ロシアの北方領土軍事基地化を非難しよう
                            2012年3月 Minade Mamoru Nowar

ロシア 日本を「仮想敵国」として
北方四島の軍備を強化する姿勢を鮮明に


ロシアのブルガーコフ国防次官を団長とする国防省視察団は、2011年1月20日、
択捉島入りした。ソ連崩壊後、縮小していた北方4島の軍備の強化に向けた
具体的な検討作業を開始した。





2012年3月6日の、日本の大手各紙は、ブーチン氏の大統領への返り咲きを
報じると共に、「北方領土でのロシアの譲歩はないが、経済連携は強化される」と報じた。

北方領土の軍事基地化に、なんらの懸念を示さず、何らの抗議も行わず、
経済連携を強化することは、

日本の資金で、国後島・択捉島に、現代版・旅順要塞を創ることに繋がるのではないか?

国後島に、日露戦争前に、邪悪なロシア帝国が創った難攻不落の旅順要塞のような
軍事基地を創られてはたまらないから、国後、色丹、歯舞の3島は、何百年かかっても
取り戻さなければならないが、原潜基地がありレアメタル採掘が行われているといわれる
択捉島を取り戻すことは、戦争以外の手段では不可能だと思う。






旧ソ連が北方四島の日本への返還を拒んできた大きな要因の一つは、
北方四島の持つ軍事的価値にある。特に国後水道(エカテリーナ海峡)と
択捉水道(フリーズ海峡)が、年間を通じてオホーツク海から太平洋に出られる
不凍海峡であることが重視されてきた。

ロシア太平洋艦隊にとっては両海峡を握ることが攻撃と防衛の両面で死活的な
意味を持っており、旧ソ連が北方四島の軍事基地化を進めた理由もここにあった。
しかし旧ソ連崩壊後、駐留部隊の兵員は1995年までに3500人に削減された。

2010年来、日本を蔑視しているメドベージェフのロシアは、領土問題についての
対日態度を硬化させるのと並行し、
日本を「仮想敵国」として北方四島の軍備を重視する姿勢を鮮明にしてきた。

10年2月の新軍事ドクトリンで「日本のロシアへの領土要求」を「主要な脅威」
明記したのに続き、10年6月〜7月には、極東とシベリアで大規模演習を実施した。
択捉島でも「仮想敵・日本軍殲滅」演習が行われた。この演習は、ソ連崩壊後の
北方四島での最大規模の軍事演習となった。

ロシアは08年のグルジア紛争で通常戦力の立ち遅れがあらわになったのを受け、
スリムで近代的な軍への脱皮を目指して大規模な軍改革を進めている。

この中で浮上しているのが、フランスのミストラル級強襲揚陸艦を北方四島周辺
海域に配備する計画だ。同艦は最大で16機のヘリコプターや4隻の揚陸艇などを
搭載でき、兵員900人の輸送が可能。単独で強襲揚陸作戦を展開する機能を
備えているとされる。

ロシアの軍首脳は「クリール諸島(千島列島と北方四島)に上陸部隊を急派する
手段が必要だ」とし、北方四島に配備する方針を示している。配備された場合は
この地域の軍事バランスを大きく変えるインパクトを持つ。






ロシア:北方領土にミサイル配備

複数のロシア軍高官は2011年2月16日、北方領土の択捉、国後両島に
ミサイル部隊を駐屯させて、ミサイル・システム配備を検討する考えを示した。
ロシア軍は同地域の軍備増強に乗り出す。両島にはすでに機関銃砲兵師団
3500人が駐屯している。

10年11月、国後島のユジノクリリスクに、全長125メートルの大型船舶用の
埠頭が建設された。これまでは、しけの際に貨物を下すことができなかったが、
この埠頭が建設されたことで、大型船舶による軍事基地化のための資材搬入や
軍事物資の搬入は天候による影響を受けなくなるとのこと。さらにロシア軍は
ミサイル部隊配備滑走路の拡張工事などにより軍事力を強化する。



昨年の2倍以上の兵士を動員して行った、この帝国主義侵略強奪軍事大国の威容を
誇示する大軍事パレードで、日本をバカにしきっているメドベージェフ大統領は、
「私の責務は、
(極悪非道なスターリンが1945年8月9日から、9月5日までの
28日間に、死に体の日本から、火事泥的に、
不法に強奪した)千島列島、色丹島、
歯舞群島を守ることだ」と演説したとの噂。(ホント???)

1945年8月の太平洋戦争(日米戦争)、日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後、
日本は、平和通商国家として、必死に経済再建に努め、ただの一度、他国に武力侵攻
していない。戦後65年間、日本は、国連分担金、ODAという形で、国際平和維持のために、
米国に次ぐ大きな貢献をしてきた。

今や日本は、まぎれもなく
世界一の国際平和維持貢献国家である。
ロシアが
帝国主義侵略強奪軍事大国であることを、改めて国際社会に
広く認識させるためには、この模範的な国際平和維持貢献国家・日本を
仮想敵国とロシアの大統領が明言することだ。(演説要旨、ホント?????


帝国主義侵略強奪軍事大国ロシアが誇る
長距離核弾道ミサイル「トーポリM」
6000キロ先の標的を正確に攻撃できるとのこと。まぎれもなく
侵略攻撃用核兵器?






中国の「人民網日本語版」(人民日報のネット版)
2011年2月24日
より抜粋


ロシアの「プラウダ」紙記事の紹介 「日本が島を奪うことへの警戒を」

1855年、日本は、ロシアがクリミア戦争に巻き込まれた機に乗じて、
南クリル諸島協定の締結を迫った。日本との衝突を回避するため、
ロシアは4島を日本に譲ることを余儀なくされた。

筆者注:「呆れてものが言えない」というのが筆者の率直な感想だ。
一時は発行部数1000万部と世界一を誇ったロシアの「プラウダ」紙も、
中国共産党機関紙の「人民日報」紙も、三流新聞であるはずがないが
【平気でウソをつく】という体質は同じなようだ。

南クリル諸島(北方四島)をめぐる日ロ両国間の摩擦が最近激しさを増している。

ロシア軍参謀本部の高官は11年2月16日、最新鋭のS400対空ミサイルを含む
短・長距離対空ミサイルシステムをこの地域に配備する計画を明らかにした。

ロシア紙「プラウダ」「もし日本が武力で島を奪ったら」との見出しで、
係争諸島における軍事力の速やかな強化を呼びかけた。

ロシア紙「プラウダ」は以下のように報じていると「中国新聞網」が伝える。

現在のところ、南クリル諸島をめぐる『交戦』は外交レベルにとどまっている。
だが外交努力が徒労に終わった時、日本がどのような選択をするかは誰にも分からない。

日本の指導者はグルジアのサーカシビリより理性的なはずだし、日ロ両国の経済関係も
両国の開戦を許さない。

だが歴史の経験は、政治的立場が経済的利益を圧倒し得ることを物語っている。
日本は「民族の戦闘精神」を復興して世界の強国クラブに復帰すべく長年努力を続けている。

20100年度の日本の軍事費は443億ドルで世界5位となった。
これは376億ドルのロシアを大きく上回る額だ。

日本の海上自衛隊はこの地域における恐るべき海戦力だ。
軍艦や補給艦を250隻以上保有。40隻の駆逐艦には最新鋭のミサイル駆逐艦
8隻が含まれ、数百キロ離れた標的を叩くことができる。

海上自衛隊の保有するヘリコプター母艦4隻(または5隻)は、空母や揚陸艦としての
運用が可能だ。09年にはヘリコプター搭載駆逐艦「ひゅうが」を配備した。
排水量1万9000トンでヘリコプター14機を搭載、兵士4000人、トラック50台を
運ぶことができる。

専門家たちは「ひゅうが」について、艦載機離着陸用にすぐに改造できる小型空母であり、
「駆逐艦」との呼称は戦後の制限規定に抵触しないようにするためとの認識で一致している。
日本は今後2年で同級駆逐艦をさらに2隻配備する計画だ。

日本は現在、中型揚陸艦5隻および揚陸艇少なくとも8隻を保有。一度に装甲車36台
または陸戦隊員4200人を運ぶことができる。

また日本の指導者は、海兵隊を全面的に再建し、「沿岸地区に現われうる敵」に対応する
「機動突撃部隊」を築く考えを表明している。これは日本が一貫して上陸作戦能力を積極的に
強化していることを示すものだ。日本が再び他国の危難に乗じることへの警戒が必要

「プラウダ」の取材に、ロシア地政学院のコンスタンティン・シフコフ副院長は
「われわれは、日本にはない戦略爆撃機がある。
われわれのミサイルは1500−2000キロ内の標的を叩くことができる」と指摘した。
以上

日本は海上・航空自衛隊の戦力を倍増させて、自衛しなければならない。
自衛予算を倍増させ各種偵察衛星と自衛ミサイルの開発を急がねばならない。

米国の手先きとして、のこのこと、アフリカやアフガンや中近東などへ行っている
余裕はないと思う。



スターリン気取りのメドベージェフ大統領に
北海道沖、わずか17キロの国後島に
21世紀版・旅順要塞を造られてはたまらない!


You Tube: 旅順要塞・二百三高地攻撃戦の悲劇

極悪非道なスターリンの戦争犯罪を
                忘れてはならない!


