本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

50号型水雷艇
50号型水雷艇

第五十五号水雷艇は第五十号型水雷艇の6番艦である。

水雷艇とは、19世紀末に出現した水雷装備で敵を攻撃する小型艦艇である。 世界最初の水雷艇は1873年にイギリスのソーニクロフト社(John I. Thornycroft & Company Limite)がノルウェー海軍の注文により建造した「ラップ (Rap) 」であるといわれている。 しかしながら魚雷は搭載されず、現在の機雷に近い外装水雷と曳航水雷を装備していた。 1876年にはイギリス海軍初の水雷艇として「ライトニング (Lightning) 」が建造された。

日本海軍初の水雷艇は、明治12年(1879年)度計画で、イギリスのヤーロー社(Yarrow Shipbuilders Limited)に発注した第一号型水雷艇4隻である。 各艇は1881年(明治14年)にヤーロー社から分解された状態で日本に運ばれ、横須賀造船所で組み立てられた。 公試では、計画速力17ノットに対し14.38ノットと大きく下回った。 完成時は外装水雷を装備していたが、1885年(明治18年)に魚雷発射管に換装した。

第五号型水雷艇は、明治18年(1885年)度計画で16隻の建造が計画され、フランス水雷艇の技術導入するためにフランスに発注し、一部を国内建造した。 最初の14隻はシュナイダー社 (Schneider & Cie.)に発注され、造船所の名をとり「クルーゾー(Creusot)型」と呼ばれた。 原型はフランス海軍の第75号型水雷艇であるが、安定性が不良で転覆事故が続発したため、本艇の建造中に大幅な改正がなされている。 そこで別にノルマン社(Normand Shipyard)に1隻発注したのが3段膨張機関と水管缶を搭載する第十五号水雷艇で、これを国産化した第二十号と併せ第十五号型水雷艇(ノルマン型)と称した。

第五十号型水雷艇は、第十五号型水雷艇の発展形で船体寸法と主要性能は同じだが、波浪の影響を受けないよう艦首の固定魚雷発射管を廃止し、艦尾に旋回式連装発射管を装備した。 本艇は改ノルマン型と呼ばれ、明治29年(1896年)度計画で6隻、明治30年(1897年)度計画で4隻が計画された。 全艇が国内建造され、横須賀および呉海軍造船廠で1900年(明治33年)~1902年(明治35年)にかけて竣工した。 小型で凌波性が乏しく、行動記録を見ても荒天による避泊が散見される。 日露戦争では旅順攻略戦などに参加し、哨戒、封鎖のほか、港外の敵艦に対して襲撃を敢行して2隻を喪失した。 (1)(2)

要目(3)(4)

新造時
艦種三等水雷艇
常備排水量 ※153トン
垂線間長34.00m
最大幅3.51m
喫水0.89m
主機直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械1基、1軸
主缶ノルマン式水管缶(石炭専焼)1基
出力657馬力
速力20ノット
燃料搭載量石炭:4.4トン
航続力?
兵装山内式47mm単装軽速射砲1基
36cm連装水上発射管旋回式1基
乗員16人
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(5)(6)(7)(8)

