竹敷発。 呉へ。 長府着。
1902年(明治35年)8月3日長府発。 呉着。
1902年(明治35年)8月7日塗装のため第一船渠に入る。
1902年(明治35年)8月8日船体部修理起工。
1902年(明治35年)8月15日第一船渠を出る。
1902年(明治35年)8月26日呉発。 豊浦へ。 長府着。
1902年(明治35年)9月11日演習のため竹敷発。
1902年(明治35年)9月13日馬山浦着。
1902年(明治35年)9月14日馬山浦発。 鎮海湾へ。
1902年(明治35年)9月16日竹敷着。
1902年(明治35年)10月9日竹敷発。 五島へ。 浮島着。
1902年(明治35年)10月10日浮島発。
1902年(明治35年)10月11日大瀬崎着。
1902年(明治35年)10月12日大瀬崎発。 佐世保着。
1902年(明治35年)10月14日佐世保発。
1902年(明治35年)10月15日三角着。
1902年(明治35年)10月16日若津着。
1902年(明治35年)10月18日若津発。 牛深着。
1902年(明治35年)10月19日牛深発。 佐世保着。
1902年(明治35年)10月20日佐世保発。 彼杵着。
1902年(明治35年)10月22日大村着。
1902年(明治35年)10月23日大村発。 佐世保着。
1902年(明治35年)10月27日佐世保発。 竹敷着。
1902年(明治35年)11月5日竹敷発。 佐世保着。
1902年(明治35年)11月6日佐世保発。 甑島着。
1902年(明治35年)11月7日甑島発。 泊浦へ。
1902年(明治35年)11月8日枕崎着。 鹿児島着。
1902年(明治35年)11月10日鹿児島発。 油津着。
1902年(明治35年)11月11日油津発。 細島着。
1902年(明治35年)11月12日細島発。 佐伯着。
1902年(明治35年)11月13日佐伯発。 長府着。
1902年(明治35年)11月14日長府発。 郷ノ浦着。
1902年(明治35年)11月24日竹敷発。 伊万里湾へ。
1902年(明治35年)11月25日楠久着。
1902年(明治35年)11月30日楠久発。 竹敷着。
1902年(明治35年)12月2日高速力試験のため韓国南岸に向け出港を命ぜられる。
1902年(明治35年)12月16日竹敷発。 韓国南岸へ。 竹敷帰着。
1902年(明治35年)12月23日佐世保で入渠。 22日、出渠予定。
1903年(明治36年)1月1日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)2月6日竹敷着。
1903年(明治36年)2月10日韓国南岸巡航のため竹敷発。 馬山浦着。
1903年(明治36年)2月11日竹敷着。
1903年(明治36年)2月21日呉着。
1903年(明治36年)3月3日竹敷発。 呉へ。 長府着。
1903年(明治36年)3月4日長府発。 呉着。
1903年(明治36年)3月6日呉発。 宮島着。
1903年(明治36年)3月10日呉発。 玖波へ。
1903年(明治36年)3月12日玖波着。
1903年(明治36年)3月16日玖波発。 炭水補給のため呉へ。
1903年(明治36年)3月17日呉発。 三津浜着。
1903年(明治36年)3月18日三津浜発。 安下庄へ。
1903年(明治36年)3月22日室津発。 呉へ。
1903年(明治36年)3月23日呉着。
1903年(明治36年)3月26日呉発。 長府着。
1903年(明治36年)3月27日長府発。 演習地へ。 風波のため竹敷入港。
1903年(明治36年)3月29日竹敷発。 演習地へ。 風波のため引き返す。
1903年(明治36年)3月30日竹敷発。
1903年(明治36年)4月4日長府着。 同日発。 呉着。 呉より厳島着。
1903年(明治36年)4月5日厳島発。
1903年(明治36年)4月6日三ノ宮着。
1903年(明治36年)4月17日呉着。
1903年(明治36年)4月19日呉発。
1903年(明治36年)4月20日長府着。
1903年(明治36年)4月21日竹敷着。
1903年(明治36年)5月1日警備艇となる。
1903年(明治36年)5月5日竹敷発。 佐世保着。
1903年(明治36年)5月6日大村着。
1903年(明治36年)5月10日大村発。 竹敷着。
1903年(明治36年)6月4日竹敷発。 馬山浦着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)6月5日竹敷着。
1903年(明治36年)6月13日竹敷発。 巨済島へ。
1903年(明治36年)6月24日竹敷発。 鎮海湾へ。
1903年(明治36年)6月26日馬山浦着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)7月2日竹敷発。 韓国南部へ。 
1903年(明治36年)7月4日元山着。 明日、?浦へ。
1903年(明治36年)7月7日韓国スンチン[順天市(スンチョン)?]着。 明日、羅新浦へ。
1903年(明治36年)7月12日元山着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)8月1日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)9月14日竹敷要港部第一水雷艇隊は竹敷要港部第十四水雷艇隊となる。
1903年(明治36年)9月19日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)9月24日竹敷発。 対馬西岸へ。 竹敷帰着。