極悪非道なスターリンが、日本人捕虜
(軍人・民間人)70万人以上(筆者推定)
シベリア等に拉致移送して、奴隷労働を強制して16万人以上(筆者推定)死亡させた
ことを忘れてはならない。

極悪非道なスターリンの「シベリア奴隷労働の歴史事実を徹底的に隠蔽せよ」という遺志を、銃殺された秘密警察の
元締めベリアに代わって、固く守り続けてきた自民公明政権の強力な指導の下、外務省と文部科学省は、拉致された
日本人捕虜数、奴隷労働で死亡した犠牲者数、さまざまな理由で消息不明となったおびただしい人数の犠牲者数を
徹底的に隠蔽してきた。ノモンハン事件の場合と同様、隠蔽というのは、把握している事実を国民に公表しないという
ことである。シベリア抑留者に対する日本帰国時点での徹底的聞き取り調査、昭和25年10月1日の国勢調査時に
行われた徹底した未帰還者調査と、それに続く徹底した追跡調査により、自民公明政権下の日本政府は犠牲者数に
ついては正確に把握しているはずである。政治的意図によって故意に隠蔽してきたと考えざるを得ない。
自民公明政権は亡くなられた犠牲者に対して公式に哀悼の意を表したこともない。強い憤りを抑えることができない。

鬼畜・ソ連軍兵士が日本人女性に対してを集団的に性的暴行(強姦)・殺害を
行ったことを忘れてはならない。

極悪非道なスターリンの日本帰国禁止で日本人民間人・25万人以上が、
病死、餓死、衰弱死、絶望死、凍死、自殺したことを忘れてはならない。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)の50万人以上の
犠牲者たちの悲痛な訴え


09年8月23日の千鳥ヶ淵戦没者墓苑の『シベリア・モンゴル犠牲者追悼の集い』で
戦場体験放映保存の会・元兵士の会監事の猪熊得郎氏は追悼の辞で次のように述べた。

「それでも、地獄の淵を這いつくばり、生きて帰れた者は幸せだ。
亡くなられた犠牲者の方々のことを考えると、
くやしい。悲しい。むなしい。情けない。
誰がこんなことに追い込んだのか。
激しい怒りを禁じ得ない。」


香月泰男(KAZUKI YASUO)画伯 『北へ西へ』
奴隷として貨車でシベリアへ拉致移送された日本人捕虜たち
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。


貨車及び徒歩で拉致移送される捕虜たち



拉致移送途上で発病・疲労・発狂のため隊伍から落後した者をソ連監視兵は容赦なく殺害した。
遺体は放置遺棄され、禿鷹とシベリア狼・虎の餌食にされた。【人道に反する】許し難い行為である。



厳寒期には零下30度以下になる屋外で重労働を強制された。
若い国会議員と外務省の外交官に零下30度以下の状況を体感していただきたいと願っている。


極寒期における日本人捕虜の石炭採掘作業


劣悪極まる作業環境のため、炭塵、鉱塵で多くの日本人捕虜が【シベリア珪肺】に苦しんだ。






著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー及び転載は禁止します。
「戦友よ許してくれ」

2006年3月6日午前の参議院予算委員会の審議において民主党の谷博之参議院議員は
【シベリア抑留問題】に関連して、シベリアでの奴隷労働の苦難に耐えられた井上馨氏が描かれた
【戦友よゆるしてくれ】という3枚の絵を小泉首相に示された。
ソ連は、遺体の衣服をすべて剥ぎ取って丸裸にした上で、埋葬することも、火葬することもなく、
谷底に遺棄したのである。奴隷として酷使され、遺体を遺棄され、禿鷹と野犬の餌食とされ、
人間としての尊厳を、とことんまで踏みにじられた
戦友たちの悲惨な【野辺送り】を
耐えなければならなかった井上氏たちの悲痛な呻きが伝わってくる。
ご遺族の方々やシベリア奴隷労働被害者の方々の心情は察するにあまりある。
心から哀悼の意を表したい。

関連サイト:シベリア奴隷労働被害

ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死
第3章 
ソ連捕虜収容所における
栄養失調症医療の欠如


帰還者が異口同音にいうところによれば、彼らのシベア抑留の最初の年の食糧の供給は、
寒気と疲労とを克服するに必要な最少限度を遙かに下廻るものであった。

彼らは余儀なく食糧不足を補うために近在を探し廻り、樹皮、蛙、カタツムリ、その他
食べ得るものは何でも食べるという有様であつた。

衛生施設が全く欠けているために、病気は、既に疲労、野宿、及び栄養失調で弱つている
全身に激しく広がるという有様であつた。

収容所に到着する前の移動途中において多数のものが死亡した。

ソ連は膨大な数の日本人捕虜を収容するための収容所施設の準備を全く行っていなかった。

捕虜たちは、どのような建物であれ、建物でありさえすれば、手当たり次第そこに収容された。
生活するための設備を欠き、環境も劣悪で、衛生設備もないところに収容された。
多くの収容所の建物は、到底、人間の住む所とは思えない粗末な建物で、
多人数が居住するための施設としては、全く不適当なものであつた。

帰還者のいうところによれば、捕虜たちは狭い建物に横たわるすき間もないくらいに詰め込まれた
ということである。この事実は数千人の帰還者の陳述書においても述べられている。

ある帰還者は次のように述べている。「収容所において自殺者や逃亡者が出た。
そのため我々は満3か月間、ジャガイモのみしか与えられなかつた。
従って我々は全員、収容所周りの蛙、カタツムリ、ナメクジまで食べた。」

典型的の陳述は次の通りである。「我々の多数は、食糧不足に加え、衣服も十分でないために
病気になつた。時には4人の捕虜が1人分の配給食糧を分けて食べた。
食糧の配給のない日もしばしばあつた。住居は居住者が多過ぎ、設備は不適当であつた。」

1946年5月、咸興(朝鮮)附近の一地区に約26,000人の民間人が集められた。
その中、7,000人が野宿と飢餓のために死亡した。

志村注:

民間人
とあるが間違いであると思われる。後述するこの後の部分は
「重病者及び不具者30,000人を送ってきた」とある。
当時、厚生省引揚援護庁も、GHQ/SCAPも、帰還した日本人捕虜の証言するこの内容について、
「ソ連政府が、
北朝鮮の健康な捕虜と、シベリアの病気の捕虜を交換した」という、およそ、
まともな国家においてはあり得ない非人道的な犯罪行為を想像できなかったため、
北朝鮮の健康な捕虜については「
civilian」と書いたのではないだろうか。
しかし、
民間人を集めたということもあり得ることである。後述するように、死亡したと述べている
7,000人は病気の捕虜の方である。

ある帰還者は次のように述べている。 「我々は1945年9月13日に綏芬河を出発した。
空腹と寒さと疲労に悩みながら、黒龍江を渡つて、約1か月間、シベリアの荒野を徒歩で移動した。
我々が到着したところは山の中の鉱山地区であつた。そこは家もなければ、人間もいないところ
であった。このようなところで生き残るのは容易なことではないと、全員が感じた。
その場所はそれほど劣悪な生活環境・衛生環境であった。

志村注:
徒歩で満州・北朝鮮からシベリアへ拉致移送された日本軍軍人、及び民間人の中から、
移送途中において、疲労と飢えでかなりのものが死亡している。自殺したものもいるはずである。
逃亡を図ってソ連軍兵士に殺害されたものも少なくないはずである。さらには逃亡に成功して
満州南部に逃げ込んだものもかなりいるはずである。

衛生環境は極めて悪く、チフス、発疹チフス、肺炎、その他の各種の病気が蔓延した。
発病の原因は栄養失調、疲労、野宿である。
これらが原因で身体の病気に対する抵抗力が無くなったためである。

帰還者たちは次のように断言している。
収容所に伝染病の蔓延を防ぐ防疫施設が無かった。捕虜の病気についてソ連当局は
まったく無関心であった。この二つが伝染病を蔓延させた。ついには手の施しようがなくなる
までに伝染病の感染が広がった。かくて、もっとも感染者が少なかった収容所ですら、
日本人捕虜の死亡率が10%という悲惨な事態となった。

衰弱の極みにあった捕虜たちは、普通では死ぬことの少ない病気でも容易に死亡する有様であった。
都市から離れた奥地の収容所においては死亡率はさらに高いものであった。

捕虜に対する医療は稀であった。利用できた薬局と病院も人員不足でかつ医療設備も医薬品も
無いという状態であつた。従って旧日本軍から引き継いだ医療関係者がいなかったならば、
捕虜たちは、医療は全く受けられなかっただろうと帰還者たちは述べている。

医療を施すどころか、ソ連当局は、日本人捕虜から搾れるかぎりの労働力を搾る取るという計画
であった。従ってソ連当局は、傷害を受けた者や病気の者たちにも労働を強制した。

傷害者たちや病人たちは、与えられた仕事を十分にやり遂げないとして
しばしば殴りつけられたり、矯正的処罰を受けたりした。

華氏100度(体温37.8度)以上の熱のある者、及び傷害が一見して判る者のみが
労働から除外された。

ヘルニア、盲腸炎、肺炎、結核、及びその他の病気にかかっている者は
医療が受けられないために死亡した。

捕虜たちは、医療を希望すると、当局から仮病であるとして、矯正的処罰を課せられるので、
どうにもならなくなるほど病状が悪化するまで、病気であることを申し出なかつた。

送還開始に際しての方針は、労働に耐え得ない病人や、衰弱者のみをまず送還する
ということであつた。これらの多くは、送還前に療養のために暫く入院する状態であつた。
しかし彼らは健康が著しく回復すると捕虜収牧容所へ戻された。

病気があまり回復しないものは送還されることになつた。若干の者は病気が悪化して
病院で死亡した。

ソ連から北朝鮮の病院に移された捕虜の10%〜20%が死亡した。
生き残つた日本人捕虜たちは実に惨めな有様であつたと多くの帰還者たちが語つている。
いたるところで、彼らは重労働を課せられた。食糧は少く栄養は足りない。

ほとんど、どこでも住居は貧弱で、衛生設備を欠き、飢餓と密居と不潔の当然の結果として
罹病率は著しく高まった。ついには伝染病が蔓延した。
ソ連当局は病人に対して、なんらの処置をとらなかったことは明白な事実であった。

この時期において、ソ連当局は比較的軽度の病気に封しては注意を払わなかった。
その結果、少しの医療をほどこせば治癒したであろう病気で多数死亡した。

真の悲劇が不潔から生じた伝染病が蔓延した時に起こった。

死亡者がいちばん多かったのは発疹チフスである。発疹チフスの患者は、最初は熱を出し、
次いで桑の実の色をしたふきでものを出し、その次に精神が錯乱して悶え狂う。
次いでふきでものは潰れ、下痢に悩まされる。その後、死亡直前の麻痺に陥る。

年間を通じて伝染病は非常に多く発生した。伝染病は衛生状態が非常に悪い収容所で
猖獗を極めた。間島と延吉の収容所だけでも、10,000人以上が伝染病で死亡したと
帰還者は語っている。

チフスを免れた者も、極度の疲労と食糧不足から起こる壊血病によって呼吸器を冒され、
酷寒のための凍えで、足の指や、手の指や、腕が脱疽になった。

捕虜たちの、このような深刻な病状を全く無視して、ソ連当局は一定量の仕事を捕虜たちに
強制し続けた。

同僚100名と共に無蓋貨車で比較的楽な
(in the "comparative comfort" of an open freight car )
シベリヤ旅行をしたある帰還者は次のように述べている。

志村注:無蓋貨車で移動中は労働を強制されなかったということ。

「我々は最初は日中のみ働いた。後になると夜も働かなくてはならなくなつた。
その間食糧事情は極めて悪くなった。われわれは空腹をかかえて働いた。
気温は、時には、零下40〜50度になった。
空腹と重労働のため衰弱した。多くの同僚が病に冒されて死んだ。
我々は雑草でも何でも手当たり次第食べた。」

ソ連からの 帰還船が着く度に、毎船の帰還者たちが、シベリアの日本人
捕虜収容所における、ソ連当局の日本人捕虜に対する、このような、
信じられないような、鬼のような無慈悲な行為について語っている。

軍医であつた帰還者は次のように報告している。
「私はソ連軍の命令で1,000人の病人を収容する病院を北朝鮮に建てた。
1946年6月と7月に、そこへソ連軍は30,000人の労働不可能な重病人と
身体障害者を送り込んできた。

