長電の屋代線「Y列車で行こう!」〜屋代線・Y列車で行くノスタルジックなご案内

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屋代線の歴史

〜屋代線はまもなく開通90周年〜

【屋代線はまもなく開通90周年】

 屋代線(やしろせん)は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結ぶ長野電鉄の鉄道路線です。正式には河東線の屋代〜須坂〜信州中野〜木島の一部で、2002年9月18日から運行形態に合わせて屋代〜須坂間の正式な路線名称を「屋代線」としました。
 河東線は、小諸〜小海間を運営していた佐久鉄道(株)が計画・免許申請したものを、大正9年5月30日に設立した「河東鉄道(株)」が免許譲受した路線です。

 まず、大正11(1922)年6月10日に屋代〜須坂間(24.4km)、現在の屋代線が開通しました。屋代線はまもなく開通90周年を迎えるのです。当時列車は、1日7往復、片道1時間24分で運転していました。信越線に直結する屋代〜須坂間の開通は、須坂、屋代を中心とする生糸・硫黄・繭・石炭・日用雑貨の搬出入経路を大きく変えることとなりました。
 河東線としては、大正12(1923)年3月26日に須坂〜信州中野間(13.1km)開通。大正14(1925)年7月12日には信州中野〜木島間(12.9km)が開通し、河東線全線が開通しました。大正15(1926)年1月29日には、当時の最先端を行く技術を取り入れ、早くも屋代〜須坂〜木島を電化・電車運転が開始されました。2月6日のダイヤ改正で列車運転回数は7往復から9往復と増加、2時間40分かかっていた屋代〜木島間が、わずか1時間40分に短縮され、じつに1時間ものスピードアップが実現しました。

 その頃、大正12(1923)年11月25日、長野電気鉄道(株)が設立。大正15(1926)年6月28日に権堂〜須坂(11.5km)が開通し、同年9月30日、河東鉄道(株)と長野電気鉄道(株)が合併。商号を長野電鉄(株)に変更して今に至ります。当時の長野線開通での最大の難所は川幅800mを超える千曲川の架橋でした。平成21(2009)年11月6日まで現役で使用していた旧村山橋は、長野線開通当時から83年間使用した橋であった訳です。

 【国鉄電車の直通乗り入れ】

 昭和12年には、季節列車ではあるものの、長野駅経由湯田中、屋代駅経由湯田中の各路線に念願の国鉄客車の乗り入れが実現しました。通年運転を開始したのは、昭和37年3月1日で、上野〜湯田中間に国鉄のディーゼル急行列車「志賀号」「丸池号」が乗り入れ、屋代でうち2両を分割併合して直接乗り入れ、1日2往復の運転を行い、昭和38年10月からは169系国鉄電車で運転していました。
 また、昭和38年2月と3月には、名古屋発夜行列車急行「あずみ号」が、長野駅経由で2両を1本は木島へ、2本は湯田中へ乗り入れていましたが、期待はずれの乗車率に終わったようです。
 同様に貨物列車も昭和30年代後半の輸送の主流を占めた長野県特産のりんごの輸送として、大阪までのりんご専用貨物列車「やまさち号」も運行していましたが、長野電鉄の貨物輸送自体が昭和54年4月に取り扱いを廃止しました。

 そして国鉄電車の乗り入れは、乗客の減少により昭和57年11月15日に廃止となりました。

(参考文献:長野電鉄60年のあゆみ)

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