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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

隼型
隼型水雷艇

「真鶴」は隼型水雷艇の3番艦である。

本型はフランスのノルマン社(Normand Shipyard)が設計した「シクローヌ(Cyclone)」級水雷艇を原型としている。 ドイツのシーシャウ社(Schichau-Werke)の設計による「白鷹」との比較の結果、量産されたという説もある。 明治29年(1896年)度計画によりノルマン社に4隻を発注、明治30年(1897年)度計画より11隻を国内で建造した。 機関出力が計画値に達せず31.54ノットを記録した原型に対し、28.5ノットに留まった。 45cm魚雷発射管3基の装備は同時期の駆逐艦を凌ぐものであったが、1番発射管は配置の関係から右舷のみ発射可能であった。

1900年(明治33年)11月7日に竣工した「真鶴」は、日露戦争で旅順港封鎖、黄海海戦、戦艦「セヴァストーポリ(Севастополь)」襲撃、日本海海戦に参加した。 1919年(大正8年)4月1日に除籍後、曳船兼交通船に指定され「真鶴丸」と改名、呉工廠所属となり、1925年(大正14年)12月17日に廃船となった。

水雷艇から主力艦を守るための水雷艇駆逐艦(後の駆逐艦)の発展により水雷艇の有効性は失われ、さらに駆逐艦が水雷艇の役割を兼ねるようになり、日本では本型が最後の水雷艇となった。 なお、昭和期に復活した水雷艇(千鳥型水雷艇など)は事実上の小型駆逐艦であり、本型の後継ではない。(1)(2)

艦名

艦名は鳥の名。 真鶴(マナヅル)はツル目ツル科の鳥。 繁殖地はシベリア南東部と中国東北部の湿地で、冬季に鹿児島県の出水平野に渡来し水田・農耕地などで越冬する。 渡来地の出水平野は1952年(昭和27年)に「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として国の特別天然記念物に指定されている。(3)(4)(5)

要目(1)(6)

艦種一等水雷艇
常備排水量 ※1152トン
垂線間長45.00m
最大幅4.90m
喫水1.45m
主機直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械2基、2軸
主缶ノルマン式水管缶(石炭専焼)2基
出力4,200馬力
速力28.5ノット
燃料石炭:28.5トン(満載)
航続力10ノットで2,000浬
兵装保式47mm単装軽速射砲3基
45cm単装水上発射管旋回式3基
乗員30人
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(2)(7)(8)(9)

年月日履歴
1899年(明治32年)10月9日起工。 フランスのノルマン(Normand Shipyard)社で建造、呉造船廠で組立。
1900年(明治33年)6月27日進水。
1900年(明治33年)11月7日竣工。 一等水雷艇に類別。
1900年(明治33年)8月28日第一船渠に入渠。
1900年(明治33年)8月31日第一船渠を出渠。
1900年(明治33年)9月13日公試運転。 速力28.8872ノット。
1900年(明治33年)9月15日呉発。
1900年(明治33年)9月22日公試終了。 成績良好。
1900年(明治33年)12月6日「隼」、「白鷹」、「鵲」、「真鶴」、「千鳥」で竹敷要港部第一水雷艇隊を編制。
1900年(明治33年)12月14日塗装のため、呉で入渠。
1901年(明治34年)1月31日船体部修理起工。 2月21日竣工予定。
1901年(明治34年)2月20日船体部修理竣工。
1901年(明治34年)2月25日厳島着。
1901年(明治34年)2月26日風浪のため徳山に寄港。
1901年(明治34年)2月27日徳山発。 博多へ。
1901年(明治34年)3月1日佐世保着。
1901年(明治34年)3月4日佐世保発。 風波のため平戸に寄港。 天候回復次第、竹敷へ。 
1901年(明治34年)5月2日竹敷着。
1901年(明治34年)5月25日巡航のため竹敷発。 楠久着。 明朝、佐世保へ。
1901年(明治34年)5月26日佐世保着。
1901年(明治34年)6月12日平戸着。 明朝、佐世保へ。
1901年(明治34年)6月17日佐世保発。
1901年(明治34年)6月18日伊万里着。
1901年(明治34年)6月19日伊万里発。
1901年(明治34年)6月21日竹敷着。 午後6時伊万里へ向け行く。
1901年(明治34年)6月23日シサ着。 即日、佐世保へ向け出港。