送り込まれた人数があまりにも多いのと、医薬品が無いために重病人・
身体障害者たちも、我々医療スタッフも形容すべからざる困難に陥った。

帰還のための乗船時おけるソ連軍の検査について、この軍医は次のように述べている。
「ソ連軍は、帰還する捕虜の所持品について驚くべきほど厳重な検査を行った。
書類、遺骨、毛髪等、死亡した日本人捕虜に関連するものはすべて没収された。
この厳しい所持品検査は、ソ連当局の死亡した日本人捕虜に対する残虐行為の証拠品を
隠滅する目的で行われた。

しかし、私と私の部下は、この証言に関連するいくつかの書類を
ソ連検査官の目をかすめて持ち出すことに成功した。」

元日本将校であつた帰還者は、この軍医の話を裏書して次のように語つた。
「衛生環境が極めて悪かったので、原因不明の熱病が発生した。
我々の仲間から、毎日この熱病に感染するものが出た。

この収容所においては、非常勤のソ連の衛生将校が一人いただけで、
衛生施設もなければ、医薬品も無かった。我々の熱心な懇願にもかかわらず、
ソ連当局はこれらの熱病患者に対しても仕事の割当てを行い、労働を強制した。
熱病は隊全体にあまねく広がった。
熱病と共に隊の全員が栄養失調症になった。

 しばらくたってから、我々は病院に入院することを許された。
一人の日本人看護婦の努力にもかかわらず、多くの仲間たちが熱病で死亡した。
自分は25体の遺骨を携えてきたが、悲しいことに、ソ連当局は頑として持ち出しを
認めなかったので、遺骨全部を埋葬せざるを得なかった。
その上、貴重な名簿までソ連当局に没収された。
わが隊の死亡者は全部で80人であった。」

シベリアにおける大石炭産地にあるチエレンホフからの帰還者は次のように述べている。
「3,000人以上の日本人捕虜がこの地区の鉱山で強制労働をさせられた。
我々は、奉天、満州里を経由してシベリア鉄道でチエレンホフに送り込まれた。
チエレンコフはバイカル湖湖畔のイルクーツクの西にある。
苛酷な寒さともいうべき極寒と、粗悪で量もごく少量の食糧と
最悪の衛生状態にひどく苦しんだ。」

こうした悲惨な環境におかれた日本人捕虜の死亡は必然であった。

捕虜病院で墓掘りに従事していた帰還者は次のように述べている。
「1945年12月から1946年2月までのわずか3か月間で、飢餓と伝染病で約1,000人の
日本人捕虜が死亡した。石炭鉱山で強制労働をさせられていた日本人捕虜たちは、
全員、飢餓と伝染病で、3分の1もが死亡したという事実に直面して恐怖におののいた。

彼らは栄養失調症のためここへ来た。1945年の冬、彼らの多くは腸炎を患い、
罹病者の90%が死亡した。

毎晩、50人が墓堀りに従事した。初めは1人づつの墓を掘ったが、
死亡者が増えるにつれて、2人用墓、5人用墓、さらには、25人用の墓を掘った。

しかし、それでも墓が足りなくなったので、遺体を重ねて埋葬した。死亡した捕虜たちの多くは
若い人たちであった。厳しい寒さのために死亡したものも少なくない。

ソ連軍の医療将校によれば、1945年と1946年の期間の死亡率は、
この地区においては30%にも達していた。

古谷和穂はバイカル湖西方の石炭鉱山における日本人捕虜の悲惨な状況についての証言を
裏付ける次のような手紙を東京朝日新聞に送っている。
「ソビエトのチナゴルスカヤ収容所に抑留中、飢餓、酷寒、及び我々に強制された度を超した
重労働のために多数の死亡者が出た。ソ連軍の兵士は捕虜の遺体を裸にして積み重ねて
どこかへ運んでいった。

沿海州地区においても日本人捕虜は他の地区と同じ様に、重労働を強制され、多く者が死亡した。

1945年10月20日、100人の日本人捕虜がマンゾフカ収容所に送られ、農作業を強制された。
発疹チフスが発生して、最悪の事態になった。40人が死亡した。
帰還できたのは60人だけであった。

その近所の製材所では、200人の中、120人が熱病で死亡した。

モンゴルのウランバートル収容所からの帰還者は、ウランバートルに送られた
日本人捕虜と収容所の仲間たちについて次のように述べている。

「ウランバートルには15,000人の日本人捕虜がいた。人口が50,000人であった町に、
新たに15,000人もの捕虜を送り込んだのである。食糧不足が起こるのは必然的結果である。
日本人捕虜は、皆、飢えに喘いだ。日本人捕虜たちは、仲間同士でいがみあい、
それぞれが相手のことについてソ連当局に密告したりした。このようなことは、
いかに戦争に負けて、生き残るためであったとはいえ、まことに情けないことであった。

我々は、森林伐採、石材の切り出し、建設、及び鉱山における採掘作業なと、
いろいろな仕事を強制された。

我々が強制された仕事は、ソ連復興5か年計画を達成するためのノルマ(絶対達成を
義務づけられた仕事量)
であるとして、ソ連当局は、我々の基本的人権とか健康状態とかは
頭から無視していた。

とにかく、ノルマを達成しろの一点張りであった。このため日本人捕虜の健康状態は
日ごとに悪くなった。

ウランバートルは泥棒と嘘つきの町である。」

ハバロフスクの北西にあるロンドコよりの帰還者は次のように報告している。
「ここの収容所の捕虜たちは、高梁(Kaolian)、大豆、塩、及び油だけで命をつないできた。
1945年10月から1946年1月までは、栄養失調と肺炎が猛威をふるい死亡者が続出した。
まさに【この世の地獄】であった。」

シベリアのアントノフカ及びサンタゴからの帰還者たちは次のように語っている。
「バイカル湖から400マイル西方にあった捕虜収容所から出ることができたのは
たいへんな幸運であった。その収容所では多くの仲間たちが、飢えと酷寒と重労働で
次から次へと死亡した。

我々が経験したソ連の捕虜収容所での生活と比べれば、日本での現在の私の生活は
全く楽すぎて、夢のようである。今でも捕虜収容所での生活を思い出すと血が凍るような恐怖に
襲われる。

私は日本国民が、我々日本人捕虜がソ連の収容所で味わった苦難と絶望感とを、
少しでも理解してほしいと願っている。」

多くの他の帰還者たちがこの意見に全く同感であると言っている。

チタの北180マイルのある部落で森林伐採作業を強制されていた帰還者は、
苦しかった抑留時代を回想して次のように述べている。

「多くの日本人捕虜が、重労働と食糧不足に起因する結核と栄養失調で死亡した。
このような状態で死ぬまで強制的に働かされるくらいなら、早く死んだほうがマシだと思った。
本当にあの時は先に死んだ人がうらやましかった。」

帰還者の供述は次のような話で満ちている。
「シベリアにおける我々の生活を思い出す度に全身、身震いする。
あまりにも食べるものが少なかったので、我々は切実に空腹に悩まされた。」

日本人捕虜は、全員、飢え・酷寒・重労働ノルマに苦しんだが、
これらの苦難に加えて、ソ連は共産主義思想教育でも日本人捕虜を苦しめた。

ウラジォストク地区の収容所からの帰還者は次のように述べている。
「この地区の収容所には多くの民主主義者と共産主義者がいた。
しかしながら彼らの多くは、エセ進歩主義者であつた。
生活条件は良くなかった。さらに我々は日本人捕虜仲間の中の密告者の密告に
悩まされた。」

ソ連はこの共産主義思想教育において、捕虜の中から思想教育教官志願者を募った。

これを嫌ったある帰還者は次のように語っている。「自分が帰還する時、
【民主同盟】なるものが組織された。
この同盟は共産主義思想教育を担当すると共に、捕虜の中から誰を帰還させるかを
決定する権限をソ連当局から与えられていた。」

捕虜によって組織された青年共産党の指導者の一員であったある帰還者は、
この共産主義思想教育が、いかに事実を歪曲したデタラメ極まるものであったか
について次のように供述している。

「自分はソ連に抑留されている間、青年共産党の指導者の一員であった。
ナホトカにおいて日本への帰還船に乗船するに先立ち、自分は他の仲間たちと同じく、
【スターリン大元帥バンザイ】と大声で叫んだ。
そして民主同盟グループに対して、反動分子が満ちている日本に帰還次第、
日本共産党に入党することを誓った。

日本の故郷に帰って自分が知ったことは、我々はソ連の収容所における
共産主義思想教育で、事実を歪曲したデタラメ極まることばかり教えられていた
ということである。

ソ連は、米国占領軍は日本人の帰還を妨害している最大の敵であると教えたが、
事実は全く正反対で、米国占領軍は、日本人捕虜の帰還を促進するために
最大限の努力を行っていた。

ソ連は、日本の故郷の人たちは、日本人捕虜の帰還に対して全く冷淡であると教えたが、
事実は全く正反対で、日本国民は日本人捕虜の帰還促進のために
強力なキャンペーンを行っていた。

日本の実情を自分の目で見て驚いた。ソ連で教わったこととは全てが正反対であった。
ソ連で教わった思想は全て間違いであると悟った。」

厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会 監修『援護50年史』
((株)ぎょうせい 平成9年3月発行)第86頁


不法非道に日本人を大量虐殺した極悪非道な
スターリンの火事泥的領土強奪
侵略戦争
成果を誇示
するメドベージェフ露大統領



2010年11月1日のメドベージェフ大統領の国後島訪問を皮切りに、シュワロフ第1副首相
ブルガーコフ国防次官バサルギン地域発展相、セルジュコフ国防相が、相次いで
国後島、択捉島を訪問、視察した。


ロシア政府視察団、国後島と択捉島に

ロシアのバサルギン地域発展相が率いる政府代表団が11年1月31日、国後島を訪れた。
2月1日には択捉島を視察する。

ロシアはクリール諸島(千島列島)で総額179億ルーブル(約493億円)を投じる
「社会経済発展計画」を進めている。空港や道路などインフラの整備を進め、
クリール諸島の人口を3万人にまで増やす目標

地域発展省のトラブニコフ次官は11年1月27日、北方四島の開発事業に
日本以外の外国企業を参入させる可能性を示唆した。

中国、韓国等外国企業の北方領土侵入
断乎、排除する姿勢を明確に


万一、仮に、中国、韓国、あるいはイスラエル等の外国企業が、北方領土に資本投下したり、
技術協力することが起きたならば、日本政府は、これらの外国企業をきびしく制裁するという
姿勢を内外に明確に示さなければならないと思う。たとえば、金融機関、運輸業を含む
日本企業との取引を全面的に禁止する。日本に入国することを禁止する。日本の港湾に
入港することを禁止する等々である。






ロシア政府の国家による殺人強奪事件を強く非難しよう!