年月日履歴
1900年(明治33年)5月1日起工。
1900年(明治33年)11月21日進水。
1900年(明治33年)12月6日呉水雷団第二水雷艇隊に編入。
1901年(明治34年)5月16日竣工。 三等水雷艇に類別。
1901年(明治34年)2月25日塗装のため入渠。
1901年(明治34年)2月28日第一船渠を出る。
1901年(明治34年)3月16日推進器点検のため第一船渠に入る。 入渠日数3日間の予定。
1901年(明治34年)3月28日気走力公試終了。 速力20ノット。
1901年(明治34年)3月31日公試尽く終了。 成績良好。
1901年(明治34年)10月1日第五十五~五十九水雷艇で呉水雷団第一水雷艇隊を編制。
1901年(明治34年)10月20日柳井津へ向け長府発。
1901年(明治34年)10月21日呉着。
1901年(明治34年)10月24日呉発。 宇和島へ。
1901年(明治34年)10月25日宇和島着。
1901年(明治34年)10月26日臼杵着。
1901年(明治34年)10月27日日出に向け臼杵発。
1901年(明治34年)10月28日柳井津へ向け日出発。
1901年(明治34年)11月11日佐伯着。 明日、宇和島を経て徳山へ。
1901年(明治34年)11月12日徳山着。 明日、呉へ向け出港。
1901年(明治34年)11月20日呉着。
1901年(明治34年)11月25日呉発。
1901年(明治34年)12月1日呉着。
1901年(明治34年)12月18日呉着。
1902年(明治35年)1月15日第二船渠を出る。 船体部修理25日竣工予定。
1902年(明治35年)1月25日船体部修理竣工。
1902年(明治35年)2月24日機関部修理起工。 3月8日、竣工予定。
1902年(明治35年)3月6日機関部修理竣工。
1902年(明治35年)4月12日機関部修理起工。 25日、竣工予定。
1902年(明治35年)4月25日機関部修理竣工。
1902年(明治35年)5月16日高知着。
1902年(明治35年)5月17日高知発。 椿泊へ。
1902年(明治35年)5月18日椿泊着。 明朝、兵庫へ。
1902年(明治35年)5月19日兵庫着。 明日、高松へ。
1902年(明治35年)5月20日高松着。 明日、三原へ。
1902年(明治35年)5月21日糸崎着。 22日、呉へ。
1902年(明治35年)6月12日塗装のため第二船渠に入る。 在渠日数4日間の予定。
1902年(明治35年)6月17日出渠。
1902年(明治35年)7月25日船体修理工事起工。
1902年(明治35年)8月20日船体修理工事竣工。
1902年(明治35年)9月27日呉発。 演習のため伊予灘へ。
1902年(明治35年)9月29日呉発。 演習のため伊予灘へ。
1902年(明治35年)10月17日宮島を経て御手洗へ。
1902年(明治35年)10月18日御手洗着。 明日、呉へ。
1902年(明治35年)10月19日呉着。
1902年(明治35年)10月23日塗装のため第一船渠に入る。
1902年(明治35年)10月29日出渠。
1902年(明治35年)10月30日船体部修理竣工。
1902年(明治35年)11月7日呉発。 室積着。 門司着。
1902年(明治35年)11月8日室積発。 門司着。
1902年(明治35年)11月9日下関着。
1902年(明治35年)11月11日筑前若松着。 明日、下関へ。
1902年(明治35年)11月12日下関着。
1902年(明治35年)11月17日下関発。 長府を経て呉着。
1903年(明治36年)1月1日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)2月16日修理竣工。
1903年(明治36年)4月6日呉発。 神戸へ。
1903年(明治36年)4月7日葺合着。
1903年(明治36年)4月15日塗装のため第一船渠に入る。 23日、出渠の予定。
1903年(明治36年)4月22日出渠。
1903年(明治36年)5月19日厳島着。
1903年(明治36年)5月24日呉発。 大阪へ。
1903年(明治36年)5月26日大阪着。
1903年(明治36年)5月29日大阪発。 呉へ。
1903年(明治36年)5月30日呉着。
1903年(明治36年)6月26日推進器入替のため第一船渠に入る。 7月1日、出渠予定。
1903年(明治36年)7月15日警備艇となる。
1903年(明治36年)9月14日第十五、二十、五十四、五十五水雷艇で、横須賀水雷団第三水雷艇隊を編制。 横須賀鎮守府に転籍。
1903年(明治36年)9月19日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)10月2日第一予備艇となる。
1903年(明治36年)12月1日警備艇となる。
1904年(明治37年)1月7日横須賀で入渠。 在渠日数未定。
1904年(明治37年)1月8日在渠2日の予定。
1904年(明治37年)1月9日出渠。
1904年(明治37年)2月4日臨戦準備。
1904年(明治37年)2月6日ロシアに国交断絶通告。
1904年(明治37年)2月4日~4月20日東京湾口警戒勤務。
1904年(明治37年)4月20日~8月28日津軽海峡警戒勤務。
1904年(明治37年)6月18日~8月21日浦塩艦隊封敵行動。
1904年(明治37年)8月28日~東京湾口警戒勤務。
1905年(明治38年)6月16日~6月30日横浜港警戒兼掌。
1905年(明治38年)10月2日~5日特別任務。
1905年(明治38年)10月23日凱旋観艦式参加。
1905年(明治38年)11月19日第一予備艇となる。
1905年(明治38年)12月12日第五十、五十二、五十四、五十五水雷艇で、佐世保水雷団第十二水雷艇隊を編制。 佐世保鎮守府に転籍。
1906年(明治39年)1月3日警備艇となる。
1906年(明治39年)1月15日横須賀(船越)発。 浦賀へ。 佐世保回航のため。 浦賀着。
