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清涼寺

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御所の南東に広がる地域、岡崎。平安時代には「白河」と呼ばれ、藤原頼通の白河殿を始めとする貴族の別荘地であった。岡崎という地名が表されるようになったのは、鎌倉時代初期。この白河は、平安末期の白河天皇の発願で1077年(承暦元)落慶供養の「法勝寺」以来、天皇及び皇后の御願の大寺が約70年の間に六カ寺造営され、いずれの寺も「勝」の字がつけられたことにより、「六勝寺」と通称され、栄えた。法勝寺に次、堀河天皇の発願による「尊勝寺」(1102年(康和4))、鳥羽天皇の発願による「最勝寺」(1118年(元永元))、鳥羽天皇の皇后・待賢門院(藤原璋子)の発願による「円勝寺」(1128年(大治3))、崇徳天皇の発願による「成勝寺」(1139年(保延5))、そして、近衛天皇の発願による「延勝寺」(1149年(久安5))の六カ寺であった。特に、法勝寺は、壮大な伽藍を持つ寺院であったという。しかし、これら六勝寺も室町時代に入り、次第に衰え、応仁の乱後は廃寺となったという。そして、今は、町名として残るのみとなった。
六勝寺最盛期の頃の白河の姿が、中々思いつかない。妙心寺や大徳寺の広大な境内を思い起こせば良いのだろうか。広大な地に並ぶ伽藍の数々。さぞかし壮観な佇まいがあったのだろう。それにしても、何故歴代の天皇や皇后が続いて寺院を創建していったのだろうか。単なる信仰心だけとは思えない。頃は、末法といわれた時代であり、極楽浄土を願ってのものであったではあっただろうが、そこに、己が存在感を世に示すものがあったかもしれない。やがて、保元の乱、平治の乱を経て武家社会へと変わっていく。そんな中で、後白河法皇が、蓮華王院(三十三間堂)を落慶していく。朝廷を中心とした社会から武家政治へと変わっていく時代の流れの中に、白河の六勝寺が存在し、やがて消滅してしまったのは、一つの象徴としてみる事が出来る。
そんな白河も岡崎として、明治以降、京都の文化施設の中心地となる。平安京遷都1100年を記念して、平安神宮が設置されたのが、明治37年、その前に京都市動物園(明治6)が開園し、昭和になり、昭和8年「京都市美術館」、35年「京都会館」、38年「京都国立近代美術館」と京都の文化・芸術を象徴とする区域となった。平成10年には、民営の細見美術館も開館した。

平安神宮

岡崎の東に流れる白川は、琵琶湖疏水と合流し、再び白川と疎水に分かれ、鴨川に注がれる。春の桜の時期、琵琶湖疏水の両岸の桜の木々の枝を身近に船で下るのも一興。

琵琶湖疏水

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疎水から分れた白川
疎水から鳥居

応天門を潜ると拡がる広い境内。正面が、大極殿、右が蒼龍楼、左が白虎楼で、平安京の建物を八分の五に縮小復元したもの。この社殿郡の背後に神苑と呼ばれる広大な池泉回遊式庭園が広がっている。四季折々の花が愛でられる。特に、桜の季節には、多くの人々で賑う。谷崎潤一郎作の「細雪」の中でも、桜を観に京都へ出かけるが、京都での最後をここ神苑の桜としている。
満開には、やや早かったものの、神苑の桜は、眼を楽しませてくれた。


紅枝垂れ桜と泰平閣
尚見館を望む 泰平閣

無鄰菴

琵琶湖疏水の南側に明治の元老 山県有朋の別荘であった「無鄰菴」がある。庭園は、造園家・小川治兵衛によるもので、この庭園が山県に認められ、平安神宮 神苑の設計も任されたという。それほど広くない庭園だが、京都の庭園らしからぬ芝生が広がる。建屋が洋館であったことによる発想の転換かもしれない。洋館2階の部屋で、山県有朋・伊藤博文・桂太郎・小林寿太郎の4人が集まり会議を開き、日露開戦を決定したという。近代日本の大きな岐路となった日露戦争の開戦秘話の一つだ。