強い軍事大国を目指すロシア

現在のロシアも大量の核を保有する軍事大国である。
読売新聞(朝刊)09年3月19日第7面は
露、核戦力を増強へ」との見出しで
「ベトベージェフ大統領は17日、核戦力を増強し
陸、海軍の兵器、装備を更新する包括的な軍備増強を
進める方針を発表した」と報じている。

09年3月23日夜、NHK総合テレビからスペシャル番組
『プーチンの子どもたち 復活を遂げるロシア軍』が放送された。
プーチン首相(前大統領)は、2000年、大統領に就任以後、
軍事費を5倍に増やした。今年度も更に増大させる。
帝政ロシア時代、ロシアの領土拡大と他民族鎮圧に
多大の功績があったコサックの将軍を模範として、
コサックの伝統的な愛国心を若者に植え付けるを教育
を柱としてロシア軍の幹部育成に積極的に取り組んでいる。

ロシアは軍事費の大半を最新兵器の開発に投じている。
核戦力の増強も重視されている。


資料出所:読売新聞(朝刊)10年7月31日第7面



現在でもロシアは世界第2位の武器輸出国である。
ロシア国民はこのプーチン首相の軍事大国化路線を
熱狂的に支持している。

ロシアにとっては、
武力で他国領土をわが物にすることは、
悪ではなく、善なのである。

平和通商国家日本の国民が唖然とする事態が
ロシアでは現実に着々進行していることを伝える
内容に驚かざるを得ない。

元来、ヨーロッパ民族の国家であるロシアの現在の領土の
半分以上は、侵略国家・帝政ロシアと、極悪非道な
スターリンの侵略強奪国家・ソ連が、武力占領して、他民族から
情け容赦なく奪い取った領土である。

ロシアは、民主主義が徹底している米国とEU諸国とは、
本質的に全く異なる怖ろしい国である。

その怖ろしいロシアが、北海道からわずか17キロの
北方領土の国後島を完全支配している。
北海道からわずか数キロの現在のロシアも大量の核を保有する
軍事大国である。
読売新聞(朝刊)09年3月19日第7面は
露、核戦力を増強へ」との見出しで
「ベトベージェフ大統領は17日、核戦力を増強し
陸、海軍の兵器、装備を更新する包括的な軍備増強を
進める方針を発表した」と報じている。

09年3月23日夜、NHK総合テレビからスペシャル番組
『プーチンの子どもたち 復活を遂げるロシア軍』が放送された。
プーチン首相(前大統領)は、2000年、大統領に就任以後、
軍事費を5倍に増やした。今年度も更に増大させる。
帝政ロシア時代、ロシアの領土拡大と他民族鎮圧に
多大の功績があったコサックの将軍を模範として、
コサックの伝統的な愛国心を若者に植え付けるを教育
を柱としてロシア軍の幹部育成に積極的に取り組んでいる。

ロシアは軍事費の大半を最新兵器の開発に投じている。
核戦力の増強も重視されている。

現在でもロシアは世界第2位の武器輸出国である。
ロシア国民はこのプーチン首相の軍事大国化路線を
熱狂的に支持している。

ロシアにとっては、
武力で他国領土をわが物にすることは、
悪ではなく、善なのである。

平和通商国家日本の国民が唖然とする事態が
ロシアでは現実に着々進行していることを伝える
内容に驚かざるを得ない。

元来、ヨーロッパ民族の国家であるロシアの現在の領土の
半分以上は、侵略国家・帝政ロシアと、極悪非道な
スターリンの侵略国家・ソ連が、武力占領して、他民族から
情け容赦なく奪い取った領土である。

ロシアは、民主主義が徹底している米国とEU諸国とは、
本質的に全く異なる怖ろしい国である。

ストックホルム国際平和研究所 2010年6月2日発表
SIPRI年鑑2010 主要国の2009年度軍事支出

順位 国名 軍事支出 世界シェア
1 米国 6,610 億ドル 43.0%
2 中国 1,000 億ドル 6.8%
3 フランス 639 億ドル 4.2%
4 英国 583 億ドル 3.8%
5 ロシア 533 億ドル 3.5%
6 日本 510 億ドル 3.3%
7 ドイツ 456 億ドル 2.7%
8 サウジアラビア 413 億ドル 2.4%
9 インド 363 億ドル 2.4%
10 イタリア 358 億ドル 2.3%

その怖ろしいロシアが、北海道からわずか17キロの
北方領土の国後島を完全支配している。
北海道からわずか数キロの
北方領土の歯舞群島を完全支配している。

ボツダム宣言第9項に違反する
極悪非道なスターリンの極秘指令


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複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。


ロシアは、元来、侵略強奪主義の軍事国家

ロシア領土の東半分は、17世紀以降、ロシアのスラブ民族
(元来、ヨーロッパ民族)
積極的に領土獲得の侵略戦争を行い手に入れたものである。ロシアは他民族の固有領土を
戦争で奪い取ることは悪いことだという意識はまったくない。むしろ侵略戦争に勝利して
他民族の固有領土を奪取し、財貨を強奪することを誇りに思っている。
「固有領土であつたから返還せよ」と敗戦国の日本が要求することは
「気違い沙汰」と
受け取っている。










関連サイト:北方領土返還要求大会は税金のムダ使い大会

参考You Tube:4分45秒でわかるシベリア抑留

研究資料:
ロシアのプラウダ紙英語版 2011年2月8日号掲載記事

Japan's claims for Russian islands
evolve into blind rage


08.02.2011

On February 7, Japan
celebrated the Day of Northern Territories
with a great splendor.

The tone was set by Prime Minister Naoto Kan.
At the national rally held under the slogan
"For the return of the northern territories," he described
the recent visit of Dmitry Medvedev to the Southern Kuriles
as
"inexcusable rudeness."

Japanese rightist arranged a rally near the Russian Embassy in Tokyo where they demanded the return of the South Kuriles and abused the Russian flag.

As we know, Tokyo claims the Etorofu, Kunashiri, Shikotan and Habomai islands.
It is no accident that the Day of Northern Territories is celebrated on February 7.
It was February 7, 1855 when Japan and Russia signed
a bilateral Trade and Boundaries Treaty whereby the border between the islands runs
between Urup and Iturup.

As a result, Kunashiri, Shikotan and Habomai just south of Iturup were given to Japan.
In the unsuccessful Crimean War against Russia when Britain, France, Turkey
and the Kingdom of Sardinia fought Russia with a united front,
the Tsar did not want to fight with the Japanese.

In turn, Russia's position is based on the fact that it owns the Southern Kuriles legally
as a successor to the Soviet Union that had acquired the territory after the defeat of Hitler'sJapanese allies in 1945.

Until now, the parties have not signed an amicable treaty.
Tokyo sees a clear connection with the return of the four South Kuril Islands.

Japanese media reported that Kan's statements regarding the Kuril Islands were extremely tough.
We can assume that this is partly due to the increased attention of high ranking Russian officials
to this region.

Yet, more serious steps are not expected.
Despite the rigidity of the Kan's statements, they are no more than words.
Under the conditions of the fierce political struggle in Japan,
he simply has to make these statements; otherwise he would be accused
of not defending Japanese interests properly.

As for the Japanese, currently a real aggravation of the relations with Russia
would not be beneficial for them.

They understand the benefits of the economic cooperation between the two countries.
It is no accident that Kan, while demanding that Russia returns the islands,
immediately rushed to adjust the impression of his speech,
saying that Japan intends to conduct negotiations with Russia on economic cooperation.

In the meantime, the Japanese side intends to focus on a diplomatic solution. On February 10,
Foreign Minister of Japan Seiji Maehara will be coming to Moscow for talks.
He promised to devote his political career
to
the soonest return of ancestral territories.

Why do Japanese so stubbornly cling to a few islands
,
threatening Japanese-Russian relations in general by the territorial claims?

What are Tokyo's hopes?
Does it expect Russia to succumb to the political pressure
and create a dangerous precedent of major territorial concessions?

The bets in the "Kurile game" imposed on Russia by Japan are very high.

First,
the establishment of the Japanese control over the Southern Kuriles
gives Tokyo some serious natural gas reserves,
and will significantly increase the production of fish, crab, etc.

Secondly,
he transfer of the Southern Kuril Islands to Japan s
ignificantly limits the ability to maneuver the Russian Pacific fleet,
and thus will cause significant damage to the Russian defense.

In addition,
the transfer of the Southern Kuriles would be the starting point
for future territorial claims on other Kuril Islands and Sakhalin.

The notion of the "northern territories" in Japan is very vague.
There are quite strong movements in the country
advocating the return of all the territories lost in 1945 to the land of the rising sun.

In addition,
in the event that the Southern Kuriles are given to Japan,
others wishing to expand their borders at the expense of Russia
will be noticeably more active.

It is one thing if Russia voluntarily conducts demarcation of the borders,
and a completely different one
if it looks like surrendering to someone's arm-twisting.

Estonia is another country that has explicit territorial claims against Russia.
In addition, Finland and Latvia have rather powerful nationalist movements
that also require Russia to make some territorial concessions.

Earlier, under Yushchenko's government,
Ukraine also dreamt of adding some territories at the expense of Russia.

Chinese also have not forgotten about the lands in the Far East
"unfairly" detached in the Tsarist times.

Given that Moscow understands the strategic importance of the Kuril Islands for Russia,
it can be assumed
that such ideas of the main Japanese diplomat will remain the naive dreams.

Therefore, under these circumstances
the Japanese dream to push the right decision looks very insubstantial.

In particular, this is obvious from the reaction of the Russian Foreign Ministry
that has repeatedly answered
the claims of Tokyo saying that visits of the highest representatives of the Russian authorities
to the Southern Kuriles are strictly an internal affair of Russia.

Interestingly enough, in many ways
the Japanese overreaction was due to the fact
that Moscow only recently started thinking of its Far Eastern suburbs.

In the 1990's, when Moscow had forgotten about the distant islands
that were living their own unenviable lives,
Tokyo intensely courted the residents of the Kuril,
hoping that the archipelago, neglected by the center,
will fall into the Japanese hands like an over-ripe apple.

Now the situation has moved forward.
Although the problems of the Kuril Islands,
including their Southern part,
remain largely unchanged,
there are some positive developments.

For example,
the Russian authorities intend to improve transport connection of the islands
with the mainland through the construction of new airports and docs,
as well as
to strengthen the island's defense.

Russia is currently heavily investing in the Kuril Islands,
including the Southern part.

All this suggests
that
Russia does not intend to give up its territories
to anyone interested.


This is what causes the impotent fury of the Japanese politicians.

Sergei Balmasov
Pravda.Ru


関連サイト:ソ連軍兵士の強姦(レイプ)・殺戮・暴行・強奪


ドイツにおけるソ連軍兵士の強姦(レイプ)も凄まじいものであつたが、
満州・北朝鮮を占領したソ連軍兵士も、日本人女性に対してほしいままに
強姦(レイプ)を行った。公式統計は一切ない!