1901年(明治34年)6月24日佐世保着。
1901年(明治34年)6月30日長崎着。
1901年(明治34年)7月6日船体部修理起工。 
1901年(明治34年)7月8日降架。
1901年(明治34年)7月9日佐世保着。
1901年(明治34年)7月22日修理竣工。
1901年(明治34年)7月25日竹敷に向け佐世保発。 竹敷着。
1901年(明治34年)9月8日伊万里へ向け竹敷発。 楠久着。
1901年(明治34年)9月12日佐世保着。
1901年(明治34年)9月13日平戸着。
1901年(明治34年)10月10日楠久着。
1901年(明治34年)10月12日楠久発。 明日、薄香(平戸)着。 長崎へ。
1901年(明治34年)10月13日佐世保着。 直ちに福江へ。 福江着。
1901年(明治34年)10月14日福江発。 佐世保へ。
1901年(明治34年)10月15日長崎着。 明日、竹敷へ。
1901年(明治34年)10月17日波浪高く引き返す(平戸島薄香)。
1901年(明治34年)10月19日平戸発。 竹敷着。
1901年(明治34年)11月13日韓国南岸巡航のため竹敷発。 釜山着。
1901年(明治34年)11月14日釜山発、木浦へ。
1901年(明治34年)11月17日木浦発。 長??へ向け行く。
1901年(明治34年)11月22日釜山着。 明日、竹敷へ。
1901年(明治34年)11月23日竹敷着。
1901年(明治34年)11月29日秋季演習のため竹敷発。
1901年(明治34年)11月30日竹敷帰港。
1902年(明治35年)1月10日韓国南岸巡航を命じられる。
1902年(明治35年)1月15日韓国南岸巡航のため竹敷発。 釜山着。
1902年(明治35年)1月18日蔚山を経て釜山着。
1902年(明治35年)1月19日釜山発。 馬山浦着。
1902年(明治35年)1月21日馬山浦より鎮海に向け行く。
1902年(明治35年)1月25日竹敷着。
1902年(明治35年)1月26日竹敷発。 釜山着。
1902年(明治35年)1月27日釜山着。
1902年(明治35年)1月29日釜山発。 巨済島へ。
1902年(明治35年)2月2日馬山浦着。
1902年(明治35年)2月4日馬山浦発。 鎮海へ。
1902年(明治35年)2月5日馬山浦着。
1902年(明治35年)2月6日釜山へ向け、馬山浦発。
1902年(明治35年)2月7日釜山発。 竹敷着。
1902年(明治35年)2月20日竹敷より佐世保着。
1902年(明治35年)2月21日入渠。 3月3日、出渠予定。
1902年(明治35年)2月26日発見工事のため出渠3月8日に延期。
1902年(明治35年)3月8日出渠。
1902年(明治35年)3月11日竹敷着。
1902年(明治35年)3月15日釜山着。
1902年(明治35年)3月17日釜山発。 竹敷着。
1902年(明治35年)3月31日呉着(?)。
1902年(明治35年)4月7日安下庄を経て佐世保へ向け、玖玻発。
1902年(明治35年)4月13日門司発。 佐世保へ。
1902年(明治35年)5月29日韓国南岸巡航のため竹敷発。
1902年(明治35年)6月2日竹敷着。
1902年(明治35年)6月28日馬山浦着。
1902年(明治35年)7月1日竹敷着。
1902年(明治35年)7月5日竹敷発。 福岡着。
1902年(明治35年)7月8日竹敷着。
1902年(明治35年)8月4日釜山発。 馬山浦着。
1902年(明治35年)8月5日釜山着。
1902年(明治35年)8月6日竹敷着。
1902年(明治35年)9月4日竹敷発。 韓国へ。 木浦着。
1902年(明治35年)9月8日竹敷着。
1902年(明治35年)9月11日演習のため竹敷発。
1902年(明治35年)9月13日馬山浦着。
1902年(明治35年)9月14日馬山浦発。 鎮海湾へ。
1902年(明治35年)9月16日竹敷着。
1902年(明治35年)9月27日韓国南岸巡航を命じられる。
1902年(明治35年)9月29日竹敷発。 馬山浦着。
1902年(明治35年)9月30日馬山浦発。 
1902年(明治35年)10月1日福岡着。
1902年(明治35年)10月2日福岡発。 楠久着。
1902年(明治35年)10月3日楠久発。 竹敷着。
1902年(明治35年)10月7日竹敷発。 佐世保着。
1902年(明治35年)10月11日船体機関部修理着手。 11月15日竣工予定。
1902年(明治35年)10月29日船体部修理竣工。
1902年(明治35年)11月16日佐世保発。 竹敷へ。 波浪のため引き返す。
1902年(明治35年)11月20日竹敷着。