1903年(明治36年)9月25日竹敷発。 対馬西岸へ。 竹敷帰着。
1903年(明治36年)10月16日警備艇となる。
1903年(明治36年)11月9日韓国群山着。
1903年(明治36年)11月11日群山発。 木浦着。 明朝、巨文島へ。
1903年(明治36年)11月13日釜山着。 釜山発。 鎮海湾へ。
1903年(明治36年)11月16日竹敷着。
1903年(明治36年)12月1日第一予備艇となる。
1904年(明治37年)1月6日第十四水雷艇隊は第一艦隊に編入。
1904年(明治37年)1月9日竹敷発。 佐世保着。
1904年(明治37年)1月25日午前、佐世保発。 午後、帰着。
1904年(明治37年)2月6日ロシアに国交断絶通告。 韓国臨時派遣隊上陸援護のため、第十四水雷艇隊は佐世保発。 第一集合地点(珍島南部接島西方)に向かう。
1904年(明治37年)2月7日第十四水雷艇隊は第一集合地点で炭水補充の後、韓国南岸シングル水道に向かう。 午後、第四戦隊と合流。 午後4時、仁川港外ベーカー島に向かう。 第十四水雷艇隊は2隻を分離し、牙山湾および皇子叢島付近の偵察を命ぜられる。
1904年(明治37年)2月8日第十四水雷艇隊は牙山湾口着。 牙山湾口発、仁川に向かう。 八尾島西方で、前日分離した2隻と合流。 警戒配備。
1904年(明治37年)2月9日仁川沖海戦に参加。
1904年(明治37年)2月10日〜19日牙山湾警戒。
1904年(明治37年)2月24日第一次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)3月27日第二次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)4月11日〜12日敵艦隊脱出の際、先導の「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 薄暮に敵艦を追躡しディアナ(Диана)型を襲撃。
1904年(明治37年)4月13日旅順口外戦闘。
1904年(明治37年)5月29日〜6月13日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)6月14日艦載水雷艇機械水雷沈置掩護および敵艦「ノーウィック(Новик)」と砲戦。
1904年(明治37年)6月15日〜23日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь)」襲撃。
1904年(明治37年)6月23日敵艦隊脱出の際、先導の「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 薄暮に敵艦を追躡しディアナ(Диана)型を襲撃。
1904年(明治37年)6月23日〜7月3日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)7月3日「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 
1904年(明治37年)7月4日〜24日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)7月24日鮮生角東岸で敵駆逐艦を襲撃し2隻を撃沈。
1904年(明治37年)7月28日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь」襲撃。
1904年(明治37年)7月25日〜8月9日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)8月10日黄海海戦に参加。 薄暮、敵艦隊に迫りディアナ型を襲撃。
1904年(明治37年)8月11日〜12月13日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)12月13日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь)」襲撃。
1904年(明治37年)12月15日戦艦「セバストーポリ」再襲撃。
1904年(明治37年)12月16日戦艦「セバストーポリ」再襲撃。
1904年(明治37年)12月17日〜1905年(明治38年)1月3日旅順港直接封鎖。
1905年(明治38年)4月9日対馬海峡哨戒。
1905年(明治38年)4月10日〜5月26日鎮海湾口哨戒。
1905年(明治38年)5月27日〜28日日本海海戦に参加
1905年(明治38年)5月30日〜7月15日鎮海湾口哨戒。
1905年(明治38年)10月23日凱旋観艦式参加。
1905年(明治38年)11月4日第一艦隊付属を解かれる。
1905年(明治38年)11月11日下田着。
1905年(明治38年)11月12日鳥羽着。
1905年(明治38年)11月15日鳥羽発。 大島へ。 天候不良のため的矢入港。
1905年(明治38年)11月16日的矢発。 大島へ。 天候不良のため紀伊フクロ入港。
1905年(明治38年)11月17日坂越着。
1905年(明治38年)11月18日多度津着。
1905年(明治38年)11月19日糸崎着。 明朝、呉へ。
1905年(明治38年)11月24日呉発。 竹敷へ。
1905年(明治38年)11月25日竹敷着。
1905年(明治38年)11月26日第一予備艇となる。
1905年(明治38年)12月12日第十四水雷艇隊は第十四艇隊となる。
1906年(明治39年)4月1日警備艇となる。
1906年(明治39年)4月4日竹敷発。 厳原着。
1906年(明治39年)4月5日厳原発。 博多着。