編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。2人の娘を伴う老婦人は、
かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。元山か清津にては
(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)人数不足せるを
(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」



朝日新聞1946年(昭和21年)4月24日第3面は、
女性国会議員の談話として、「満州の婦女子は、脱走者の話によると、
四割位は混血児を生む運命を背負っているらしい」と報じている。

朝日新聞 1946年(昭和21年)4月24日第3面より転載


「脱走者の話によると四割位は混血児を生む運命を背負ってゐるらしい」
との記事に胸が痛む思いがする。




ソ連の日本人捕虜虐待・参考情報
不法非道なソ連の人道に反する行為

1945年8月23日のスターリンの指令によってソ連軍は、ポツダム宣言に違反して
日本人軍人・民間人をシベリア等へ拉致移送して、奴隷として虐待し、酷使した。
その総数は70万人以上である。さらに満州・北朝鮮にいた情報機関関係者を
1万2000人逮捕して、シベリア等へ移送した。逮捕された情報機関関係者の中には
女性のタイピスト、通訳、看護婦も含まれていた。

シベリア等での、劣悪な住居環境、過酷な労働、不満足な食糧支給による飢餓などによって、
16万人以上が死亡した。最初の1945年の冬に10万人以上が死亡した。
後日、かろうじて日本へ帰還できた人たちの中から、抑留中の苛酷な労働や、シベリア桂肺などの
病気や、極度の栄養失調の後遺症によって、10万人以上が障害者や重病人となった。

ソ連軍は満州に駐在していた日本軍の食料・被服・薬品などはもちろんのこと、その他に
満洲国内にあった日本銀行券・朝鮮銀行・社債・株券・ダイヤ・金塊、工場の設備・機会・製品・
原料など、満洲にあった財貨を徹底的にソ連領内へ持ち去った。

さらには、ソ連は満洲から、田んぼの稲、事務所のイス・机、ドアのノブ、日本人住宅のフスマや畳
など、とにかくありとあらゆるものを強奪してソ連に運んだ。

拉致移送した日本人兵士や民間人たちからも、腕時計・万年筆に始まり、つぎつぎに持っていた
物品を略奪した。まったく想像もできないことではあるが、日本人を殴り倒して、金歯の金まで
剥ぎ取ったのである。 

拉致移送された日本人捕虜(軍人及び民間人)は、極東地区、中央アジア、シベリア、モスクワ以東の
ヨーロッパ・ロシアの2,000余りの収容所において、炭鉱・鉱山における採掘労働、森林伐採、
製材、鉄道敷設、道路港湾建設、農漁業、建物建築などで、奴隷として酷使された。
逃亡を企てた者は容赦なく射殺され、見せしめのため遺体を晒された。

奴隷労働の中でも、鉄道建設や炭鉱・鉱山における採掘作業は、最も危険で過酷なものであった。
スターリンが最重視したバム鉄道建設には、「枕木1本ごとに日本人1人の亡き骸が眠っている」
と言われるほどのおびただしい死亡者を出した。

加えて極度支給食料不足と非衛生的な住居環境という厳しい生活条件の中、伝染病が蔓延した。
事故死、自殺などでも多くの死者が出た。



ソ連の日本人捕虜虐待・参考文献:
島根大学名誉教授 吉野蕃人(よしの しげと)著 『シベリヤ抑留記』
原書房 1995年8月発行  第80頁〜第85頁

極度の栄養失調と重労働で死亡者が続出した

日本へ帰国させるというソ連軍の徹底した情報統制のもとに、関東軍将兵をはじめとした
日本人捕虜は、よろこんで輸送列車に乗り込んだ。

列車がシベリアに向かっていることを知るまで、だれもが「東京ダモイ」を信じていた。
バイカル湖をみても日本海だとさけんだと伝えられているほどだ。

もしシベリア送りとわかっていたら、関東軍将兵は、あんなにおとなしく連行されることは
なかったであろう。

こんな情報管制のもとに、食糧の備蓄もなく、防寒衣服ももたずに輸送されたことが、
シベリアに入った年の冬、日本人捕虜は悲惨な生活を強いられることになった。

シベリアに到着した捕虜を待ち受けていたものは、餓死すれすれの食糧事情と
重労働であった。そのうえ日本の冬を上まわる寒さのなかでの夏服だから、
エネルギーの消耗は言語に絶するものがある。

日本人捕虜に対する1日の配給量は、パン300グラム、穀物330グラム、肉30グラム、
魚130グラム、野菜800グラム、味噌30グラムが支給量だったといわれているが、
そんなものは雲のかなたの目標値でしかなかった。

当初は米も肉も魚も野菜もまったくないコウリャンかトウモロコシの粉をドロドロに
炊き込んだ粥だけの食事。やがて配給になったパンにしても水分の多い黒パンが
わずかばかり。

人間は慢性的飢餓の状態におかれると、食べ物に対する執着心がいっそう高まってくる。
おいしい食べ物へのあこがれから、口をついて出てくるのは食べ物の話ばかり。
いまごろ内地では餅を食べてるだろうな。いや寿司だ。松茸の味はかくべつだ。
きびしい捕虜生活ではこんなことを話し合うことで気をまぎらすことしかできない。

そんななか、あまりにもひどい食糧事情に、捕虜はつぎつぎと栄養失調になっていった。
もともと、ソ連からの食糧支給は将校と兵隊とで差があった。

労働を強いられる下士官・兵と、労働に従事しない将校との差で、労働量からして
兵隊に多く、将校に少ない配給量と決められていた。だが、関東軍という組織のなかでの
実際の配分は、将校に厚く兵隊に薄かった。

さらに兵隊のなかでも、階級と年次によって差があった。
こんななかで、もっともみじあな生活を強いられたのがこの年、内地からやってきた
現役の初年兵と、終戦直前になって召集された明治後期から大正初期生まれの
ロートル初年兵たちだった。

初年兵たちには、日々の重労働のほかに、抑圧された日々の内務班の生活がある。

こんな条件に置かれた環境から、この兵隊たちにいちはやく栄養失調の症状が現われた。
そもそも、栄養失調の原因は、栄養素の摂取量が収容所の寒さと労働に必要な量に
およばないことによっている。餓死すれすれの食糧での生活から感じた自覚症状は、
まず倦怠感となって現われた。とにかく根気がなくなり、思考力が低下してしまう。
気力もとみに衰えてくる。

栄養失調になった人は、骨と皮だけとなって最後には立つこともできなくなる。
なかにはそれと反対にむくんで水ぶくれのようになる人もいる。

収容所の地形はあちらこちらに起伏があった。
そこを自分の手で股をもちあげるようなしぐさで右、左と交互にゆっくりと足を出している人を
みかけると、ああ、この人も栄養失調になったなあとわかる。

栄養失調になると歩くのも苦痛となるのだ。
また、栄養失調になると行動に異常がみられる。
平素はうつろな目をしていても、食べ物をみると目が輝くのだ。
そして、配給されたわずかの食事をあちらの容器に移し、こちらの容器にと移して
もてあそぶかのようにして最後に口に入れる。

栄養失調がひどくなるにつれ、やがて足も立たなくなる。
しかし、食べることへの執着心はいっそう高まる。
だから、死ぬまぎわまで食べている。
缶詰の空き缶に入った粥を口に入れながら力つきて倒れていく。
これが栄養失調者の幕ぎれの特徴であった。

われわれは小学校一年生のとき、小学校で修身の時間に木口小平の話を教えられた。
日清戦争で進軍ラッパを吹いていた木口小平は、敵の集中砲火を受け銃弾に倒れた。
それでもラッパを吹きつづけ、進撃する味方の士気を鼓舞したという。

「木口小平は、敵の弾に当たりましたが、死んでもラッパを口から離しませんでした」と
くりかえしくりかえし声に出して暗唱したものだ。

日清戦争から50年たったシベリアでは、
「捕虜は、栄養失調になって、死んでも食器を口から離しませんでした」という
悲しくも痛ましいことばが生まれた。

12月になると、つぎつぎと重症の栄養失調患者が収容所から運び出されるようになった。
話によれば病院に入れるそうだと噂された。
しかし、そんな噂はあてにはならない。
労働力として不要になった捕虜だから、どっかに連れていって、まとめて殺してしまう
のではないかとささやかれた。

だから、足腰が立たなくなって入院していく栄養失調の人は、
収容所から連れだされるときは、「ああ、これで終わりだ」と観念せざるをえなかった。

この時期・同郷の初年兵、藤原は栄養失調でビロビジャンの病院に入院途中、
こと切れてしまっとたときかされた。同じ班だった石川も栄養失調で死んでしまった。
12月を迎えるころには、初年兵の愛媛の重松も、同郷の小池も、栄養失調で立つことも
できなくなっていた。12月になって、彼らもビロビジャンの病院に入院して行くことになった。

こんな雰囲気のなか入院していく彼らの気持ちはどんなものだったろうか。
年の暮れが近づくころには、私のまわりには初年兵はだれもいなくなってしまった。

入院したときくにつけ、私は「明日は私も同じ道を歩むようになるかもしれん。
はっきりしたことのわからない現状のなかでは、落胆することなく生きていてくれよ」と
彼らの気持ちを励ます心でいっぱいだった。

ここまでひどくならなくても、捕虜のほとんどが程度の差こそあれ、栄養失調になりながらも
過酷な収容所の作業を続けなければならなかった。

ソ連の無計画ともいえる食糧供給によってもたらされた悲惨なドラマは、シベリアに入ってから
翌年3月ごろまでがもっとも多かった。つまり、この時期、シベリアで、もっとも多くの捕虜が
生と死の振るい分けをされたわけだ。

もちろん、その死者の圧倒的多数が栄養失調によるものだった。
捕虜という拘束された状態で、飢餓感をいっそうつのらせる日々に、
われわれは一条の光明をもみいだせなかった。



ソ連の日本人捕虜虐待・参考文献:
辺見じゅん著 『収容所から来た遺書』
文藝春秋 1989年6月発行  第20頁〜第22頁

飢餓地獄と重労働地獄

鐘が不気味に鳴り響き、重労働の一日を告げた。
夏は午前3時になると日が昇り、夜は午後9時まで明るい白夜である。
しかし、冬は朝の9時を過ぎてもうす暗く、午後の4時になると夕闇に包まれる。
青空と太陽をおがめる日はひと冬にそう多くない。
雪雲の重くたれこめた、うっとうしい冬空の日がつづき、しばしば吹雪く。

よほどの吹雪か零下40度を下回らないかぎり、作業に変更はなかった。

食事はひどいもので、一日に黒パンが350グラム、
朝夕に、カーシャと呼ばれる粥(かゆ)が飯盒(はんごう)に半杯ずつか、
野菜の切れはしが二、三片浮かんだ塩味のスープ、砂糖が小さじ一杯支給されるだけだ。