1902年(明治35年)11月24日竹敷発。 伊万里湾へ。
1902年(明治35年)11月25日楠久着。
1902年(明治35年)11月29日楠久発。 竹敷着。
1903年(明治36年)1月16日竹敷発。 九州北岸へ。 小値賀(五島)着。
1903年(明治36年)1月17日小値賀発。 富江着。
1903年(明治36年)1月18日富江発。 長崎着。
1903年(明治36年)1月19日長崎発。 佐世保着
1903年(明治36年)1月20日佐世保発。 大村着。
1903年(明治36年)1月24日大村発。
1903年(明治36年)1月25日平戸発。 竹敷着。
1903年(明治36年)1月29日韓国南岸巡航を命じられる。
1903年(明治36年)2月2日竹敷発。 韓国南岸へ。
1903年(明治36年)3月3日竹敷発。 呉へ。 長府着。
1903年(明治36年)3月4日長府発。 呉着。
1903年(明治36年)3月6日呉発。 宮島着。
1903年(明治36年)3月10日呉発。 玖波へ。
1903年(明治36年)3月12日玖波着。
1903年(明治36年)3月16日玖波発。 炭水補給のため呉へ。
1903年(明治36年)3月17日修理のため第一船渠に入る。 21日出渠予定。
1903年(明治36年)3月21日出渠。
1903年(明治36年)3月26日呉発。 長府着。
1903年(明治36年)3月27日長府発。 演習地へ。 風波のため竹敷入港。
1903年(明治36年)3月29日竹敷発。 演習地へ。 風波のため引き返す。
1903年(明治36年)3月30日竹敷発。
1903年(明治36年)4月4日長府着。 同日発。 呉着。 呉より厳島着。
1903年(明治36年)4月5日厳島発。
1903年(明治36年)4月6日三ノ宮着。
1903年(明治36年)4月17日糸崎着。 同日発。
1903年(明治36年)4月18日呉着
1903年(明治36年)4月19日呉発。
1903年(明治36年)4月20日長府着。
1903年(明治36年)4月21日竹敷着。
1903年(明治36年)4月30日竹敷発。 佐世保着。
1903年(明治36年)5月1日警備艇となる。
1903年(明治36年)5月3日佐世保発。 竹敷着。
1903年(明治36年)5月7日竹敷発。 福富着。
1903年(明治36年)5月10日福富発。 竹敷着。
1903年(明治36年)5月21日竹敷発。 鎮海湾へ。 馬山浦着。
1903年(明治36年)5月24日釜山着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)5月25日竹敷着。
1903年(明治36年)5月26日竹敷発。 
1903年(明治36年)5月27日郷ノ浦着。
1903年(明治36年)5月28日竹敷着。
1903年(明治36年)6月12日竹敷発。 釜山着。
1903年(明治36年)6月24日竹敷発。 鎮海湾へ。
1903年(明治36年)6月26日馬山浦着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)7月1日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)7月4日佐世保発。 長崎着。 明日、牛深へ。
1903年(明治36年)7月5日牛深着。 明日、甑?へ。
1903年(明治36年)7月6日薄香着。 明日、竹敷へ。
1903年(明治36年)7月9日竹敷着。
1903年(明治36年)9月1日警備艇となる。
1903年(明治36年)9月6日竹敷着。
1903年(明治36年)9月11日竹敷発。 田助着。 明日、深江へ。
1903年(明治36年)9月13日三角着。
1903年(明治36年)9月14日竹敷要港部第一水雷艇隊は竹敷要港部第十四水雷艇隊となる。
1903年(明治36年)9月15日竹敷着。
1903年(明治36年)9月19日警備艇となる。
1903年(明治36年)10月16日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)11月1日警備艇となる。
1903年(明治36年)11月9日韓国群山着。
1903年(明治36年)11月11日群山発。 木浦着。 明朝、巨文島へ。
1903年(明治36年)11月13日釜山着。 釜山発。 鎮海湾へ。
1903年(明治36年)11月16日竹敷着。
1903年(明治36年)12月1日第一予備艇となる。
1904年(明治37年)1月4日室積発。
1904年(明治37年)1月6日第十四水雷艇隊は第一艦隊に編入。
1904年(明治37年)1月9日竹敷発。 佐世保着。
1904年(明治37年)1月25日午前、佐世保発。 午後、帰着。