1906年(明治39年)4月6日福岡発。 徳山着。
1906年(明治39年)4月7日徳山発。 厳島着。
1906年(明治39年)4月8日厳島発。 呉へ。 呉着。
1906年(明治39年)4月11日呉発。 宮島へ。 厳島着。
1906年(明治39年)4月12日厳島発。 豊浦へ。 長府着。
1906年(明治39年)4月13日長府発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)4月19日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)4月21日佐世保発。 唐津着。
1906年(明治39年)4月22日壱岐着。
1906年(明治39年)4月23日竹敷着。
1906年(明治39年)4月25日馬山着。
1906年(明治39年)4月27日鎮海湾着。
1906年(明治39年)4月28日鎮海湾発。 ??へ。
1906年(明治39年)4月29日釜山着。
1906年(明治39年)4月30日釜山発。 竹敷へ。
1906年(明治39年)5月2日竹敷発。 佐世保へ。
1906年(明治39年)5月5日竹敷着。
1906年(明治39年)5月9日竹敷発。 馬山浦へ。 馬山浦着。
1906年(明治39年)5月10日馬山浦発。 木浦へ。
1906年(明治39年)5月13日木浦着。
1906年(明治39年)5月15日木浦発。 釜山へ。
1906年(明治39年)5月19日釜山着。
1906年(明治39年)5月20日釜山発。 松真着。
1906年(明治39年)5月21日馬山着。
1906年(明治39年)5月22日馬山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)6月11日竹敷発。 前方へ。 小値賀着。
1906年(明治39年)6月12日小値賀発。 玉之浦へ。 玉之浦着。
1906年(明治39年)6月13日玉之浦発。 長崎へ。 長崎着。
1906年(明治39年)6月14日長崎発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月17日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)7月1日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)10月1日警備艇となる。
1906年(明治39年)12月1日郷ノ浦発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)12月10日竹敷発。 馬山浦へ。 馬山浦着。
1906年(明治39年)12月11日馬山発。 松真着。
1906年(明治39年)12月17日松真発。 馬山浦着。
1906年(明治39年)12月18日馬山発。 釜山着。
1906年(明治39年)12月20日釜山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)12月28日博多着。
1906年(明治39年)12月30日竹敷着。
1907年(明治40年)4月6日試運転のため竹敷発。 同日、竹敷帰着。
1907年(明治40年)4月12日竹敷発。 長府へ。 長府着。
1907年(明治40年)4月13日長府発。 厳島へ。 厳島着。
1907年(明治40年)4月14日厳島発。 呉へ。 呉着。
1907年(明治40年)4月16日速力試験のため出港。 即日帰港。
1907年(明治40年)4月18日呉発。 宮島へ。 厳島着。
1907年(明治40年)4月19日厳島発。 江田島へ。 江田島着。
1907年(明治40年)4月20日江田島発。 徳山へ。 徳山着。
1907年(明治40年)4月21日徳山発。 長府へ。 長府着。
1907年(明治40年)4月22日長府発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)5月3日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1907年(明治40年)5月7日竹敷発。 統営へ。 馬山着。
1907年(明治40年)5月8日馬山発。 湾内で水雷発射のため。
1907年(明治40年)5月12日馬山着。
1907年(明治40年)5月14日馬山発。 釜山へ。 釜山着。
1907年(明治40年)5月16日釜山発。 ???へ。
1907年(明治40年)5月19日松真着。 明日、竹敷へ。
1907年(明治40年)5月20日竹敷着。
1907年(明治40年)5月22日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)5月25日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)6月5日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1907年(明治40年)6月7日竹敷発。 松真へ。 馬山着。
1907年(明治40年)6月10日松真着。
1907年(明治40年)6月14日馬山着。
1907年(明治40年)6月15日釜山着。
1907年(明治40年)6月16日釜山発。 厳原へ。 厳原着。
1907年(明治40年)6月17日厳原発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)6月22日演習のため、韓国南岸巡航を命ぜられ、竹敷発。 馬山へ。 馬山着。
1907年(明治40年)6月24日馬山発。 松真着。