毎日が空腹との闘いだった。

松野が初めて黒パンを食べたのは、護送中の貨車のなかである。
黒パンを口にしたとたん、ザラザラした舌触りと独得の酸っぱい味が異様だった。
ところが、ラーゲリに入れられて一ヵ月もしないうちに、
黒パンがこの世でいちばんうまいものに変った。

黒パンの分配のときは、みんな目の色を変えた。
食事当番が炊事場から黒パンを受け取ってくると、
「蚕棚」にいる者たちの目が、当番のパンを切り分ける手に集中する。

一本の黒パンをだいたい七、八人で分けるのだが、厚さのわずかの違いも見逃さない。
とくに外側の堅い部分は腹持ちがいいので、その部分がだれにあたるかが
最大の関心事となった。

黒パンは元々、作業場に携帯していく昼食用なのだが、
最初のうちは空腹のあまり朝食のときに食べてしまい、
夜まですき腹をかかえての作業の長くて辛いことといったらなかった。

そこで、切れの黒パンを、朝、昼、晩の三食分に分け、
それをさらにサイの目に千切って水でふやかして、
少しでも空腹感をまぎらわす工夫をして食べた。

わずかの黒パンをめぐって、怒鳴り合ったり、
掴み合いの喧嘩(けんか)になることは再々だった。

黒パンにまつわる悲惨な話はどこのラーゲリでもこと欠かない。
食事当番がなに者かに頭を殴られて黒パンを奪われるという騒ぎもあった。
真相は、一度でいいから満腹になりたいと、
当番自身が自分の頭を殴って、奪われたように見せかけたのだ。

また、炊事場から黒パン一本を盗んだ男が、夜中に夢中で腹につめこんで
水を飲んだとたん、胃の中でパンが急激に膨張して、
もがき苦しんで死んだという事件もある。

仲間たちはそれを知ると、気の毒に思うより、
「あいつは腹一杯食べたので、死んでも本望だったろうな」と、
かえって羨ましがったりした。

松野自身、夜ごと黒パンを腹一杯食べる夢を見るようになった。
ラーゲリの近くには馬鈴薯畑が広がっていた。作業現場への道すがら、
監視兵の目をかすめて、畑から盗んで食べる者があとを断たない。

ある日、作業場の帰りに、馬鈴薯と間違えて凍った馬糞を拾ってきた男もいる。

営内や作業現場で獲えたネズミや蛇や蛙やカタツムリなどは大ごちそうの部類で、
運悪く毒草や毒キノコを食べて気が狂って暴れる者もでた。



ソ連の日本人捕虜虐待・参考文献:
いまい・げんじ(今井源治)著 『シベリヤの歌−兵士の捕虜記』
三一書房 1980年4月発行  第170頁〜第178頁

重労働地獄 
体力の劣る者を死に追いやった
ターチカ土盛り作業


メーデーの休みが終って間もなく、収容所全体が異様に緊張した雰囲気に包まれて、
いよいよ本格的作業に突入することになった。

広大な原生林や湿地帯を貫いて敷設する鉄道の、予備工事たる森林伐採等その他は
着実に進み、延々、万里の長城のごとき鉄道路盤建設の土盛り作業の幕が切って
落されたのである。

これは文字通りの人海作戦だった。沿線に配備された幾万の日本人捕虜の労働力は
その体力の限界を超えてこの大作業に投入された。

ターチカと称する一輪車の手押し車を使ってのこの強制労働のために、
体力を消耗しつくした日本人捕虜は、次々と倒れていった。
日本人捕虜は、死にいたるこの強制労働を
ターチカ地獄として恐れた。

一昔前、日本でも使われていた一輪手押し車

粗削りの白樺の木組みに、底板も側板も松の割板をぶっつけただけの一輪車ターチカ
鉄輪が土にめり込むので、細い丸太を組合せたタラップを通路に敷き、その上をゴロゴロ押して、
私たちは明けても暮れても、蟻(あり)の様に休みなく土を運びつづけた。

毎朝、作業場に着くと、路盤を挾んで各分隊は受持の場所に入り、プララープ(作業監督)から
指示された分隊長は、部下全員を一線に並べ、白樺の杖で作った物差で計り、例えば、高さ
2メートルの崖を、巾2メートル、奥行をいくら、といった工合に、めいめいの作業量を割当てた。

こうして与えられたノルマは、どんなことがあっても、その日のうちに完遂せねぽならない。
十字鍬で掘り崩し、円匙を使って土をターチカに満載し、やっとこさと重い舵棒を持上げて、
タラップの上をゴロゴロと押してゆく。路盤に着くと揮身の力をこめて、ターチカをどんと反転させて
土をぶちあけ、ほっと一息、空になったターチカを押して急ぎ帰って又、土を積込んでは押してゆく。

往路と帰路の定められたタラップの上を、ぐるぐると鎖の輪の様に休みなく運んでは帰る
ターチカの列! どんなに苦しくても、立ち止れば、たちまち、後続のターチカが聞えるし、
第一、足を止めていてはノルマが果せない。

ただもう、気息奄奄(きそくえんえん)、「小休止」の声を聞くや、みんな、その場の土の上に
ペタリと倒れて息を休め、「作業はじめ!」の号令で、むっくりと起き上って、又もターチカ
舵棒を握り、円匙を揮いはじめるだけである。

こうして無我夢中に働きつづけても、午後になると労働力の個人差は歴然として現れる。
生身の肉体をもって土に取り組む原始的な、画一的な労働条件にあっては、もはや
頭脳も教養も役には立たず、只、体力の差と、労働経験の多少だけがものをいうのだ。

夕方の作業終了時がくる頃、辛うじてノルマを果し得たものはよいが、周囲の者に比べて、
まだ、自分だけが大量の土を運び残している場合は実に辛かった。

土を掘り取った跡をみんなと一線に揃えねばならず、全員が終らないと分隊が帰営する
ことが出来ないのだから、仲間達がいらいらした表情で、腰を下して待っている中を、
自分ひとりが最後の力を振りしぼって、残した土を運びつづけるときは、ああもう、
このままバッタリと昏倒してしまいたい、とさへ思った。

あるとき、そんな私の横から、さっと自分のターチカを曳き入れて、運ぶのを手伝ってくれた
若者があった。私は涙が出る程、嬉しかった。大柄で、スマートな優しいその若者は
池下仲敏と云って、岡山県上道郡出身だったと覚えている。

体力の劣っている者は、きまって毎日、遅れざるを得ない。なんぼ一生懸命
やっても、血を吐く思いで働き続けても、どうしてもついて行けないのだ。

「あいつ、また遅れてやがる……」と、周囲から白い眼で睨まれないために、
隣の者の土の減り工合と自分のそれとを見比べつつ、必死になって追いつこうとの焦り !

いくら何でも、そうそう毎日手伝って貰うなんて、肩身の狭い思いはしたくない。
私は、ターチカに積み込む一回量を多くするより方法が無いと考えたが、体力のすぐれた者は、
その積込む円匙の手さばきからして、はじめから違うのだ。積み込んだ上にも積み込み、
精一ぱいの力で踏ん張ってターチカを押して行くと、足に巻いたゲートルの下にまで、ドキドキと
はげしい動悸のうつのが感じられた……。

土というものは掘れば掘る程、量が殖えるようだ。自然土の崖を十字鍬で掘り崩すと、
土の量はおどろく程に殖えた。なんのこれしき、と思って運んでも運んでも、
なかなか渉らなかった。そして細い砂質の柔い土ならば、掘り易かったが、運悪く、荒い砂礫や
石塊の層に打つ突かると、円匙はガツンとはね返されて、腹の芯までピーンとひびいた。

はじめのうちは低かった路盤が、日に日に高くなり行くにつれて、足場の上に架けた
タラップの上を押して行くときなど、グラリと傾いたターチカの重みを支えかねて、
よく、そのまま転落することがある。粗末なターチカは、たちまち破損し、それを
修理している間に、又しても他の者より遅れねばならなかった。

増大する絶望的な苛酷なノルマ

他の仕事、たとえば森林伐採だとか、道路修理、建築、其の他は、それが一時的に
どんなに激しい作業であっても、そこには多少の息吐く間もあり、若干乍ら仕事への興味も
無くは無い。

だが、ターチカ押しだけは別だ。思考も智恵も無用、只、肉体力の限りをつくして、
真正面から土に取り組み、掘っては積み、積んでは運ぶ、いつ終るとも知れぬ果しない
単調な仕事だ。しかも、只、機械的にやってさえいればそれでよいのならまだましだが、
このターチカ作業には、物凄い体力の消耗と、絶望的な苛酷なノルマの重圧がある。

しかも、ソ連側は否が上にも、悪辣極まるあの手、この手を使ってきた。
先ず、その日のノルマを完了した分隊は作業終了時間を待たずとも帰営させると云い出した。

馬鹿正直なヤポンスキー達は一刻も早く収容所に帰って、夕食の黒パンとスープにありつきたい、
休みたい一心から、競い合い、各分隊長は他隊に負けじと部下を督励した。遅れる者を叱陀し、
強者にそれを手伝うことを命じ、兎に角、分隊としての作業終了を急がせるのであった。

斯うした必死の競争の結果、各分隊共に殆んど時間中にノルマ完了出来る迄に漸く漕ぎつけた
のである。

と、みるや、ソ連側は悪辣不法にも、一躍、ノルマの大巾引上を通告して来た。

「そんな無茶なはなしがあるものか !」と抗議すると、ソ連側はしゃあしゃあとして言った。
「今まではヤポンスキー達が馴れないので、仮のノルマであった。
これが、ほんとうの正しいノルマなのだ」

畜生 !、小休止の時間も惜しんで、全員一致して悪戦苦闘の結果、得たものは
ノルマの引上であったとは……。

しかし、それがどんなに死物狂いの努力であったにしても、兎も角、無理すればどうにか
出来るといううことを立証して了ったということはソ連側にとっての思う壺だ。
一且、締めた綱は絶対に緩めないのがソ連の基本方針なのだから……。

苛酷な上に更に増大された苛酷なノルマに向って、
私たちの血みどろの重労働は続く。


ああ、いつになったら私たちは帰れるのか、果して、ほんとうに帰らせるのだろうか ?
そんな、ダモイの話さへ交す暇も無く、ぎりぎりに精根尽きる思いでターチカの舵棒を
握り、円匙を揮ったが、不法なノルマの壁は厚かった。

茨城県出身の関さんは、みるからに篤実な農民出身者で、私よりは労働に馴れた人
だった。ターチカの土を円匙の背でピタピタと叩いて積めるだけ積み込み、あり合せの紐や
ベルトを繋ぎ合ぜて舵捧に結えつけ、それを首にかけた。そして、首の力と、両腕の力で
やっと舵棒を持ち上げて、歯を食いしばってターチカを押して行くさまは丁度、
(くびき)に縛りつけられた牛を見るようで痛ましかった。