1904年(明治37年)2月6日ロシアに国交断絶通告。 韓国臨時派遣隊上陸援護のため、第十四水雷艇隊は佐世保発。 第一集合地点(珍島南部接島西方)に向かう。
1904年(明治37年)2月7日第十四水雷艇隊は第一集合地点で炭水補充の後、韓国南岸シングル水道に向かう。 午後、第四戦隊と合流。 午後4時、仁川港外ベーカー島に向かう。 第十四水雷艇隊は2隻を分離し、牙山湾および皇子叢島付近の偵察を命ぜられる。
1904年(明治37年)2月8日第十四水雷艇隊は牙山湾口着。 牙山湾口発、仁川に向かう。 八尾島西方で、前日分離した2隻と合流。 警戒配備。
1904年(明治37年)2月9日仁川沖海戦に参加。
1904年(明治37年)2月10日〜19日牙山湾警戒。
1904年(明治37年)2月24日第一次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)3月27日第二次旅順閉塞隊掩護収容。
1904年(明治37年)4月11日〜12日旅順口外機械水雷沈置。
1904年(明治37年)4月13日旅順口外戦闘。
1904年(明治37年)5月29日〜6月13日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)6月14日艦載水雷艇機械水雷沈置掩護および敵艦「ノーウィック(Новик)」と砲戦。
1904年(明治37年)6月15日〜23日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)6月23日敵艦隊脱出の際、先導の「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 薄暮に敵艦を追躡しディアナ(Диана)型を襲撃。
1904年(明治37年)6月23日〜7月3日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)7月3日「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 
1904年(明治37年)7月4日〜24日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)7月24日鮮生角東岸で敵駆逐艦を襲撃し2隻を撃沈。
1904年(明治37年)7月28日敵艦隊脱出の際、先導の「ノーウィック」および駆逐艦と砲戦。 薄暮に敵艦を追躡しディアナ(Диана)型を襲撃。
1904年(明治37年)7月25日〜8月9日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)8月10日黄海海戦に参加。 薄暮、敵艦隊に迫りディアナ型を襲撃。
1904年(明治37年)8月11日〜12月13日旅順港直接封鎖。
1904年(明治37年)12月13日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь)」襲撃。
1904年(明治37年)12月15日戦艦「セバストーポリ」再襲撃。
1904年(明治37年)12月16日戦艦「セバストーポリ」再襲撃。
1904年(明治37年)12月17日〜1905年(明治38年)1月3日旅順港直接封鎖。
1905年(明治38年)4月23日〜5月26日鎮海湾口哨戒。
1905年(明治38年)5月27日〜29日日本海海戦に参加
1905年(明治38年)5月30日〜7月15日城頭山下に避泊中の戦艦「セバストーポリ(Севастополь」襲撃。
1905年(明治38年)10月23日凱旋観艦式参加。
1905年(明治38年)11月4日第一艦隊付属を解かれる。
1905年(明治38年)11月11日下田着。
1905年(明治38年)11月12日鳥羽着。
1905年(明治38年)11月15日鳥羽発。 大島へ。 天候不良のため的矢入港。
1905年(明治38年)11月16日的矢発。 大島へ。 天候不良のため紀伊フクロ入港。
1905年(明治38年)11月17日坂越着。
1905年(明治38年)11月18日多度津着。
1905年(明治38年)11月19日糸崎着。 明朝、呉へ。
1905年(明治38年)11月24日呉発。 竹敷へ。
1905年(明治38年)11月25日竹敷着。
1905年(明治38年)11月26日警備艇となる。
1905年(明治38年)12月11日竹敷発。 佐世保へ。 唐津着。
1905年(明治38年)12月12日佐世保着。
1905年(明治38年)12月13日佐世保発。 厳原へ。 風波のため田助に避泊。
1905年(明治38年)12月14日竹敷着。 第十四水雷艇隊は第十四艇隊となる。