1907年(明治40年)6月25日松真発。
1907年(明治40年)6月26日釜山着。 同日、釜山発。
1907年(明治40年)6月27日鎮海湾発。 木浦へ。
1907年(明治40年)6月28日木浦着。
1907年(明治40年)6月29日木浦発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)7月9日検閲のため竹敷発。 同日、竹敷帰着。
1907年(明治40年)7月11日韓国南岸巡航を命ぜられ竹敷発。 ??へ。
1907年(明治40年)7月12日馬山着。
1907年(明治40年)7月13日馬山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)9月13日竹敷発。 馬山へ。 馬山着。
1907年(明治40年)9月15日松真着。
1907年(明治40年)9月22日松真発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)9月28日竹敷発。 徳山へ。 風波のため引き返す。 竹敷帰着。
1907年(明治40年)10月5日佐世保着。
1907年(明治40年)10月13日竹敷発。
1907年(明治40年)10月14日松真着。
1907年(明治40年)10月15日松真発。 馬山へ。 馬山着。
1907年(明治40年)10月18日馬山発。 博多へ。 福岡着。
1907年(明治40年)10月20日福岡発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)10月24日竹敷発。 松真着。
1907年(明治40年)10月30日松真発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)11月7日竹敷発。 松真へ。 松真着。
1907年(明治40年)11月9日松真発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)11月11日竹敷発。 鎮海着。
1907年(明治40年)11月15日松真発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)11月16日演習のため竹敷発。
1907年(明治40年)11月18日竹敷着。
1907年(明治40年)11月20日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)11月23日佐世保発。 大村へ。 大村着。
1907年(明治40年)11月29日佐世保着。
1907年(明治40年)12月1日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)12月9日佐世保着。
1907年(明治40年)12月10日佐世保発。 鹿児島へ。
1907年(明治40年)12月11日鹿児島着。
1907年(明治40年)12月13日鹿児島発。 牛深へ。 牛深着。
1907年(明治40年)12月14日牛深発。 大牟田へ。 大牟田着。
1907年(明治40年)12月16日大牟田発。 長崎へ。 長崎着。
1907年(明治40年)12月17日長崎発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)12月18日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1919年(大正8年)4月1日除籍。 同日、雑役船に編入、曳船兼交通船に指定、「鵲丸」と改名、佐世保工廠所属となる。
1920年(大正9年)7月1日船名を「鵲」に復す。
1925年(大正14年)12月17日廃船。
1926年(大正15年)4月5日売却。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. ab日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p122,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  2. ab福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p27
  3. 世界大百科事典 第2版
  4. 真木広造監修.野鳥.東京,永岡書店,2016,p151.(ISBN978-4-522-31148-6)
  5. 文化庁.国指定文化財等データベース.http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html
  6. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p54
  7. 艦船行動簿.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C10100037400〜C10100054500,(防衛省防衛研究所)
  8. 極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻1〜巻7.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C05110040500〜C05110054800,(防衛省防衛研究所)
  9. 水雷艇略歴完(1).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C09050695600(第27〜30画像目).水雷艇略歴 明治37〜38,(防衛省防衛研究所)