こうまでして能率を上げようと努力した関さんの仕事は、なるほど私たちよりは捗ったけれど、
その顔色はみるみる悪くなり、眼は落ち凹み、やがて、栄養失調者として
どこかへ送られた。
その後の消息は分らない。

悪辣非道なソ連収容所当局の増食、減食命令

ソ連側の打った次の手は優秀作業分隊に対する増食である。
「昨日は**分隊が増食を貰ったそうだ」などと、みんなは羨しげに話し合った。

箱崎分隊も、何かの拍子にそれを受けたことがあった。その日の夕方、喜び勇んで
帰営してみると、定量の350グラムの黒パンの上に、増量分50グラムのマッチ箱程の
小片がチョコナンと載っかっいた。たったそれだけのことでも、増配のある日は、
朝からいそいそと、「今夜は増食があるぞ !」「黒パン、350グラムに、プラス50グラムで
400グラムだな」などとささやき、分隊は活気づいた。

ほんの一口にも足りない黒パンが増配されるというだけで、
大の男が一日中、子供の様に、嬉々として働いた。


飢えさせておいて、食いもので釣って働かせようとするソ連側のやり方は、丁度、
軛(くびき)に縛りつけられた牛の、鼻先すれすれに草の束を吊して、それを食おうとして
前進する牛の力を利用するのに似ている。が、餌に釣られて涎(よだれ)を垂らし、
首を懸命にのばして働く牛の愚かさを笑うことはできない。

なんというヤポンスキーの愚直さ、馬鹿正直さ。
まだある。次の手は捕虜個人に対する増配、減配だ。


「分隊長は毎日、部下の中から2名のハラショーラボータ(優秀労働者)を選び、
これには2割の増食を与えよ。そして同時に4名のニニハラショウラボータ
(不良労働者)を選び、これには1割の減食を実行せよ」という命令が出た。

このため、毎日、ソ連側に個人別実績を報告しなければならなかった。

不良労働者とされた者から削った分を、優秀労働者とされた者に与えるのだから、
分隊としての総量は変らないわけだ。

労働能力には個人差がある。弱者はそれなりに必死になってやっており、決して
サボっているわけではない。体力が衰えて働けない者から食事を削ったら、
弱者は益々衰えて犠牲者の増加に拍車をかけるだけであった。

そして親しい仲間同士の一方が、乏しい食事を削られて恨めしそうに見ている目の前で、
それを貰った一方が多く食うなどということは、いくら浅間しくなり下ったとしても、
平然と出来ることではない。

ソ連側の厳命とは云え、これには心ある分隊長は困った。命令ならどんな命令でも
忠実に実行する軍人精神を発揮して実施した分隊長もあったが、中には、増減を順番に
やったり、人名の報告だけで胡麻化してしまった分隊もあった。

日本人の感覚としてはこれが当然だろう。



ソ連の日本人捕虜虐待・参考文献:
高杉一郎著 『極光のかげに シベリア俘虜記
岩波文庫 1991年5月発行  第206頁〜第208頁

初めて体験させられた重労働

私が苦しんだのは、むしろ労働への恐怖であった。
私にはかって肉体労働の名に値いするような労働の経験がなかった。

私は製材所勤務の作業隊に配属された。

製材所は、収容所を出て4キロ近く荒野のなかの一本道を歩いてゆくと、
密林の縁に、小さな川に沿って立っていた。

壁に赤いペンキで製材工場と書かれた稚い(いとけない)文字が読まれるが、
それは工場というにはあまりにも見すぼらしい、半ば朽ち腐れたバラック式の建物であった。

製材所の周囲は、塵捨場のように汚れ、散乱している。
原木も、背板も、バタも、オガ屑も、まるでわざとそんな並べ方をしたのでもあるかのように、
無秩序な上に、いたるところに自然の便所があって、足の踏み場もない。

しかし、内部に入ると、そこの壁には、これもおなじように稚い(いとけない)文字で、
私にさえわかる誤字を含んではいるが、つぎのような堂々たるスローガンが掲げられてあった。

「同志労働者、婦人労働者、技術者、技師諸君 ! 
 スターリン五か年計画を四か年で遂行しよう!」

「労働は、資本主義のもとでは、奴隷的、懲役的な義務であったが、
社会主義のもとでは、名誉なこと、栄誉なこと、勇敢と、英雄的な事業である!(スターリン)」

この小さな製材所の主要な任務は、バム鉄道建設用の枕木の生産であるが、
1交替時間(実労働8時間)に、およそ360本、1日(3交替時間)には1100本近くの枕木が
生産される。

機械は24時間ぶっ通して、一瞬も休みなく廻転した。
生産の工程について言えば、先ず、小川の上流から流されてくる原木を鳶(とび)で整理し、
ワイヤ・ロープで揚陸集材し、これを二人用の鋸で一定の長さに切り、移動丸鋸にかけて枕木とする。
さらに、その皮をむいて仕上げたのち、検査役のロシア人がこれを一等材、二等材と区別した記号を
しるすと、引込線附近のそれぞれの集積場に運搬して井桁に組む。

移動丸鋸の運転と、その他の主要な場所にはロシア人の労働者が熟練工として働いたが、
彼らはほとんど例外なく居住の制限を受けた囚人で、トロッキイが最高司令官であった当時の
赤軍の制帽−てっぺんの尖った、ヨーロッパの童話に出てくる悪魔の被るような帽子−を
みな被っていた。

バタとオガ屑の運搬整理には、この製材所で壁のスローガンが呼びかけているたった2人だけの
婦人労働者が従ったが、彼女たちは裸足(はだし)のまま担架をになって、まるで高麗鼠のように、
1日中駆けずり廻った。私は彼女たちが休んだり、話したりしているのを見かけたことがない。
それは言葉の正当な意味で、働いているというよりは、なにかに追いかけられているといった感じ
であった。

移動丸鋸に木材を送りこみ、できあがった枕木を送りだす仕事をあたえられた最初の1週間は、
私自身も口をきくことなどは思いもよらなかった。
8時間ぎっしり、一瞬といえども神経と筋肉を休めることができない。
眼を外らせば、その瞬間に丸鋸にはねとばされることは請けあいである。
(事実、この場所からはその後幾人もの外傷者がでた。)

私は、心身ともに綿のように疲労困憊(ひろうこんぱい)したが、
それでもなお休息することはできなかった。

機械はかたときも、とどまることがないからである。
渾身の抵抗力をこめて支えている木材を、稔りをたててたちまちのうちに食いつくす丸鋸に、
私はおそろしい生き物に対するような恐怖と憎悪を感じた。

ロシア人の労働者が、私を攻めたてるように運転してくるその機械を、私はできるものならば
破壊してしまいたいとなんど思ったかしれない。

19世紀のはじめ、英国のノッティンガムやランカシャで機械を破壊した労働者たちの心理を
私はひそかに想像した。

またあるときは、なにもかも投げ出して、大地に身を伏せて号泣したい欲望に駆られた。
しかしもちろん、そんなことはできるはずもなかった。

歯を食いしばって、私は苦しみに堪えた。
重労働となにげなくいわれるものの意味を、私はここで身をもって体験した。



ソ連の日本人捕虜虐待・参考文献:
石原吉郎著 『石原吉郎詩文集』
講談社文芸文庫 2005年6月発行  第98頁〜第114頁より抜粋

「ハバロフスクには、六分所および二十一分所と、いずれも捕虜時代の呼称を
そのまま踏襲した二つの収容所があって、いわゆるソ連の〈かくし戦犯〉
(サンフランシスコ条約の一方的成立に備えて、ソ連が手許に保留した捕虜・抑留者の一部で、
極東軍事裁判とは無関係に、ソ連国内法によって受刑したもの)
を収容していたが、
入所経路はまったくちがっていた。

六分所は、ソ連の強制収容所でももっとも悪い環境にぞくする
バム(バイカル.アムール鉄道)沿線の密林地帯から移動して来た日本人が主体で、
移動後の緩慢な恢復期に、バム地帯での身心の凍結状態から脱け出すために、
かなりアンバランスな緊張状態を経験しなければならなかった人びとが大部分を
占めていた。

人間の結びつきが恢復して行く過程もかなり特殊で、それも長い相互不信の期間を
必要とした。

入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、
ほぼ二回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、
年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。

私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、
ほとんどおなじ発想で行動した。

私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、
それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、
ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪が
かろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。

おなじような条件で淘汰を切りぬけて来た私たちは、
ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。
私たちが単独な存在として自我を取りもどし、
あらためて周囲の人間を見なおすためには、
なおながい忍耐の期間が必要だったのである。

昭和二十年、敗戦の冬、鹿野と私は相前後してハルピンで抑留された。
抑留のきっかけが、いずれも白系ロシヤ人の密告であったことも
奇妙な暗合である。翌年初め、鹿野は北カザフスタン、
私は南カザフスタンの収容所へそれぞれ収容された。
私の最初の抑留地はアルマ・アタであったが、
ここで三年の〈未決期間〉を経たのち、昭和二十三年夏、
選別された一部抑留者とともに北カザフスタンのカラガンダヘ移された。

翌年二月私は正式に起訴され、カラガンダ市外の中央アジヤ軍管区
軍法会議カラガンダ臨時法廷へ身柄を移された。

四月二十九日、私は他の独房の十数人とともに重労働二十五年という
予想外の判決を受けたのち、カラガンダ第二刑務所へ送られ、
想像もできなかった未知な環境での、新しい適応の過程をあらためて
踏みなおすことになった。

八月初め、この新しい集団は、炭坑に近い収容所に移され、日ならずして
私たちもその後を追った。この収容所は、短期間の刑事犯専用の収容所で、
私たちのような特殊な長期囚は収容できない所であったが、所長同士の
闇取引で、一時労働力を融通したことがあとでわかった。
翌日から私たちは土工にかり出された。

八月末、私たちはあわただしく刑務所へ送り返され、いくつかの集団に編成されて、
つぎつぎにカラガンダを出発した。私は先発の集団と共に囚人護送隊へ引渡され、
ストルイピンカ(拘禁車)でシベリヤ本線へ向けて北上した。
途中ペトロパウロフスクとノボシピルスクのニカ所のペレスールカ(中継収容所)を
経由した私たちは、案に相異してタイシェットのペレスールカ(中継収容所)に
収容された。このタイシェットがバム鉄道の起点であることを知ったときの、
私たちの不安と失望は大きかった。

日ならずして後続部隊が到着した。東は極東、西はウクライナ、
沿バルト三国に到る地域から続々と送りこまれて来たさまざまな民族によって、
ペレスールカ(中継収容所)はぼう大な民族集団にふくれあがっており、
私たちはたちまちそのなかにのみこまれてしまった。