1906年(明治39年)12月27日竹敷発。 福岡発。 即日、福岡発。 三浦湾着。
1906年(明治39年)2月1日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)3月28日竹敷発。 佐世保着。
1906年(明治39年)3月30日佐世保発。 竹敷着。
1906年(明治39年)4月1日警備艇となる。
1906年(明治39年)4月19日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)4月21日佐世保発。 唐津着。
1906年(明治39年)4月22日壱岐着。
1906年(明治39年)4月23日竹敷着。
1906年(明治39年)4月25日馬山着。
1906年(明治39年)4月27日鎮海湾着。
1906年(明治39年)4月28日鎮海湾発。 ??へ。
1906年(明治39年)4月29日釜山着。
1906年(明治39年)4月30日釜山発。 竹敷へ。
1906年(明治39年)5月9日竹敷発。 馬山浦へ。 馬山浦着。
1906年(明治39年)5月10日馬山浦発。 木浦へ。
1906年(明治39年)5月13日木浦着。
1906年(明治39年)5月15日木浦発。 釜山へ。
1906年(明治39年)5月19日釜山着。
1906年(明治39年)5月20日釜山発。 松真着。
1906年(明治39年)5月21日馬山着。
1906年(明治39年)5月22日馬山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)5月30日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月1日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)6月11日竹敷発。 前方へ。 小値賀着。
1906年(明治39年)6月12日小値賀発。 玉之浦へ。 玉之浦着。
1906年(明治39年)6月13日玉之浦発。 長崎へ。 長崎着。
1906年(明治39年)6月14日長崎発。 佐世保へ。 佐世保着。
1906年(明治39年)6月17日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1906年(明治39年)6月27日竹敷発。 博多へ。
1906年(明治39年)6月29日竹敷着。
1906年(明治39年)7月1日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)10月1日警備艇となる。
1906年(明治39年)12月10日竹敷発。 馬山浦へ。 馬山浦着。
1906年(明治39年)12月11日馬山発。 松真着。
1906年(明治39年)12月17日松真発。 馬山浦着。
1906年(明治39年)12月18日馬山発。 釜山着。
1906年(明治39年)12月20日釜山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)4月18日竹敷発。 三浦湾着。
1907年(明治40年)4月19日竹敷発。 徳山へ。 門司着。
1907年(明治40年)4月20日門司発。
1907年(明治40年)4月21日徳山発。 長府へ。 長府着。
1907年(明治40年)4月22日長府発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)4月27日佐世保着。
1907年(明治40年)4月30日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)5月3日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1907年(明治40年)5月7日竹敷発。 統営へ。 馬山着。
1907年(明治40年)5月8日馬山発。 湾内で水雷発射のため。
1907年(明治40年)5月12日馬山着。
1907年(明治40年)5月14日馬山発。 釜山へ。 釜山着。
1907年(明治40年)5月16日釜山発。 ???へ。
1907年(明治40年)5月19日松真着。 明日、竹敷へ。
1907年(明治40年)5月20日竹敷着。
1907年(明治40年)6月5日韓国南岸巡航を命ぜられる。
1907年(明治40年)6月7日竹敷発。 松真へ。 馬山着。
1907年(明治40年)6月10日松真着。
1907年(明治40年)6月14日馬山着。
1907年(明治40年)6月15日釜山着。
1907年(明治40年)6月16日釜山発。 厳原へ。 厳原着。