1906年(明治39年)1月16日浦賀発。 下田着。
1906年(明治39年)1月19日下田発。 鳥羽へ。 江尻着。
1906年(明治39年)1月23日江尻発。 鳥羽着。
1906年(明治39年)1月25日鳥羽発。 紀伊大島着。
1906年(明治39年)1月27日紀伊大島発。 由良着。
1906年(明治39年)1月28日尾道着。
1906年(明治39年)1月29日尾道発。 呉着。
1906年(明治39年)1月30日呉発。 徳山着。
1906年(明治39年)2月1日徳山発。 若松着。
1906年(明治39年)2月6日若松発。 佐世保着。
1906年(明治39年)2月20日佐世保発。
1906年(明治39年)2月21日鯛ノ浦着。 明朝、佐世保へ向け行く。
1906年(明治39年)2月22日佐世保着。
1906年(明治39年)4月1日第一予備艇となる。
1906年(明治39年)4月4日佐世保在。 船底塗装のため水雷艇船渠に入る。 出渠予定13日。
1906年(明治39年)8月8日警備艇となる。
1906年(明治39年)12月2日佐世保発。 長崎着。
1906年(明治39年)12月13日長崎発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)1月31日船底塗装のため、第一船渠に入る。 出渠日未定。
1907年(明治40年)2月18日出渠。
1907年(明治40年)3月28日郷ノ浦着。
1907年(明治40年)3月29日郷ノ浦発。 鯛ノ浦へ。 鯛ノ浦着。
1907年(明治40年)6月13日日奈久発。 ??着。
1907年(明治40年)6月14日??発。 長崎へ。 長崎着、
1907年(明治40年)6月15日長崎発。 佐世保へ。
1907年(明治40年)6月24日春季演習のため佐世保発。 伊万里へ。
1907年(明治40年)6月26日今福着。 同日、今福発、佐世保へ。
1907年(明治40年)6月27日佐世保着。
1907年(明治40年)7月2日佐世保発。 鎮海湾へ。 馬山着。
1907年(明治40年)7月7日馬山発。 釜山へ。 釜山着。
1907年(明治40年)7月8日釜山発。 鎮海湾へ。
1907年(明治40年)7月12日馬山着。
1907年(明治40年)7月13日馬山発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)7月16日大村着。
1907年(明治40年)7月17日大村発。 佐世保へ。
1907年(明治40年)7月26日佐世保発。 鎮海湾へ。 
1907年(明治40年)7月27日統営着。
1907年(明治40年)7月28日統営発。 馬山着。
1907年(明治40年)7月29日馬山発。 釜山へ。 釜山着。
1907年(明治40年)7月30日釜山発。 統営へ。
1907年(明治40年)7月31日統営より松真着。 同日、松真発。 佐世保へ。
1907年(明治40年)8月1日佐世保着。
1907年(明治40年)8月27日浮船渠へ入る。
1907年(明治40年)9月10日出渠。
1907年(明治40年)9月18日佐世保発。
1907年(明治40年)9月24日佐世保着。
1907年(明治40年)10月14日佐世保発。
1907年(明治40年)10月15日泊浦着。
1907年(明治40年)10月16日泊浦発。 玉之浦着。
1907年(明治40年)10月17日玉之浦着。
1907年(明治40年)10月18日玉之浦発。 薄香へ。 薄香着。
1907年(明治40年)10月19日田助発。 佐世保へ。 佐世保着。
1907年(明治40年)11月14日小演習のため佐世保発。
1907年(明治40年)11月25日口之津着。
1907年(明治40年)11月26日口之津発。 長崎へ。 四ッ山着。
1907年(明治40年)11月27日四ッ山発。 日奈久へ。 楠浦着。
1907年(明治40年)11月28日楠浦発。 崎津浦へ。 崎津浦着。
1907年(明治40年)11月29日崎津浦発。 ??へ。 
1907年(明治40年)11月30日佐世保着。
1912年(大正元年)8月28日二等水雷艇に類別変更。
1913年(大正2年)4月1日除籍。
1913年(大正2年)9月売却。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. 日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p111-118,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  2. 石橋孝夫.艦艇学入門.東京,光人社,2000,p20-29.(ISBN4-7698-2277-4)
  3. 前掲.日本海軍特務艦船史.p118
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p27
  5. 艦船行動簿.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C10100038500~C10100054500,(防衛省防衛研究所)
  6. 極秘 明治37.8年海戦史 第1部~第3部.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C05110000100~C05110102900,(防衛省防衛研究所)
  7. 佐世保鎮守府戦歴(3).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C09050690900(第44~45画像目).佐世保鎮守府戦歴,(防衛省防衛研究所)
  8. 水雷艇略歴完(6).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C09050696100(第35~38画像目).水雷艇略歴 明治37~38,(防衛省防衛研究所)