判決にさいして、本来あるはずのないソ連邦の市民権を剥奪された私たちは、
ここで完全にソビエト連邦の強制労働体制のなかに押しこまれたのである。

十月の終りに近い頃、この地方をしばしばおそう苛烈な吹雪のなかで、
とつぜんエタップ(囚人護送)の命令が出た。私たちはつぎつぎに呼び出されて、
車輔ごとに編成を終り、夜になって引込線にはいって来た貨車に押しこまれた。
サーチライトに照し出された、厳重な監視下での異様な乗車風景は、そのさき、
私たちを待ちうけている運命を予想させるに充分であった。

それにもかかわらず、暗い貨車のなかに大きな樽が二つ用意されており、
一つが飲料水、他が排便用であることを知ったときの私たちのよろこびは
大きかった。〈走る留置場〉と呼ばれるストルイピンカ(拘禁車)での
経験から、人間は飢えにはある程度耐えられても、渇きと排泄には
ほとんど耐えられないことを思い知らされていたからである。

ストルイピンカ(拘禁車)では、排便は二十四時間に一回という、
忍耐の限度をこえたものであった。

私たちは貨車に乗りこむやいなや、争って樽の水を飲んだ。
飲めるうちに飲んでおかなければ、いつ飲めなくなるかも知れない
という囚人特有の心理から、飲みたくない者まで腹一杯飲んだ。
便器があるという安心もあったが、その容量まで考えて自制するような
余裕は私たちにはまったくなかった。
仮にあったとしても、すでに始まった混乱と怒号のなかでは、
どうすることもできなかったであろう。

発車後数時間で、はやくも樽をあふれた汚物が、床一面に流れはじめた。
私たちは三日間、汚物で汚れた袋からパンを出して食べ、
汚物のなかに寝ころんですごした。

収容所生活がほとんど無造作な日常と化した時点で、あらためて
私たちをうちのめしたこれらの経験は、爾後徹底して人間性を喪失して行く
最初の一歩となった。

十月下旬、沿線の密林はすでに雪に掩われており、汚物に濡れたままの
私たちの衣服は、みるまにまっ白に凍って行った。

私たちはただちに「コロンナ33」と呼ばれる収容所へ追いこまれたが、
この日から翌年秋までの一年が、八年の抑留期間を通じての最悪の期間
となった。それらの状況の詳細を語る余裕はない。
ただ私自身は、これらのほとんど「脱人間的」な環境を通過することによって、
鹿野が先取りしたペシミズムに結局は到達したと考えている。

バム地帯のような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。
(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が
与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、
その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。

ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」
という発想しかとらない。

バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場を
とるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかな
ペシミズムは人間を崩壊させるだけである。

ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミストに
なるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このような
オプティミズムから生れる)。

そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど
例外的な存在だといっていい。後になって知ることのできた一つの例を
あげてみる。

たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、
その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。

行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなして
その場で射殺していい規則になっている。

警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないこと
であるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。

しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、
列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように
固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。

なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている
十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、
囚人にとっていやなものはない。

彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。

犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。
したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、
身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。

私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を
死に近い位置へ押しやるのである。

ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだに
すさまじく入り乱れる。実際に見た者の話によると、
鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。
明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、
このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、
彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする
根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、
状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。
彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、
けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想から
はっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての
明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。

翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者は
ふたたびタイシェットに送還された。私たちのほとんどは、
すぐと見分けのつかないほど衰弱しきっていた。

集結後、日ならずして、ふたたびエタップ(囚人護送)が編成され、
シベリヤ本線を東へ向けて私たちは出発した。このときは偶然、
おなじ貨車に鹿野と乗り合わせたが、疲労のためほとんど
口をきくこともなく、なかば昏睡状態のままハバロフスクヘ到着した。
到着後私たちは、すでに捕虜が帰還したあとの六分所に収容されたが、
健康診断に立会った軍医が容易にその理由を信じなかったほど、
ほとんどが衰弱していた。

このときから、私たちの緩慢な〈恢復期〉が始まる。待遇が一般捕虜なみに
切りかえられたこともあって、健康の恢復は思ったよりも急速であったが、
精神的な立直りは、予期しない逆行現象をもまじえて、試行錯誤に近い
経過をたどった。

誰もが精神的に深く傷ついており、もっとも困難な状況でのお互いの行動を
はっきりおぼえていた。

わずか一年の強制労働によって、人間として失なったものは私たちには
大きすぎた。

それらのひとつひとつを取り戻して行く過程は、とりもなおさず、
人間としての痛みと屈辱を恢復して行く過程となった。
一年後、ほとんど健康を恢復したあともなお、
私たちの精神は荒廃したままであり、およそ理由のない猜疑心と、
隣人にたいする悪意に私たちは悩まされつづけた。」

エセ裁判によるソ連の日本人殺害・重労働虐待



デタラメ極まるソ連の【エセ裁判】【戦犯?】虐待

昭和31年(1956年)8月29日開催の海外同胞引揚及び遺家族援護に関する
調査特別委員会第18号で、中曽根康弘元首相のブレーンとして著名な
瀬島龍三氏
は、ソ連が【戦犯裁判】と称して行った【エセ裁判】が、
いかにデタラメ極まるものであったか
について証言した。

一例として「ある上等兵は、ハルピン特務機関で当番兵をしていたとの理由で、
私と同じ日に、同じ軍法会議において、
【国家反逆罪】「資本主義幇助(ほうじょ)罪」で25年の刑を受けた」と証言している。

このままでは、全員、死んでしまう

「このままでは、全員、死んでしまう」とソ連収容所当局の度を超えた
【戦犯?】虐待で追いつめられた日本人たちが、冷酷無慈悲なソ連収容所当局に、
絶食という、文字通り、必死の抗議を行ったのがハバロフスク事件である。

ソ連収容所当局、及びソ連人現場監督の日本人【戦犯】に対する基本的な態度は、
従順な日本人を徹底的に搾つて自分らの功績をあげること、
日本人
【戦犯】は最も憎むべき重大犯罪人であるから死ぬまで酷使する
ということであつた。

殺害目的で病弱者を営外作業に追い出す

1955年(昭和30年)春頃から、私たち日本人の建康状態は悪化しつつあつた。
同年12月19日、ハバロフスク事件発生当時、私たちの健康状態は危機に瀕していた。

その直前、11月と12月、私たちのての生命にたいする不安を決定的ならしめる事件が
相次いで起こった。

11月26日、政治部将校マーカロフ少佐、および分所長スリフキン中尉が立会つて、
当時、営外作業不適で、営内軽作業として麻袋修理作業に従事していた者、
および作業休で休養中の者に体位検査を行い、
これらの病弱者中から、日本人26名を営外作業に適すると検定して、
営外作業に追い出した。

これらの病弱者たちは営外の建築作業に従事できる健康者ではない。

いかに無能とはいえ、医者であるリトワーク軍医少佐の医師的良心は
かようなことを許さなかつたである。


しかし病弱者を営外作業に追い出す決定は、
政治部将校マーカロフ少佐と分所長スリフキン中尉によって、
医者の診断を無視して行われた。


選ばれた本人たちは、到底、営外作業に出る体力はないこと訴えた。
これが受け入れられるはずもない。
彼らは各方面に請願書を出した。
班長も請願書を書いた。
日本人の現場長も請願書を出した。

現場長、班長らは、第16収容所長マルチエンコ大佐、
政治部将校マーカロフ少佐、分所長スリフキン中尉に
直接談判さえも試みた。

しかしこれを受理するようなら
始めから病弱者たちの営外作業への追い出しはしない。

26名の病弱者たちは、零下25度の寒空の営外作業に出るより外なかつた。

そして10日も経たないうちに、彼らは前以上に悪化した病勢となつて、
再び営内に帰らざるを得なかつた。

日本人多数の命を預つて苦斗している現場長4人は、事の重大さと、
今後もこの種事件の頻発を憂慮して、その根本的解決をはかるため、
第16収容所所長マルチエンコ大佐に会見を求めた。

しかし第16収容所所長マルチエンコ大佐は「忙がしい」「居ない」といって
会おうとしなかった。

そうこうしているうちに、私たちが懸念していた最悪の事態が発生した。

12月15日、政治部将校マーカロフ少佐と、分所長スリフキン中尉は、
またしても営内残留の病弱者を集めて検査を実施した。


今度は前回とは比較にならない大規模なものであつた。

本検査によつて16日から営外作業を命ぜられた者は、驚くなかれ、
日本人だけでも65名であった。

(その後私たちはこの65名の当時の病状を詳細にわたつてモスクワ中央へ報告した)

病弱者65名は全員、六建現場に配属された。

あらゆる嘆願はなされたが、すべては無効であつた。

16日は明けた。

65名の老人病弱者は私たちとともに
零下25度の寒風下をトラックに乗つて現場にむかつた。

現場に出たものの実際問題として労働のでぎる人は
一人もいるはずがない。

現場長も班長も班員もこれらの病人に作業をさせようとは思つてもいない。
どこの班でもすべて休憩室に入れて温く休ませた。

だがこれらの病弱者にとつては、この寒空の現場と収容所との往復それだけで
既に病勢は悪化し始めたのである。

僅か1日の往復で血圧170、180。
なかには200を突破するに至つた人が3名に達した。

現場長も班長も本人たちも必死になつて嘆願運動を行つた。

しかし16日の夜は何の回答も得られなかつた。

明けて17日、出場時になつても収容所幹部は
軍医でさえも、誰も出勤してきてはいない

囚人の悲しさで、作業休を貰つていなければ
如何なる状態にあらうとも休むことは許きれない。

それは非合法のサポタージュとみなきれてしまうのだ。


「病弱者営外作業に追い出し」「病弱者殺害が目的」であった。

六建現場では17日の午後、現場長が招集した緊急班長会議が開かれた。

全班長は、異口同音に、.日本人健康状態の一大危機を訴え、
今後とも収容所側がこのような政策を反復するのは必然であるから、
もしこのような情勢で今年の冬をすごすとすれば、私たちの儀牲者の数は予測できない。

また現在健康である者も全員倒れるに違いないと力説した。

しかしではこの難関打開の道は、ということになると誰にも名案は浮ばない。

ソ連側に誠意のないのは始めからわかり切つている。
ソ連側の政策がますます悪化することも見えすいている。

では退いてこの圧迫を甘受するか、それは私たちの自滅を意味する。
だが、これにたいする合法的な事態打開の道は
永年の私たちの経験がその無効を証明している。

私たちはこの5年来、3000通に上がる中央宛、地方宛の
嘆願書を出し、直接、ソ連側と数知れないほど面接し、交渉してきた。

このことから12月19日の作業拒否へ六建現場が火蓋を切つたのである。

一致団結して作業拒否する以外に取るべき道はなかった!



以上