1907年(明治40年)6月17日厳原発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)6月22日演習のため、韓国南岸巡航を命ぜられ、竹敷発。 馬山へ。 馬山着。
1907年(明治40年)6月24日馬山発。 松真着。
1907年(明治40年)6月25日松真発。
1907年(明治40年)6月26日釜山着。 同日、釜山発。
1907年(明治40年)6月27日鎮海湾発。 木浦へ。
1907年(明治40年)6月28日木浦着。
1907年(明治40年)6月29日木浦発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)7月9日検閲のため竹敷発。 同日、竹敷帰着。
1907年(明治40年)10月5日佐世保着。
1907年(明治40年)11月5日竹敷発。 鎮海へ。 松真着。
1907年(明治40年)11月6日馬山着。
1907年(明治40年)11月8日馬山発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)11月11日竹敷発。 鎮海着。
1907年(明治40年)11月15日松真発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)11月16日演習のため竹敷発。
1907年(明治40年)11月18日竹敷着。
1907年(明治40年)11月20日竹敷発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)11月23日佐世保発。 大村へ。 大村着。
1907年(明治40年)11月29日佐世保着。
1907年(明治40年)12月1日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1907年(明治40年)12月9日佐世保着。
1907年(明治40年)12月10日佐世保発。 鹿児島へ。
1907年(明治40年)12月11日鹿児島着。
1907年(明治40年)12月13日鹿児島発。 牛深へ。 牛深着。
1907年(明治40年)12月14日牛深発。 大牟田へ。 大牟田着。
1907年(明治40年)12月16日大牟田発。 長崎へ。 長崎着。
1907年(明治40年)12月17日長崎発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)12月18日佐世保発。 竹敷へ。 竹敷着。
1919年(大正8年)4月1日除籍。 同日、雑役船に編入、曳船兼交通船に指定、「真鶴丸」と改名、呉工廠所属となる。
1920年(大正9年)7月1日船名を「真鶴」に復す。
1925年(大正14年)12月17日廃船。
1926年(大正15年)4月5日売却。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. ab日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p122,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  2. ab福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p27
  3. 世界大百科事典 第2版
  4. 真木広造監修.野鳥.東京,永岡書店,2016,p215.(ISBN978-4-522-31148-6)
  5. 文化庁.国指定文化財等データベース.http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html
  6. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p54
  7. 艦船行動簿.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C10100037400〜C10100054500,(防衛省防衛研究所)
  8. 極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻1〜巻7.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C05110040500〜C05110054800,(防衛省防衛研究所)
  9. 水雷艇略歴完(1).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C09050695600(第31〜34画像目).水雷艇略歴 明治37〜38,(防衛省防衛研究所)